1 児童の就学
小学校の修業
- 1886(明治19)年小学校令
- 1890年 地方学事通則と第二次小学校令公布 92年施行
- 89年 市制・町村制の施行にともない新しく出されたもの
- 第1条「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」
- 第25条 学校の設置維持は国家委任事務として市町村が行なう
- 小学校簡易科廃止、修業3年の尋常小学校、同2・3年の高等小学校が認可
- 1900(明治33)年 第三次小学校令
就学率の上昇
「公益ナキ私学」
- 子どもの学習機関への就学
- 近世以来日本には多くの学習機関が存在 →近代日本の教育の広がりを小学校における広がりでとらえるのは正確でない
- 寺子屋は学制(1872)では消滅せず家塾として再生、明治期にも新しく生まれる →「公益ナキ私学」
- 下々等小学校
2 国家イデオロギーの浸透
教育勅語と「御真影」の下賜
- 教育勅語
- 1890(明治33)年10月30日に発布、教育の基本は忠孝の道徳によるべきことを強調。
- 修身教授は同趣旨に基づいて行なわれる。国家祝祭日儀式に必ず奉読されるようになる
- 2つの教育勅語
日露戦争と教育
- 日露戦争が与えた影響『京都府日露時局記事』(京都府立総合資料館蔵)
- 町村財政の緊縮にともなう教育費の削減 →苦境にあえぐ学校と巨大な国家の姿
- 教育費の減少 →学級減、教育事業の萎縮、授業上の不便、二部教授
- 忠君愛国、殖産興業、教育の奨励、倹約の美風の強調
- 開戦の初期以来「戦闘状況、殉国志士ノ義烈なる壮挙ヲ中心」に「忠道啓発」に努めた結果、これまでは「忠ヲ思ヒ孝ヲ云フモノ幾ト稀」といわれた村の状態も変わり、児童も「忠義奉公ノ道」を理解するように
- 一般村民は「益々教育ノ必要」を感じ、平時においては到底考えられなかった「貧家」の子弟の高等小学校への入学
- 開戦による最も大きな影響;「忠君愛国ノ精神ヲシテ、一段ニ鞏固ナラシメ、国ト云フ観念ヲ明確ニシ、且ツ殖産興業ニヨリテ、国力ノ充実ヲ企図スルト共ニ、国防ノ一日モ緩フスヘカラサルコトヲ自覚セシメタ」こと
- 戦勝の原因が「教育ノ力」によるものであったとする認識から「教育ノ必要」を痛感したという多数の報告
- 「勤倹ノ美風」の涵養に力が注がれ、その結果、児童は労働より得た金銭の過半を貯蓄するようになる
- 町村財政の緊縮にともなう教育費の削減 →苦境にあえぐ学校と巨大な国家の姿
3 町村と教育
町村財政と教育費
- 市町村は教育内容には関与できないが、経費のほとんどを負担
- 町村歳出のうちもっとも多くを占めたのが教育費、負担の重圧から教育費は「町村財政の癌」と言われる(岡野文之助『財政講和』)
- 町村歳出を支えるのは町村税
- 町村税は地価割・戸数割・営業割・所得付加税・国税営業税付加税・特別税などで、二大支柱は地価割と戸数割
- 地価割は土地所有者が地価に応じて負担した税、戸数割は世帯税または戸税と呼ばれ、町村の構成員が広く負担した税 →地価割と戸数割の割合は1891年には40:50だったが1911年には16:70 →土地を租税の対象とする地価割が減少する反面、戸数税が増加したことは、税構造上そのまま下層住民の負担の増大を意味
- 町村税は地価割・戸数割・営業割・所得付加税・国税営業税付加税・特別税などで、二大支柱は地価割と戸数割
- 政府による教育の重視はそのまま町村財政の膨張となり、その賦課は土地所有者の負担をやわらげつつ、拡散された形態で一般住民の負担に。一般住民は国家主導の教育に重い経費を負担。