ヘッセ/高橋健二訳『デミアン』(新潮文庫) の感想

私は何年も試み続けねばならず、結局なんにもなれず、なんの目標にも達しなかったかもしれない。
私は自分の中から一人出て来ようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。
なぜそれが困難であったか。

主人公シンクレールがデミアンの手引きによって真の自我を求めていく過程が描かれる。
デミアンベアトリーチェピストーリウス→デミアンエヴァ夫人 と適宜指導者が導いていく。


個人的にはベアトリーチェあたりが一番印象に残っている。
シンクレールが高等中学の時に、自分の身を持ち崩してしまうのだが、そこから復帰できたのは女性への思慕。偶然道端で出会った少女をベアトリーチェと名づけ、彼女の肖像を描いていく。次第にその肖像のベアトリーチェは実物とはかけ離れていき、最終的にはシンクレールの理想形態となり、彼の行動規範となっていく。


ちょっと抜き出しておこうか。

 私はベアトリーチェと一言も話したことはなかった。しかし彼女は当時私にきわめて深い影響を及ぼした。彼女はその姿を私の前にすえ、ひとつの霊場を私の為に開き、私を寺院の中の祈祷者にした。日一日と私は飲酒と夜のうろつきから遠ざかった。私はまた孤独に耐えられるようになり、好んで読書をし、好んで散歩をするようになった。


 突然な改宗はさんざんな嘲笑を招いた。が、今は私は、愛するもの、崇拝するものを持ち、再び理想を得た。生活は再び予感と多彩な神秘的な薄命に満ちていた。----それが私を再び無神経にした。あがめる像のどれいとして、召使としてであるにすぎぬにせよ、私はふたたび自分自身をわが家とするようになった。