籠谷次郎「国民教育の展開」井口和起編『近代日本の軌跡3 日清・日露戦争』吉川弘文館 1994年 170-195頁

1 児童の就学

小学校の修業
  • 1886(明治19)年小学校令
    • 小学校を尋常小学校(修業4年)と高等小学校(同4年)の二つに分ける
    • 尋常小学校までの就学を「義務」。義務としたのは同令が最初。授業料が必要
    • 土地の事情により小学簡易科(修業3年以内)を設けてよく、授業料は要らない
    • 小学校はすべて公立を原則
  • 1890年 地方学事通則と第二次小学校令公布 92年施行
    • 89年 市制・町村制の施行にともない新しく出されたもの
    • 第1条「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」
    • 第25条 学校の設置維持は国家委任事務として市町村が行なう
    • 小学校簡易科廃止、修業3年の尋常小学校、同2・3年の高等小学校が認可
  • 1900(明治33)年 第三次小学校令
    • 修業3年の尋常小学校廃止、義務教育としての尋常小学校修業4年に統一、授業料無償の原則
    • 義務教育の延長を予想して2年生の高等小学校を併置する尋常高等小学校の設置も奨励
    • 進級・卒業条件が試験から平素の成績に →知識重視から徳育重視の教育へと転換
  • 1907年 小学校令改正
    • 義務教育6年に延長、1908年から実施
    • 高等小学校の第1・2学年が尋常小学校に移され、第5・6学年となる
    • 中等諸学校への入学基準、多くが初等教育6年終了程度に →高等小学校は師範学校など一部を除き、中等教育諸学校とのつながりをもたない学校に →結果、袋小路的な大衆の初等教育完成の場となる
    • 1900年の小学校令以来、小学校の種類は尋常高等小学校が増加、1908年以降は2・6制の尋常高等小学校一般化
    • 代用私立小学校の廃止、私立小学校は公立小学校非入学者を対象とする学校へ、小学校の公立制原則が確立
就学率の上昇
  • 国家による教育の普及
    • 義務教育における就学状況によって表される
    • 児童就学就学の増加の要因
      • 政府による厳しい就学監督、授業料の有償から無償、日清戦争後の産業社会の成立、社会生活の変容、国民の意識の変化
    • 国家教育の普及=日本の「近代化」を支える、というのは国家の立場。国家にとっては小学校は児童の唯一の教育機関。民衆にとっては、小学校は数ある学習機関の一種なので、民衆の「就学」の説明とはなっていない。
「公益ナキ私学」
  • 子どもの学習機関への就学
    • 近世以来日本には多くの学習機関が存在 →近代日本の教育の広がりを小学校における広がりでとらえるのは正確でない
    • 寺子屋は学制(1872)では消滅せず家塾として再生、明治期にも新しく生まれる →「公益ナキ私学」
  • 下々等小学校
    • 77年、大阪府が就学促進のため官側の記録には現れない私学を学制規定にない独自の下々等小学校として就学児を算定し発表 →大阪府の就学率;76年=58.8% , 77年=67.1%(全国一位) ,78年=72.6% ,80年=54.2%(下々等小学校、80年に廃止されたため就学率は低下)
  • 小学校教育を脅かす話題
    • 1893年においても絶えない ex.教育雑誌『教育時論』(302号)社説「文部大臣の教育私見を読む」
    • 寺子屋風の学習機関が問題視される →学習機関側には小学校と対抗する意思はなくとも、小学校側にとっては大きな対抗勢力
ある人物の学習
  • 「公益ナキ私学」はいつまで存続したか? →日清戦争後も存続 ex.長谷川伸のばあい
  • 寺子屋の消滅は日露戦争後と推定される
    • 「初歩的な手習いのための寺子屋の存在」は、日露戦後の「民衆の文字学習への需要の質の変化」にともない、学習機関としての意味を失い消滅(日本教育史研究会会報『日本教育史往来』七四号)
  • 統計に表れる就学率の上昇とは、一面では「公益ナキ私学」およびその児童の吸収の過程。就学率の上昇、国家にとっては教育の普及と理解できても、民衆にとっては次第に学習機関の選択を狭められて、選択を失う過程

2 国家イデオロギーの浸透

教育勅語と「御真影」の下賜
  • 教育勅語
    • 1890(明治33)年10月30日に発布、教育の基本は忠孝の道徳によるべきことを強調。
    • 修身教授は同趣旨に基づいて行なわれる。国家祝祭日儀式に必ず奉読されるようになる
  • 御真影
    • 天皇皇后の写真
    • 国家祝祭日儀式では、拝載校では式場正面に奉掲、最敬礼によって敬意を表す
  • 2つの教育勅語
    • 文部省直轄学校に下付された天皇の親書と印璽のある勅語
    • 文部省に下付された勅語の謄本
      • 親書・印璽はなく「御名御璽」と記されている
      • 交付約三万枚、全国の公私立学校に道府県を通して下付
      • 小学校・中等諸学校に下付されたのはこの謄本
    • 謄本は1890年11月から翌91年1月にかけて下付、文部省直轄学校へは90年12月下旬から下付。文部省の指導により多くの学校で奉載時には、奉読式が実施。内村鑑三の不敬事件はこの奉読式で起こった。
  • 御真影の下賜
    • 御真影は下からの請願→請願が通るには一定の基準
      • 高等小学校の場合は「他ノ模範トモナルベキ優等の学校」であること、尋常小学校の場合は天皇の臨幸校または天皇名代の大覧校であるなど「特別ノ由緒」ある学校で、かつ学校維持法確立していることが要件
      • 尋常小学校への下賜の道が開かれたのは1892年に道府県による複写「御真影」の下付が許されてから →奉安施設が完備した学校に広く付与(直ちに増加したわけではない) →拝載校では、平素奉読のため「奉安室」「奉置室」と呼ばれる一室が設けられ、奉護のため教員の宿直が始まる
儀式・訓話の盛行
  • 1891(明治24)小学校祝日大祭日儀式規定制定;忠君愛国の志気を高めるため、国家祝祭日に儀式を行なう
    • 同年式における敬礼作法、93年式で歌う唱歌の確定。林広守選曲「君が代」もこのとき選ばれた
    • 三大節儀式;93年に紀元節天長節・1月1日の三儀式に限定(儀式の回数が多いと効果が薄いと思われたから)→ 1900年前後に定着するとともに、新しい儀式が生まれて増加
  • 儀式の価値
    • 東京高等師範学校訓導相島亀三郎の述懐;「実に彼らの感情陶冶にあり」とし「一堂に集合して共に祝弔し、共通の感情の下に生活をするを以て、之に依て、同情を養成することを得、之が長じては、教員に対する敬愛心となり、共同団結の念となり、愛校心となり、大にしては尊皇愛国の心ともなるべし」(『教育大辞書』)
    • 儀式とともに、講和・訓諭も行なわれるように →1911年『祝祭日及び国民記念日講堂訓話』;学校の教育的事業における統一性、画一の品性、共同意識、校風の必要性
    • 伊勢参宮旅行は、関西では1910年代の明治末から始まり、大正期に入り本格化。同旅行卒業学年で行なわれたのは、義務教育の義務完了奉告のため
日清戦争と教育
  • 日清戦争が教育に与えた影響
    • 愛知県教委による戦争が与えた影響の調査(『愛知教育雑誌』93、95、97号)
      • 戦争は、敵愾心の奮起、愛国敵愾の気風、忠君愛国の観念を強めた →国家思想を明確化、戦勝の要因は教育、教育の普及の重要性
      • 児童の遊びに大きな変化;独楽廻し、凧揚げ、球技から戦争の模擬が多くなる →日本軍と清軍に分かれ清軍が負けるというシナリオ、「就学セザル児童」を清兵に当てるのが常 →子どもの意識に学校教育を受ける児童と受けない児童の差の現れ
    • 戦争による就学の増加の予見 →教育の必要・重要性を個人的理由、国家的理由双方に求めるものが併存 →個人的理由が国家的理由に包括され、推進されるのが日清戦争後の動き 
日露戦争と教育
  • 日露戦争が与えた影響『京都府日露時局記事』(京都府立総合資料館蔵)
    • 町村財政の緊縮にともなう教育費の削減 →苦境にあえぐ学校と巨大な国家の姿
      • 教育費の減少 →学級減、教育事業の萎縮、授業上の不便、二部教授 
    • 忠君愛国、殖産興業、教育の奨励、倹約の美風の強調
      • 開戦の初期以来「戦闘状況、殉国志士ノ義烈なる壮挙ヲ中心」に「忠道啓発」に努めた結果、これまでは「忠ヲ思ヒ孝ヲ云フモノ幾ト稀」といわれた村の状態も変わり、児童も「忠義奉公ノ道」を理解するように
      • 一般村民は「益々教育ノ必要」を感じ、平時においては到底考えられなかった「貧家」の子弟の高等小学校への入学
      • 開戦による最も大きな影響;「忠君愛国ノ精神ヲシテ、一段ニ鞏固ナラシメ、国ト云フ観念ヲ明確ニシ、且ツ殖産興業ニヨリテ、国力ノ充実ヲ企図スルト共ニ、国防ノ一日モ緩フスヘカラサルコトヲ自覚セシメタ」こと
      • 戦勝の原因が「教育ノ力」によるものであったとする認識から「教育ノ必要」を痛感したという多数の報告
      • 「勤倹ノ美風」の涵養に力が注がれ、その結果、児童は労働より得た金銭の過半を貯蓄するようになる

3 町村と教育

町村財政と教育費
  • 市町村は教育内容には関与できないが、経費のほとんどを負担
    • 町村歳出のうちもっとも多くを占めたのが教育費、負担の重圧から教育費は「町村財政の癌」と言われる(岡野文之助『財政講和』)
  • 町村歳出を支えるのは町村税
    • 町村税は地価割・戸数割・営業割・所得付加税・国税営業税付加税・特別税などで、二大支柱は地価割と戸数割
      • 地価割は土地所有者が地価に応じて負担した税、戸数割は世帯税または戸税と呼ばれ、町村の構成員が広く負担した税 →地価割と戸数割の割合は1891年には40:50だったが1911年には16:70 →土地を租税の対象とする地価割が減少する反面、戸数税が増加したことは、税構造上そのまま下層住民の負担の増大を意味
  • 政府による教育の重視はそのまま町村財政の膨張となり、その賦課は土地所有者の負担をやわらげつつ、拡散された形態で一般住民の負担に。一般住民は国家主導の教育に重い経費を負担。
二部教授の盛行
  • 日露戦争では大規模な国税の徴収、国民に大きな負担、地方財政に強い緊縮・制約 →学校への影響;学級数の減少、教育事業の萎縮、二部教授
  • 二部教授
    • 児童の一部または全部を前後の二部に分け、一人の正教員が授業する授業形態。「半日小学校」という俗称で、教員の不足、校舎の不足に対処する方法として採用された
    • 1903年小学校令施行規則改正で法制上はじめて登場、教員の不足・校舎の不足・「児童ノ就学上又ハ教授上特別の必要アルトキ」に可能
    • 日露戦中、教育費節減の観点による政府の勧めで広く採用、日露戦後もなくならず義務教育延長と教育費の増大に備えて、その普及が一段と強調され増加。師範学校はその実施・普及にむけて研究を行なうように
地方改良運動と訓育
  • 日露戦争後、内務省、地方改良運動を進める
    • 戦後に発生した社会状況(国民の精神的頽廃、国家と個人の分離、農村の経済的貧困など)に対処するため、政府がとった統治上の政策
    • 課題1)市町村にたいする官僚支配による国民統合
    • 課題2)国民統合を支えるものとして、統治を市町村の自治によって基礎づけようとする教化
  • 地方改良運動が学校へ及ぼした影響
    • 校内における校規・教則の制定、改訂。後年一般化する校訓の制定。
    • 校訓や訓練要目の制定が一般化したのは日露戦争後、教育勅語趣旨徹底のための徳目と児童に自治をうながすもの
      • 自治は、従順、勅語の趣旨、家族国家観と矛盾するものではなく、むしろ、自治を基礎とすることによって有効となり、生きたものになるという考え方により、自治が導入される
自治民育」― ある教育者の実践
  • 大阪府師範学校の実践
    • 1907年、隣接する生野村の小学校を同校付属小学校第二部とする
    • 目的;日露戦争後「国を富ます」ことを痛感して、その実践を報徳精神に見出した同師範学校長=村田宇一郎による農村改良
    • 自治民育」;国家の基礎は町村民であり、国家富強のために必要な町村自治の民を育成、国家の富強は町村の富勢にまつほかはなくその担い手としての自治民の養成
  • 自治民育」は本質においては「皇本主義」に通じても、民本主義が目指す方向とは異なるもの