国語教育における文学的文章の「主題」とセンター試験


国語なんてつまんないの。どう解いていいかわかんないし。
特に小説なんてそうじゃない?
学校の授業では「多様な読み」とかなんとか言っちゃってさ。
小説は個々でそれぞれが「主題」を見つければOKとかなんとか教えてるのに。
センター試験の「小説」なんて多様な読みなんて存在しないじゃない。
なにがPISA型読解力よ。夏目漱石の『虞美人草』の問題をどうやって実用化すればいいのよ。
チャド湖の問題(PISA)の横にセンター試験の小説を並べて文部科学省に突きつけてやりたいわ。



あれてるわね。
一体どうしたの?



それが聞いてなの。
普段学校で教えてることと、受験で解く国語の問題なんてまるで違うの。
受験国語が解けなければ全然受験生たちにとって実用的じゃないの。
受験生にとっては、問題を解けることが全てナノ!!



ああ、文学的な文章における主題の問題ね。
「主題」の定義は「作家論」、「作品論」、「テクスト論」の3つで分かれるのよ。
それによって「主題」なんてものは全然別なものになっちゃうのよ。



え〜。これだから小説なんて嫌なの。
人によって解釈が違う小説がなんでセンター試験にでるのなの?
答えが一つになる評論・論説だかでいいじゃない!!



その疑問に答えるためにも「主題」の定義を一つずつ見ていきましょう。


まず「作家論」の立場ね。これは読んで字の如く作者マンセー。<素材>とそれに対する<価値付け>は全て作者の意図を優先するって考え方ね。よく年寄りの先生は「ここでソーセキがイイタカッタコトは云々」って説明をしてくださる場合が多いと思うけど、困った時には<作家>を調べる、ってのが「作家論」の立場ね。


次に「作品論」の立場の「主題」の定義ね。これは「作品に描かれている人間の生活現象に内在している一般的なもの・本質的なもの」(奥田康雄・国分一太郎編『国語教育の論理』)とされるわね。つまりは、<素材>も<価値付け>も「作品」の語りや描写や筋や構造からどう読み取れるかを重視し、<作家>がどう考えているかは無関係に主題追求を進めるの。これなら答えが一個ないしは数個になるというわけね。


最後に「テクスト論」の立場。これは<素材>については作品論的な立場と同じなんだけど、それに対する<価値付け>つまりは「何を意味しているか・象徴しているか」ということは、読み手一人一人の「創造」に委ねてしまうってわけね。だからといって完全にアナーキーなものじゃなく、読み取った<素材>の<価値付け>を如何に論理的に説明できるかどうかに重点が置かれるわけね。



じゃあ、そうするとセンター試験の文学的な文章、つまり「小説」は与えられたテクストの中から答えを一つに抽出する「作品論」的立場ってこと?それならセンター試験で答えが一つに縛られちゃってもOKなのかな。同時代作家が「私の主題はこうじゃない!!」ってイチャモンつけても、「いいえ『作家論』ではなく『作品論』です」って科学的根拠を示せるわけだもんね。
こういうのをちゃんとガッコでも教えてくれればいいのに。
学校では「テクスト論」ってのいうのばかりやらされたんだけどな。



そうね。1970年代の学習者重視の教育のなかで、テクスト論が支持されて「読者論」の立場でモノを考えるのが一般的になりつつあるわね。ようするに作家(起源)に完全な死を与えてしまったわけね。背景にはソシュールの共時言語学を前提としているわ。
ちなみに中の人の大学では、「作家論」的な立場に立っていた老教授が定年退職して、去年その後釜に座った講師が「テクスト論」を提唱してね。それはもう講義内容が全然違うわけよ。しかも若いから自分の思想を学生たちに押し付けたくてたまらなくって。それに中の人の大学は地方駅弁大学でしょ。その講師は宮廷出なのよ。もちろん学生たちを馬鹿にしてるわ。しかも必修の近代文学史の講義でいきなりタイトルが「暴力としての文学史」とやらで、「文学史イラネ」ってのたまうのよ。ここは文学部じゃなくて教育学部ナンデスケドー!?



あふぅ。
アカハラに思想に大学って大変そうなの。
ドロドロなの〜。



まぁ「主題」を追求したりなんだりするのは文学部の専門畑ってことね。
教育学部国語科ができることなんて何も無いのよ。
あ、蛇足だけど、古くはソビエト文芸学(『文学理論』青木文庫)では、作家の中心的考えを「思想」とし、「主題」と区別しているのよ。