大津透「宮廷社会を支えたもの」『道長と宮廷社会』講談社 173-236頁

  • 宮廷は経済的にどのように支えられてきたか
  • 平安時代中期に国家がなかったわけではなく、その時代なりの政治や財政運営が行われた。
受領支配の成立
  • 摂関期の宮廷社会を支えたのは、受領国司による任国支配。
    • 公田を名に編成し、そこに耕作する人を負名として把握して徴税する体制=負名体制
    • 負名体制は10世紀前半に成立する
      • 国司の下で徴税を請け負っていた郡司が9世紀後半に没落にむかうことにより、在地首長層の支配に依存していた律令制は転換を余儀なくされる。
      • 国衙領を名に編成して負名を設定し受領がそれを直接把握し徴税する収取体制へ転換する
    • 11世紀後半になると、別名が作られ、在地領主の先祖となる郡司や郷司が徴税を請負う単位として郡や郷が変質し、受領が直接負名を把握しなくなる。
  • 在地領主を通さずに負名を把握することを、律令制の支配が展開し、地方支配が強化されたと評価できる
  • 律令国家による地方支配が成熟して新たな段階に入り、国司裁量権が拡大したと理解できる。
「所」/検田
  • 国衙行政を部門別に分掌する国衙の分課「所」と各「所」に分属する在庁官人こそが受領の権力執行機関であった
  • 「所」は10世紀頃に私的に設置した機関であったが、11世紀には受領制の一環として、公的に認められ重要な機能を果たしている。
  • 検田の手続きは、従来の律令制の田図に基づく損田調査に変わって10世紀後半に成立した。国司が直接入部して作付け状況と負名を把握し、検田帳に基づいて受領による租税免除の決定を可能にした。この検田の強化が、受領の支配の基礎となり、税収の増加を可能にした。
神拝
  • 地方の神社祭祀は国司に委任され、そのなかで国司崇拝は重要な意味をもつようになる。国司が神に祈るのは、第一に農作や養蚕の順調な経営であったらしい。つまり、神拝は国司の勧農の前提であり、さらに国司の任国支配や徴税の根拠となっていた。
受領の役割と任官システム
  • 家司受領
    • 摂関家は、有能な受領を家司に組織して彼らの財力を持って奉仕させた。
    • 要国の受領には院宮権門がみずからの宮司や家司を申任し、彼らの財力を取り込むことも多かった。
  • 陣定と受領挙
    • 摂関期には受領からの貢物や馬などが、摂関や大臣だけでなく、一般の公卿にももたらされたが、それは貴族連合としての公卿全体が受領の人事権を持っていたから。陣定と受領挙において、公卿は受領を統制した。
    • 貴族社会を支えているのが、徴税請負人である受領の税物の中央への納入であったから、受領の統制は公卿共通の本質的利害に関わっていた
財政の再編
  • 律令制では諸国は調庸を一括して大蔵省の正倉院(一部は民部省)に納入し、経費を必要とするさまざまな官司は大蔵省に調庸物の支給を申請することになっていた。ところが摂関期に大蔵省に納入される調庸が減少し、抜本的対策が打ち出されていく。
  • 11世紀初めには弁済使制を前提にして財政が機能している。この間に中央財政の変化がおきた。
  • 変化の前提には、弁済使にあらわされる受領制の構造変化があった。
  • この構造変化は、弁済所も含む受領による支配機構としての「所」の成立もある。
  • 財政的には各国で徴収した税物が教周辺の納所などの受領の在京機関に収納蓄積されるようになった。その変化の意味が大きい。