雑録

トーマス・マン/関泰祐、望月市恵訳『魔の山』(岩波文庫)第6章8節「兵士として、それもりっぱな」のメモ

コツコツと読んできた『魔の山』もついに第6章を読了。次が最終章。この作品の時代背景は20C前半、ドイツの青年ハンス・カストルプが従兄ヨーアヒムの高山療法を見舞いに来たことにより物語が始まる。数週の滞在のつもりであったのだが、結果的に長期間の逗留になってしまい、その治療生活のなかで周囲の人物と思索を交わしながら思想的生活を送っていく。そして6章では、ヨーアヒムが芳しくない療法の成果に痺れを切らし地上へと舞い戻るのだが、結局は数ヶ月で送り返される。寿命を意識したから山を去り本願であるドイツ軍に入ったのであろうか、それとも無理をしたから寿命がきたのか。日に日に衰弱していくヨーアヒムの姿は人が死に行く姿を描き出す。そして、ついに死を迎える。ハンス・カストルプが逗留する直接の契機を担ったヨーアヒムが死んでいく姿は最終章への山場となっている。

本当に死ぬことは本人の問題であるよりも、むしろ、後に残る人々の問題である。私たちが生きている間は死は私たちにとっては存在しないし、死んでしまえば私たちが存在しないのだから、私たちと死の間には実際的なつながりは少しも無く、死は私たちにとってだいたい何も関係ない現象で、せいぜい宇宙と自然といくぶんかかわりがあるといえるだけである。― だから、あらゆる生き物は死をきわめて無関心な平静な無責任な利他的な無邪気な気持ちで眺めているのである。