安田敏朗『「国語」の近代史』(中公新書)のメモ

序章 「国語」を話すということ

  • 国語とは書きことばの階層性と話しことばの自然の中で、国民国家の中で流通させるために作り上げたもの。
  • 近代国民国家が要請したのは統一された「国語」を作り上げ、それを国民に話させるとい政治的なあり方。
  • 近代国民国家形成の過程で「ことばをいかにあつかうか」という問題
    • 国民は均質的一体性を持たねばならない。
    • 国家は国民を何らかの形で掌握しなければならない。
  • 敬語
    • 前時代においては身分制社会システムの言語的現れだったものが、身分制の終焉による社会的変動の中で、対象化され意識されるようになった結果。

第1章 国民国家日本と「国語」・国語学

  • 近代国民国家では、統一された書きことば・話しことばが必要。
  • 「話してわかる」へ
    • 一番最後まで統一されにくいのが話しことば。「書いても聞いてもわかる」ことばとして「標準語」の設置。口語体・言文一致の文体を作り、「話してわかる」ことばとして教育の中でつかわれるようになる。
  • 「歴史」と「伝統」をつくる
    • 奈良時代
      • 奈良時代の歴史は奈良の地域史(一部の政権があっただけで、現在の日本国の領域を実効支配していたわけでもない)。それが日本古代史、つまりは奈良地域史が日本史として近代日本の学校で教育される。そうして「歴史」と「伝統」を共有する一体の国民という意識を形成させる。
    • 万葉集
      • 現代語では理解できないが、現代語にいたるまでの歴史的変化をあとづけていくことで、「国語」を作り出す。
    • 方言利用
      • 実務的に国家の諸制度を担うと同時に、同じ言葉を昔から話し続けてきたという点での国民統合を象徴する役割を担って初めて「国語」が完成する。
  • 亀井孝「「こくご」とはいかなることばなりや」
    • 国語学が"国語"の観念をつくりだし、その"国語学"はそれとささえる体制によりかかってまたは呼応してみずからも「国語学」と称してきた。
  • 方言研究
    • 「国語」を作り出す際の資料として採集・記録する。その一方で何世紀の「国語」がどこどこに残っていると認定することで、歴史的一体性をもつものとして国語を作り上げる。
  • 近代の国語学は、西洋言語学の手法を取り入れて国家制度を担うものとしての「国語」を作り上げる一方で、国民精神の拠り所としての、つまりは歴史的に国民が一体性をもっていると思わせるための「国語」を作り上げてきた。

第2章 植民地と「国語」・国語学

  • 教科目としての国語
  • 時枝誠記「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」
    • 上田万年の「国語は国民の精神的血液」における朝鮮においての矛盾を解決しようとした
    • 主体的な価値意識によって「国語」を国家的な価値のある言語と判断し、そのうえで「国語」と朝鮮語・日本方言との区別を「主体的」に行う。「主体」はまずもって国民であるから日本国という国家のことを考え、国民的価値のある生活を営むべきである。したがって、「主体的な価値意識」からすれば、国家の言語であり国民の言語である「国語」を話すことは、当然のこととみなされる。こうして植民地における「朝鮮語」に対する「国語」の優位を日本における方言に対する「国語」の優位と同様に論じていく。
  • 安藤正次:バイリンガリズムと単一言語社会
    • 帝国日本における日本語と異言語との多言語状況に関して、異言語に対する日本語の絶対的優位を疑うことがなかったため、多言語状況を管理可能な事態として捉え、最終的には「国語」に一元化できると考えていた。

第3章 帝国日本と「日本語」・日本語学

国語と我々の称へてゐるものは、即ち日本語であるといひ得る。而して、日本語とはなんぞやといへば日本人の用ひる語だといふことは分かり切つた話である。その日本人とはなんぞやといえば、国法上からいふ日本臣民としての国籍を有する人々が日本人だというふことも、分かり切つた話である。然らば、その日本国籍を有する人々の用ゐる語がとりもなほさず国語といふに、それはさうだといはねばならぬが、実際を顧みるとさふ云ひ切つてしまふことのできない事実がある。それは日本国民として国籍を有する人間の用いる言語はさまざまであるからである。

    • 「国語」の定義

今、我々が国語と認めるものは日本帝国の中堅たる大和民族が思想の発表及び理解の用具として古来使用し来り、又現に使用しつつあるものであり、将来も之によって進むべき言語をいふのである。この国語は大和民族の間に発達して大日本帝国の国民の通用語となつてゐつるものであつて、之を簡単にいへば、大日本帝国の標準語である。

  • 「日本語」の「普遍性」
    • 「国語」とは国民国家内の通用の「正当性・正統性」が国家により保証されたことば
    • 国民国家のボーダーを越えて「共通語」となるには、言語の固有性が強調されない国民国家の個別性を超えた、他の共同体でも受容可能な「普遍性」が必要。
    • 「日本語」=「国語」の帝国化=「普遍性」を獲得して拡大化をはかること。
  • どのように「普遍性」を獲得したか?
    • 「日本精神」というものが特殊的なものではなく、それ自体が「普遍性」を持っている。

第4章 帝国崩壊と「国語」・国語学

  • 「国語の正しさ」や「国語・国字の本質」は一体何かという議論がないまま。
  • 国家制度を担うものものとしての「国語」という機能だけが、そのまま継続して利用されていった。新生国民国家の日本の構成の核に「国語」を捉えること自体は問題にされず、「国民」は等号で「日本国民」と結び付けられ、その「歴史」をあらわすものとして、「国語」がとらえられ続けた。
  • 離れゆく国語と国語問題。
    • 国民国家形成のための表記問題などがメディアの普及による標準化により個別具体的ではなくなる。そのため、国語問題を抽象的な表現(国語力・愛国心・伝統など)で語る場に陥ってしまっている。(敬意表現や「乱れ」など)

終章 回帰する国語

  • 文化審議会国語分科会答申『これからの時代に求められる国語力について』(2004年2月)

国語は長い歴史の中で形成されてきた国の文化の基盤を成すものであり、また、文化そのものである。国語の中の一つ一つの言葉には、それを用いてきた我々の先人の悲しみ、痛み、喜びなどの情感や感動が集積されている。我々の先人たちが築き上げてきた伝統的な文化を理解・継承し、新しい文化を創造・発展させるためにも、国語は欠くことのできないものである。また国語は、学校教育のあらゆる教科や様々な学問の基盤であり、自然科学の分野においても、その重要性は全く変わるものではない。

  • 偏狭的な国語万能論
  • 「国語」の「伝統」を強調し、統合原理としての「国語」が教化されている。
  • 日本語で作品を書き続けてきた植民地作家/日本語を「国語」として学習させられた人々
  • 小学校英語教育に対する反動としてのエスノセントリズム
    • 「国語」と国家を直結させて論じ、「国語」によって「日本人らしさ」が育成されるのだから、国語教育強化が必要である。
  • 音読と愛国心
    • 安易な音読ブーム。「声に出して読む」のは書きことば⇒近代の国語が埋めようとした話しことばと書きことばの溝を広げる。
    • 特権性への回帰。国語教育+愛国心=国家や社会に盲従する国民を育てる。