「CLANNADは人生」を論証してみれぅ〜



うっう〜、CLANNADは人生ですぅ〜。



え?ただのエロゲでしょ。夢見がちな戯言を吐かないでくれる?




れぅ〜。でもでも、ただのエロゲじゃなくて人生なんです。




じゃあそれを今から納得できるように論証してみなさいよ。




うっう〜。頑張りますぅ。今からそれを論証して見せます。
Key作品のヒロインはみんな問題を抱えていて周囲から孤独です。現実社会、つまりはこの大衆化社会に受け入れられない存在なんです。CLANNADではその原動力として主人公の朋也も挿入されます。みんなみんなはみだしっこ満載なんですぅ。


 うっう〜
ここで注意しなければならないのは、「孤立」(loneliness)じゃなくて「孤独」(isolation)という点なのです。まず「孤立」から説明しますぅ。大衆社会っていうのは、みんながみんな同じ価値観を持っていますよね。そこにはたくさんの人がいて多様性があると思いきや、実はそうではないんです。大衆は一つの視点しか持っていないのです。だからそこでは大きな一つの集団のように感じられてしまい、他人という見方が存在しなくなるのです。故に、リア充mixiで犯罪自慢大会をしたり、みんなと同じになろうとマスコミに流されスイーツ(笑)するのです。


 うっう〜
大衆化し、みんなと同じになるということは他者比較の相手がいなくなり「孤立」するということなのです。だからそこに「孤立」していない異端者が存在すると、わけがわからなくなり迫害するようになります。「孤独」とは他人に同調せずに自立して思考し、判断するための条件です。「孤独」のうちにあるということは、自分自身と共にあるということなんです。朋也たちは一つの視点の中に入れず「孤独」になることになります。はみ出しものの朋也くんや渚ちんはそういった存在になりますぅ。


 うっう〜
大衆には一つの視点しか存在しませんが、ここで朋也は朋也の、渚は渚の支視点を持っていることになります。アイデンティティは他者関係の比較がないと成り立ちません。だからリア充たちが「ホントウの俺って何だ?」とか血迷っていますが、一つの視点における彼らではアイデンティティの確立は不可能なんですぅ。一方で、朋也は様々な視点(ここではヒロインたち)によって見られることになります。つまりは、各人が各人によって同一の人物として無数の視点から眺めれることによって、その人間の同一性(identity)が明らかになるのです。


 うっう〜
H.アーレントによれば、自らを「個性」として示し、自らの生涯を「物語」として理解できるようになるためには、「家」という「私的な」領域を必要とするそうなんですぅ。何故なら、個人は「私的領域」を保持し、そこにおいて他者の目から隠され自由に行動できることにもとづくからなんです。「私的」なものがあってはじめて「成年性」が確立されるんですね。だから渚ちんにとっては古河家が、朋也きゅんにとっては岡崎家が重要ポイントになるのですね。


 うっう〜
そして朋也きゅんと渚ちんは結婚することになりますが、これは別々の「家」によって形成されていた「孤独」な二人が「公共的」な「世界」を作らないひとつの「家族」になる感動の瞬間なんですぅ。「公共性」を確立するには「私的」な「秘密」を共有する「家」というものが必要。その私的な秘密の最も究極的なものは「性行為」なんれすぅ。ここで晴れてして朋也&渚の「岡崎家」が確立され、ふたりは自らを個性として示し、自らの生涯を「物語」として理解できるようになったのです!!うっう〜なんと感動することでしょう。このようにCLANNADは人生なんれす。



貴女、本気で言ってるの?