加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年 187-408 頁(3、4、5章、おわりに)

3章 第一次世界大戦 日本が抱いた主観的な挫折

植民地を持てた時代、持てなくなった時代
  • 日本が一貫して追求したもの
    • 植民地という点で日本はこの大戦から何を得たのか? 過去の戦争と同じように植民地獲得を求めたのか?
  • 日米のウォー・スケア
    • 日本から遠いヨーロッパの戦争にどうして日本が関わってゆくのか/ドイツが持っていた山東半島の権益と南洋諸島をなぜ日本が獲得できるようになるのか 
      • 安全保障上の利益・戦略的な利益 →南洋諸島アメリカとの対外関係上、太平洋の真ん中の島々は海軍の根拠地として必要になる(cf.1906年サンフランシスコ大地震による東洋人虐殺 →1907年「ウォー・スケア」:日本人が海を越えて襲ってくるのではないか、戦争が始まるのではないかという根拠のない怖れ →日米関係がぎくしゃくする)
  • 西太平洋の島々
    • 西太平洋の島々保有国がドイツであることの重要性(ミクロネシアアメリカが太平洋を横断してくると際のルート上にある島々)→加藤高明、イギリスが警戒的である中、日英同盟を根拠に「日英同盟協約の予期せる全般の利益を防護する」と参戦 →イギリスが西半球の海で安心して戦えるようにとの理由付けで、1914年9月-10月にドイツ領の島々占領。
  • 山東半島の戦略的な意味
    • 太平洋の島々は戦略的に重要であり日本は対戦の勃発とともに占領 →では、中国の青島を占領するのは戦略てきにいえば何故か?;北京を海と陸の両側から攻めることが出来る。膠済鉄道の意義;済南、天津、北京への攻略ルート獲得。(以前は朝鮮半島の仁川に上陸、鉄道で満州の安東、奉天、錦州、山海関、天津、北京というルート)
なぜ国家改造論が生じるのか
  • 変わらなければ国が亡びる
    • 日本国内の変化は、政党内閣が出来ただけではなく、より大きな変化。大戦の結果、日本国内においてはたくさんの「国家改造論」が登場、日本は変わらなければ国が亡びるという危機感を社会に訴える人々が誕生。なぜ、強い危機感が生まれたのか? →国会改造の要求:(1)普通選挙(2)身分的差別の撤廃(3)官僚外交の打破(4)民本的政治組織の樹立(5)労働組合の公認(6)国民生活の保障(7)税制の社会的改革(8)形式教育の解散(9)新領土・朝鮮、台湾、南洋諸島統治の刷新(10)宮内省の粛正(11)既成政党の改造。改造論の理由と背景とは?→敗北したドイツと勝利した英仏の国家や社会の差がこの11項目。
  • 将来の戦争
    • 将来への戦争の不安が高まる。大戦後、中国に欧州諸国が国内の痛手を回復しようと殺到すると予測、中国の資源と経済をめぐる戦いが1920年代以降の戦い →「帝国国防方針」の改訂過程から分かる →1907年帝国国防方針;仮想敵国ロシア(次いで米独仏)、1918年第一次改訂:仮想敵国ロシア・アメリカ・中国、1923年第二次改訂;アメリカ(次いでロシア・中国)。
  • 危機感の3つの原因 →主観的危機に迫られる
    • (1)大戦が始まるときに起きたこと
      • 大戦に参戦する際の英米との応酬が帝国議会で暴露され政府批判が社会に巻き起こる
    • (2)終わった後に日本が直面したこと
    • (3)講和会議が引き起こした日本の統治下での動き
開戦にいたる過程での英米とのやりとり
  • 日本の参戦とイギリスの反対
    • 加藤高明日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦しようとするが、日英同盟の名目で参戦することにまずイギリスが反対する。日英同盟は1902年から14年までに二度改訂されるが、「東亜およびインドの地域における全局の平和」の確保と「中国の独立と領土の保全」の確保にあった →ドイツとの戦争で発動されるべきでない。
    • イギリスは加藤高明の強い要望で参戦を認めたが、軍事行動の範囲を「シナ海の西及び南、ドイツの租借地である膠州湾以外には広げない、太平洋には及ぼさない」という要求を出す →加藤高明が応じずにいると、日英政府は一致したとの趣旨を勝手に公表してしまう 
  • イギリスが望むこと;貿易の利益安定ため中国の秩序維持
    • 日本が中国自体の権益の一部をドイツに関連するからといって接収すれば、強い反発は必至。日本に対する反発が、日英同盟という理由からイギリスにまで及ぼされては堪らない。
    • イギリスだけでなくアメリカも日本に注文をつける
      • (1)アメリカ政府は、日本が中国において領土拡張を図る意図がなく、その行動が日英同盟によるものであることは、アメリカ政府の満足するところである
      • (2)中国国内に擾乱が発生した場合、日本あるいは他の諸国が措置をとる必要があると日本政府が考えた場合には、事前にアメリカ政府との協議を遂げられるよう、アメリカ政府は希望するとの覚書
      • 野党であった政友会にばれて憲政会が非難される。「日本の自主権、日本の独立権、日本の宣戦行動に関する一大制限」と。→連合国であるイギリス、アメリカへの反感が日本に芽生える。
パリ講和会議で批判された日本
  • 民族自決と三・一独立運動
    • ロシア革命で秘密条約が暴露され、日英仏露が大戦後それぞれ植民地再分割などでえげつない取引をしていたことが公開されてしまう。アメリカのウィルソンは連合国の戦争目的を理想化しなければ世界の人びとを幻滅させボリシェビキに負けてしまうと考える。そこで14か条で民族自決を訴えることになるが、ウィルソンの念頭にあった地域は限定されおり、ブレストリトフスク条約でロシアがドイツに割譲した領土のみだった。だが、民族自決は決して実現されない希望を世界各地の植民地の人びとに呼び起こすことになる。そこへ日本領朝鮮で三・一独立運動が起こる。パリ講和会中に起こったため、日本の植民地政策が残酷であると批判され、新たに委任統治領を持つことについても議論されるようになってしまう。
参加者の横顔と日本が負った傷
  • ドイツの賠償問題
    • 敗戦国ドイツから搾り取れるだけ搾り取ろうとするのではなく、効率的にドイツ経済を復興させながら賠償金を支払わせ、英仏はそれをアメリカへの戦債の当てようとする。最も大切なのは、ドイツが早期の産業復興を果たし、世界にその優れた商品を輸出し続けることで賠償金を支払わせること。故に、ケインズは、ドイツから取り立てる賠償金の軽減とアメリカに英仏に対する戦債の緩和を求める。しかしアメリカ側は背を向け、英仏からの戦債返済を第一とする計画をパリ講和会議において主張。ウィルソンの理想主義は非難される傾向にあった。
  • 山東半島をめぐる問題
    • ウィルソンは山東半島問題でも中国に味方する態度を態度に示してしまう。日本は旧独山東半島の権益をドイツから日本に割譲してから中国に返すと主張し、中国はドイツに宣戦布告し勝利したからすぐ返せと要求していた。日本全権の反発を招き、ロイド=ジョージとクレマンソーが仲介に入る。クレマンソーは密約を根拠に日本を支持。中国は、21か条中の山東半島に関する条約は最後通牒で脅されたものであり、ドイツに宣戦布告して勝利したのだから対独不平等条約は解消されるので山東半島の権益は自らにあるのだと主張。これに対しロイド=ジョージは戦時中における貢献を唱え、アメリカ・中国の参戦の遅さを根拠に日本を支持、結果、山東の権益は日本のものとなった。だが日本は大戦後、意識上に大きな問題を抱える。それはアメリカ議会においてウィルソン批判に日本の朝鮮統治批判が利用されたこと。ウィルソン批判のためだけにアメリカ議会が日本批判を持ち出したことに不当感を抱く。

4章 満州事変と日中戦争 日本切腹、中国介錯

当時の人びとの意識
  • 満州事変と日中戦争の概要
    • 満州事変は1931年9月18日関東軍参謀の謀略により起こされたもの。日中戦争は1937年7月7日に小さな武力衝突をきっかけに起こったもの。
      • 満州事変については、関東軍石原莞爾により事前に準備された計画。理由は兵力で、東三省(黒竜江吉林遼寧)を支配する張学良は20万の軍隊と優れた装備を持ち、国民政府蒋介石とも良好な関係を築く。対して関東軍は兵力1万。日本側は張学良に対する反乱を華北で起こさせ北平に精鋭を釣り出し、南満州鉄道を自ら爆破させ、張学良の軍事的根拠地(遼寧省奉天)などを奪う。
      • 日中戦争の方は偶発的な盧溝橋事件をきっかけにするものであったが、構造的な要因は蓄積されていた。北清事件の北京議定書により天津周辺に軍隊駐屯を認めさせ、支那駐屯軍が置かれていたが、盧溝橋事件の前年1936年6月に1771人から5774人に増やしてしまい、豊台に兵営を置いた。隣には中国軍の兵営もあるなか、夜間に軍事演習を繰り返していた。
  • 満蒙と国民意識
    • 満蒙問題に関する国民意識としては、ある種の了解、一致点がかなり高くなっていた。日中戦争については「戦争」とすらとらえていなかった。官僚毛利英於菟「『東亜一体』としての政治力」(1938年)においては、資本主義と共産主義支配下にある世界に対して、日本などの「東亜」の国々が起こした「革命」なのだという解釈を展開。官僚が戦争を破壊とはとらえず、積極的な意味を見出すようになる。
満州事変はなぜ起こされたのか
  • ルソーの戦争論「戦争および戦争状態論」の満蒙における場合
    • ある国の国民が、ある相手国に対して「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かすことをしている」あるいは「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」という認識を抱く場合に戦争が起こる傾向がある。満蒙問題というのは、日本人が自らの主権を脅かされた、あるいは自らの社会を成り立たせてきた基本原理に対する挑戦だと考える雰囲気が広がっていたことを意味する。1930年には松岡洋右の演説で「満蒙は我が国の生命線である」とのフレーズが叫ばれ、以降、流布し、満蒙は国家の生存権、主権に関わるとの認識が広まる。日清・日露戦争があった明治期には朝鮮半島第一次世界大戦が起きた大正期には山東半島、1930年には満州が日本と切れない関係になる。日露戦争後、日本とロシアは資本力・技術力で欧州諸国に劣っていたため協力するようになり、中国問題に関しては勢力範囲を認め合うようになった。
  • 満蒙における二つ問題点
    • 清朝ロシア帝国が崩壊してしまい、日露戦争で締結された条約やその後の密約に関する日中の解釈の違いが浮き彫りになる。
    • 満蒙問題の場合の解釈の違いは二つ
      • 「日本側が中東鉄道南支線(南満州鉄道)の沿線に鉄道守備兵を置く権利」=鉄道守備兵設置権
      • 「満鉄の併行線になりうる幹線と支線を中国側は敷設できないとの取り決め」=満鉄併行線禁止条項
  • 満蒙特殊権益
    • 日本が主張する満蒙特殊権益は、日本が確信しているほどには外国勢力から承認されていないという自覚が生まれる。軍部は中国の条約侵害によって。日本の生存権が脅かされると煽り、原理的な対立になる。命とお金をかけて戦った戦争、その戦争にやっとのことで勝って締結した条約、その条約に書かれていたはずの権益、これを死守しようとする発想が日本側に強かった。
    • 勢力範囲にする=特殊権益を有する。特殊権益とは「主として条約によって認められ、他国には実際には等しく適用されない日本の専有・優先が認められた権利につき、日本が施設・経営を実行したことによって、経済的・政治的に発展を見た現象や状態」。南満州と東部蒙古は満蒙で日本の勢力範囲といっても、「施設・経営」の実態がなければ認められないものであった。そのため、列強の目を意識して既成事実をでっちあげることを行なった。それに活躍したのが、陸軍・外務省・商社であった。対満蒙投資は85%が国がらみであり、結果国民からの批判が起きにくい構造ができる。
事件を計画した主体
  • 石原莞爾によるドイツの敗戦の分析
    • 当時はドイツが敵の全主力を短期決戦によって方位殲滅する方式を徹底してとらなかったことに起因すると考えられていた。
    • 石原は、短期決戦の殲滅型ではなく、長期持久型の消耗戦争であったことをドイツが認識しなかった点に理由を求めた。
    • そして大切なのは、敵の消耗戦略に負けないようにすることであるとして、経済封鎖を生き延びる姿勢で戦争を続けることの重要性に目覚める
      • (1)日本とアメリカがそれぞれの陣営に分かれて、航空機決戦を行なうのが世界最終戦
      • (2)対ソ戦のためには、中国を根拠地として資源を利用すれば二十年でも三十年でも戦争が出来る。cf.「戦争で戦争を養う」、つまり占領した先の地域で徴税し、物資や兵器は現地で手に入れ、そこで「自活」すればよい。→満蒙を中国国民政府の支配下から分離させようと図る。
  • 満蒙について軍が考えていることと国民に説明していることについてのズレ
    • 国民への説明:中国は条約違反である、日本は被害者である、よって満蒙の特殊権益を無法者の中国の手から守らなければならないとの、原理主義的な怒りの感情。国際法や条約に守られているはずの権益を、中国がないがしろにしている。参謀本部の情報部長・建川美次は「これは条約書に厳存しておるのであります。しかるに、今日は一つも行なわれておりませぬ」と国民煽動。
    • 軍部:将来のために満蒙が必要。軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する。国民の不満に最後に火をつけたのが29年の世界恐慌。生活苦の国民に軍部は良く受けいれられる。
  • 若槻礼次郎内閣
    • 満州事変で日本領朝鮮軍同断越境。既成事実が作られた後、閣議では出兵、朝鮮軍の越境は認めないが、増派のための経費については支出を認めるという曖昧な決定。なぜ内閣は軍を抑えられなかったのか →若槻内閣が出先軍の造反に対して、きっちりと結束していなかったことがある。民政党と政友会の提携を唱えた安達謙蔵とそれに反対する井上財相をまとめられなかった。
  • 満州事変に対する蒋介石の対応
    • 蒋介石満州事変の解決を国際連盟による仲裁に求める。
      • (1)事件の解決そのものを連盟がなしうるとは思わないが、少なくとも、日本の侵略を国際世論によって牽制できる。中国に有利な国際環境をつくっておけば、のちに予想される日中交渉のときにも有利である。
      • (2)連盟に訴えることで、国民の関心を連盟に向けさせることができる。国家防衛の責任を連盟に一部負担させることは、自らの政権維持にとって重要。
      • (3)蒋介石率いる国民政府は、張学良の支配する東三省に対して、国家として主権を対外的に主張できる立場、つまり外交権という一点のみでつながっていただけ →日本の出先である関東軍と東三省の実質的支配者である張学良が停戦をめぐって話し合いを始めてしまえば、国民政府は手出しができなくなる恐れがあった。
  • リットン調査団報告書。
    • 日本側に有利な部分は経済的な権益に配慮されたこと。
      • 張学良政権による東三省の無法律状態により、他のいずれの国よりもいっそう多く苦しんだとの認定。
      • 国民党の支持のもと日本品に対して不法なボイコットを行なったとの認定。
      • 解決の原則を書いた結論部分で日本の経済的権益が擁護されるよう配慮。
      • (1)日本人に十分な割合を配慮した外国人顧問団を配慮すること(2)対日ボイコットを永久に停止すること(3)日本人の居住権・土地貸借権を全満州に拡張すること。
    • 日本の要求は経済的なものではなく軍人の意図とずれていたため、日本に不利であるように思われた報告書の項目。
      • 9月18日の日本の軍事行動は、合法的な自衛の措置とは認められない
      • 満州国」(32年3月に独立宣言)という国家は民族自決の結果、生み出されたものではない。日本の関東軍の力を背景に生み出された国家。
      • 日本は満州地域における「中国的特性」を容認しなければならない。日本は満州が中国の主権下にあることを認めなければならない。
  • 政党が戦争反対の声を挙げられなかった理由
    • (1)中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対してきた日本共産党やその周辺の人びとが、1928年3・15事件、4・16事件で一成検挙された。
    • (2)合法無産政党の内部事情:全国労農大衆党は「服務兵士家族の国家保障」を選挙スローガンに。利益を上げるため出征中や在営中の兵士を解雇したり賃金を支払わない雇用者に最も強く圧力をかけてくれたのは陸軍省だったので、陸軍を起こらせるスローガンは通りにくかった。
連盟脱退まで
  • 国連脱退への選択肢
    • 芦田均の主張
      • 連盟が日本の主張を無視して、満州国は承認できないという報告書を出して、日本が認めなかったとしても連盟規約に反したことにならない。勧告に応じないという態度を取ればよい。
    • 内田康哉の主張
      • 焦土外交というフレーズ。満州国に関する問題で日本が強くでれば、おそらく中国の国民政府の対日宥和派の人びとが日本との直接交渉に乗り出してくるだろうという目論み。←32年6月、共産党殲滅に方針を転換した蒋介石が「日本に対しては提携主義をとる」と中日公使に通達。
  • 熱河作戦(1933年2月)
    • 31年満州事変→第11条で連盟に提訴、32年1月上海事件 →第15条で提訴。
      • 第11条:戦争または戦争の脅威となるような事変が発生したときは、連盟理事会を開く
      • 第15条:「国交断絶の虞のある紛争が発生したときは」という一段上の深刻な事態に対応するための条項
      • 第16条:「第15条による約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然、他のすべての連盟国に対し、戦争行為をなしたるものと見なす」
    • 33年2月は連盟が和協案をだして日本側に最後の妥協を迫っていたとき →その連盟の努力中に、れっきとした中国の土地である熱河地域に日本軍が侵攻することは「第15条による約束を無視して戦争に訴えたる」行為、つまり、連盟が努力している最中に新しい戦争を始めた行為そのものに該当してしまう →日本はすべての連盟国の敵となってしまい、連盟規約の第16条が定める通商上・金融上の経済制裁を受けることになり、また除名という不名誉な事態も避けられなくなる →33年2月20日閣議で、このままでは連盟から経済制裁を受ける怖れが出てくること、また除名という日本の名誉にとって最も避けがたい事態も考えられるとして、連盟の準備していた日本への勧告案が総会で選択された場合には自ら連盟を脱退してしまう、という方策を選択することになる。
  • 連盟脱退
    • 強行にみせておいて相手が妥協してくるのを待って、脱退せずにうまくやろうとしていた内田外相だったが、熱河侵攻という最初はたいした影響はないと考えられていた作戦が実のところ、連盟からは新しい戦争を起こした国と認定されてしまう危機をはらんでいた作戦であったことが、衝撃的に明らかにされてゆく。天皇も首相も苦しみ、除名や経済制裁をうけるよりは、先に自ら脱退してしまえという考えの連鎖が生まれる。
戦争の時代へ
  • 満州事変が1931年に起き