源氏物語ブームと日本国民が共有する物語

源氏物語がブームである。伝統文化の尊重そのものは悪いはずはない。大いにブームになってくれてかまわない。しかしながら問題となるのは、その背景にあまりにも偏狭な「日本精神」の限定というナショナリズムが存在するということである。ここでは、古典教育が内包するナショナリズムを紹介する。元ネタは有働裕『「源氏物語」と戦争』など。その理論はこうだ。「日本人らしさ」という特定の美的・精神的規範があり、それは世界にも誇るものである。そしてそれを我々は受け継いでいかなければならない。『源氏物語』のなかに日本文学や日本精神という特質が存在している。すべての国民が同じ「国民の物語」を共有できなければ「誇り」を持つことが出来ない。以上のようなものである。


現在、このような理論が賛美されており、新しい学習指導要領における「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」にも垣間見ることが出来る。古典入門期の指導理論で繰り返される「日本人の伝統的な感性を学ぶ」といった没個性的な目標設定。なぜ古典を学ぶのかという目的に関しては、日本人として当然知っていなければならないからといった理由が繰り返される。また、なぜその作品でなければならないのかといった議論は全く深められることなく「著名な」作品、「有名な」章段が教材として繰り返し取り上げられ続ける。つまり依然として古典文学の教育は「伝統的」とされる表現をとイデオロギーとを無批判に受け入れるだけの、主体性の乏しい学習活動しかうみだしていない。ここには『源氏物語』が取り上げられ、日本的ロマンチズムの極致、日本民族が誇りうる文化遺産として賛美されているのを見出すことが出来る。


現在の定説では、戦前期の教科書教材「源氏物語」の掲載は「自由自主の精神」による国家主義国粋主義への抵抗という見解が定説化している。しかしながら小学校国定国語教科書サクラ読本、アサヒ読本において教材「源氏物語」を掲載しただけで、つまりは『源氏物語』を扱ったことだけで、時流への抵抗と結論づけてしまっているのである。文学というものがそもそも「宗教が投げ出したイデオロギー的任務を代行して完遂する」のに好都合なものであり、その教育が国民としての「自負心」の普及や「道徳的」価値の伝達を主たる任務とするものであれば(T・イーグルトン『文学とは何か』岩波書店 1985年)古典文学の教育はまさに思想統制のための施策そのものである。

参考文献 有働裕『「源氏物語」と戦争』(インパクト出版会)