大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書 2008年

「現実から逃避」するのではなく、むしろ「現実へと逃避」する者たち―――。彼らは一体何を求めているのか。戦後の「理想の時代」から、70年代以降の「虚構の時代」を経て、95年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。大澤社会学・最新の地平。

この文章におけるキーワードになっているのが「第三者の審級」。第三者の審級とは「規範の妥当性を保障する、神的、あるいは父的な超越的他者」のことである。虚構の時代の後に来る「不可能性の時代」ではこの第三者の審級が摩滅しつつあり、遇有性への思い(他でも良かったのではないか、他でもありえたのではないか)がいつまでも解消されず、現実を「必然(これしかないこと)」として受け入れることが出来なくなっている。この第三者の審級を回復させようとすると破局を迎えることになる。ではどうすれば良いのか?普遍的な連帯の可能性を有しているのは「裏切りを孕んだ愛」である。これは真の無神論であり、正義を基礎づける「超越的な第三者の審級=神」が与えられいる中で、その神への愛を、神への裏切り(神の否定)と等値することが重要だからである。そうするとグラフ理論の「六次の隔たり」により市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分可能になる。