桜庭一樹『少女には向かない職業』(東京創元社) の感想

働かない父親、現実に疲れる母親、そして少女。
「アル中無職の義父」と「遺産相続を目論む従兄」を少女二人で殺した中学二年生の物語。
視点は一人称で「あたし」こと大西葵。語り手は大西葵の過去回想といった手法。『少女七竈』が多面的な視点で書かれていたのに対し、こちらは『砂糖菓子の弾丸』と同じくずっと少女視点。いや、その2つしか読んでないんですがね。文体はラノベらのべしている感じ。自分が感じ取ったテーマ性みたいなものとしては、「少女の多面性」といったところか。特に「ソトとウチ」での表面の使い分けやキレる今時の中学生を「バトルモード」と捉えたと所にきゅんきゅんきたよ。

少女の表面の使い分け

大西葵ちんのお家は再婚で、最初は義父とも仲良かったんだけど、オトコって仕事無くすとヤル気も無くすじゃない?義父っちはあんよを怪我して飲んだくれてドメスティックバイオレンスなわけよ。ママンはそんな家族を養うのにパートで低賃金肉体労働なの。で、そんな家族関係に居た堪れなくて家ではすっごく大人しくて自己の主張が出来なくて溜め込んじゃうの。作品中では上記の状態のことを「原始人」状態と表現し、自分に辛いことがあったら積極的に解決を見出すのではなく、俯いて体を縮こませて感情が通り過ぎるまで待つ様子を表している。
そんな葵ちんだけど学校ではとっても元気なの。明るくて活発で冗談を言いクラスのムードメイカー。先生にとっても弄りやすい生徒なの。でもそれは、「学校」という特殊な空間で生き残るための自衛的案演技に過ぎない。はみ出ないようにソロソロと周囲に気を使いまくることに始終して自分を殺し、そこに安心を見出しながらも不安と気疲れを感じずには居られない。みんな取り繕った仮面のペルソナしか見なくて自分の本心なんか誰も分かっちゃくれないし、他人の本心なんか分かりたくもないの。
この「ソトとウチ」の対比がラノベちっくな文体で書かれているのでZOKUZOKUすること間違いなし。思春期中高生が読んだら共感しまくっちゃうのではないでしょうか。

あたしは、クラスで明るくておしゃべりで悩み事なんかない、というポーズをとっている自分の、こんな狂乱の姿をクラスメートに見られてしまったことにパニックして、こくこくとうなずいた。"山羊に殴りかかる大西葵・・・・・・"。それは多分クラスメートたちにとってものすごくシュールな情景のはずだった。"しかも、泣いていた…・・・"。ぎゃあ!恥ずかしいよ!

「バトルモード」

若年犯罪事件が起こると必ずのように「真面目な子」だの「普段は大人しい」だのと垂れ流しにされますが、暴力の衝動を「バトルモード」と巧いこと言い表しています。なんですか?最近若者の間では「空気読め」とかいうコトバが流行しているようじゃないですか。結局それって自我を殺して他人と強調しなければならないって事なんですよ。今流行のケータイ小説とかではこんな感じの馴れ合いとかメールでいつも繋がってないと不安なのといったことをテーマにしているようですが、エロゲで人生なCLANNADを始めヲタクたちは協調性を見出せなくて孤独になっているのを少女によって救済されるので五十歩百歩。そんな近代に入ってから小説のテーマとされている「理解不能」の他者との関係で鬱積したエネルギーをうまく発散できず暴力行為として現れてきてしまうというわけさ。自分より弱いものを苛めて嗜虐心が擽られることで、暴力衝動を解決しようとしている描写には圧巻だ。動物という山羊に暴行したり、ゲームという仮想空間オンライン対戦で田舎者である自分の最強の持ちキャラが都会っ子のキャラをフルボッコにするときのサディスッティクな感情描写は一読の価値ありですよ。

あたしは小さいこぶしを振り上げて、背後からとつぜん山羊を殴った。山羊が鳴き声を上げて、また二、三歩逃げる。逃げたことに、弱い存在のくせにあたしから逃げられると思っていることにむらむらと腹が立って、あたしはまたこぶしを振り上げて山羊のお腹を殴った。それから、スニーカーを履いた靴を振り上げて、蹴飛ばした。急に涙が出てきた。あたしは泣きながら山羊をぼこぼこ殴った。山羊はあたしを恐れる様子もなく、細い目でじっとこちらを観察している。腹が立った。なめられてる気がした。あたしは弱者をきちんと弱者にしておくために、そうして安心するために、山羊をむちゃくちゃに殴り続けていた。あたしはうぇんうぇんと泣いていた。