- 本稿の趣旨
- ヤケという語が担っていた機能的な側面がイへという語に移った
- イへが社会の基礎的な単位として確立してくる以前に、後世のイへが担う重要な機能の一部をヤケがはたしていた段階があった
一 イへとヤケ
- 古代の「家」とは何か。この「家」に古代社会のしくみを解く一つの重要な鍵がある
- イへとヤケの使い分け
- ヤケ・ヤカの場合にもヤカが原型と推定。ヤカは建物を意味するヤ(屋)と「ありか」「すみか」など複合語で用いられて場所・所を示すカ(処)とからなる言葉で、ヤのある一区画を指す語と推定。
- ヤを主体とするヤケは、建物のある一画を指す語としては本来的なものと考えられるが、イへが人間の集団(いわゆる家族)と深いかかわりをもっているのに対して、どちらかといえば施設・機関をさす用法が多い。
- イへがヤを含む「すまい」全体をさすという点では、イへはヤケに近似しているが、ヤケが敷地と建物という一区画の施設そのものをさすのに対して、イへという語には、つねにその背後に家族が結びついている。
- 律令ではイへとヤケのもつニュアンスの違いは漢字で明確に使い分けがなされる
- 本稿の目的
- 古代の史料にあらわれる「家」「宅」が「イへ」と訓まれたか、「ヤケ(ヤカ)」と訓まれたかを確定することは非常に難しく、後世的な観念で史料の「家」を「イへ」と訓むことが多かったが、古代には「家」が「ヤケ(ヤカ)」と訓まれたのではないかと疑われる例がたくさんある。
- そのような埋もれたヤケ(ヤカ)を発掘し、古代社会においてヤケがどのような地位を占め、どのような機能を果たしていたかを追究し、それによって逆に古代のイへの実態や機能を明らかにしようとする。
二 家・宅の訓の変化
- 研究方法
- 本稿はイへ・ヤケという日本語が、古代社会においてどのような意味と機能を担っていたかを追究する
- 追究しているのはイへ・ヤケという日本語であるが、与えられているのは家・宅という漢字史料。家・宅をどのように訓読するか問題になる。
- まず最初にイへ・ヤケという日本語と家・宅という漢字がどのように結びついていたかを調べる。
- 考察結果
- (一)ヤケの表記は「家」から「宅」へ移る傾向にあった、(二)奈良時代には家の訓はイへを主とし、ヤケを従とした。宅の訓はヤケを主とし、イへを従とした。
- ヤケという訓は時代が下るとしだいに用いられなくなる
- 三宅のように後世まで地名やウヂ名として多く用いられた場合にはヤケの訓がそのまま伝えられた
- 史料としては残されなかった「ヤケ(ヤカ)」から「イへ」への訓の変化が他にもたくさんあった
三 ヤケを含む地名とウヂ名
- ヤケを含む地名とウヂ名において「家」と「宅」はどのように区別されていたか
- 律令では、家族という人間集団を指す場合には「家」、建物とその敷地をさす場合には「宅」と明確に使い分けていたが、この律令の用語法は、中国律令の用語法をそのまま継承したものであって、実際には混用されている。
- ウヂ名の場合
- 同名のウヂを区別するために、漢字の表記では「宅」と「家」を意識的に使い分けた
- ウヂ名のオホヤケ・ミヤケには意識的に宅と家とを書き分けたと推定される例があり、しかも有力な氏には「宅」が用いられた形跡
- 正式のウヂ名は、狭義のカバネと同じく本来天皇から与えられるものであったことも、宅と家とを書き分ける要因
- 宅と家の書き分けが、ウヂ名に関しては出自の区別によった可能性が強く、ヤケとイへとの訓の区別によった可能性は少ない
- 郷名の場合
- 同じ呼称に対して国ごとに異なった漢字表記→ウヂ名の場合とは違い表記を統一する必要はとぼしい
- 郷名の場合にも、宅と家との相違は、訓の相違とは直接には結びつかない
- オホヤケとヲヤケの関係
- 奈良時代に大家(宅)と少宅が一郡の中に並存していたこと、オホヤケはまさにヲ-ヤケに対するオホ-ヤケであって、相対的な存在であったことに注目
- このことはオホヤケの性格を解明する上で重要な手懸りとなるので、ぜひ記憶に留めておく必要がある
- 郷名とヤケとの関連
- もし、七、八世紀のころ百姓の住居が一般にヤケと呼ばれていたとすれば、ヤケの里というような地名はつけられない
- ヤケヒト
- ヤケヒトは、ヤケ-ヒト(宅人・家人)の意と推定され、家人部や家部・宅部との関連が注目される
四 ヤケを含む人名
- 人名から当時の人たちのヤケの観念を探る
- 郷名やウヂ名は長期間継承されるのに対し人名(ウヂ・カバネを除く個人名)は個人ごとにつけられる →当時の人びとの意識を何らかの形で反映
- ヤケ(ヤカ)を表記した可能性のある「宅」「家」を含む人名のうち宅・家が。イへを表示したのか、ヤケ(ヤカ)を表示したのか
- 同一人の人名について、同時代史料のなかで宅と家を混用した例はない。
- 宅と家の書き分けは異例、宅か家のいずれかを用いるのを慣例としていたと推測される。しかし直ちに訓の違いとは結びつかない。
- 宅・家の用字の違いにかかわらず、どちらもヤケ・イエのいずれかを表示していた可能性が強い、そのいずれかであるかは、当時の人々にとっては社会通念としてほぼ定まる。
- ここではヤケ(ヤカ)と訓まれていた可能性が強いとされる人名を中心に、当時の人たちがヤケについてどのような観念を懐いていたかを探る。
- ヤケの観念とイエの観念
- 奈良時代に、ヤケは授受の対象と観念されたが、イエは授受や所持の対象とならなかった
- 「ヤケを持ち」「ヤケを守り」「ヤケを継ぐ」という観念は奈良時代にははっきりと成立していた
- 「イエ」はまだ土地・建物そのものをさす語としては成熟しておらず、人間の集団(いわゆる家族)またはその「すまい」をさす語。「イへ」が人の住む土地・建物の一画をさすことはあっても、人と切り離された土地・建物そのものをさすことはほとんどない。
- 「イへ」を所持の客体とする「イへを持つ」(イへモチ)という観念が成立した可能性は薄いが、「イへ」は人間集団そのものをさす語でもあったので、貴族・豪族層においては、政治的地位の継承が「イエを継ぐ」という観念されていた可能性は存した。
- 人名の「家継」がヤカツグを表記したのか、イへツグを表記したのかは、確定できない
五 オホヤケ考
- 「オホ‐ヤケ」とは何か?
- 「オホヤケ」の相対性
- 「オホ」という接頭語の用法を念頭におくと、地名においても、ウヂ名においても、個人名においても、オホヤケはヲヤケに対する相対的な存在であり、ミヤケよりもはるかに一般的な存在
- オホヤケにはミヤケや郡家との関連が想定される場合もされない場合もあるが、ミヤケや郡家と地方豪族との関係を考えれば、それは当然。
- オホヤケとはヲヤケに対する相対的な語であったから、ミヤケとは元来別の次元に属する語。
- ミヤケが朝廷と結びついていたのに対し、オホヤケはどちらかといえば一般的・在地豪族的な性格を持つ語。
- 溝口雄三の説
- 溝口は、これまでの辞典などのオホヤケの説明を(一)原義を宮殿とする説 (二)官の倉庫とみなし、平安朝の朝廷・天皇に直結すると考える説の二つに整理し批判
- 地域共同のものとしてのオホヤケ という斬新な仮説を提起
- 「地方豪族の建物であるとともにやがてその建物の機能をも含む言葉であった。つまり大宅は機能としてはその地域の共同体・構成員が帰依する中心であり、その意味でそれは権力の中枢であるが、しかしそこに朝貢・租税などの形で集中された財物は、時に軍事・祭事また土木事業などにもあてられたであろうから、おおざっぱな意味でそれは地域共同のものでもあった」
- 日本の土着思想の構造的特質を「オホヤケ構造」と分析
- 地域共同体のイメージを残影させたままのオホヤケ(大宅)が、国家的なオホヤケ(公)として天皇ヒエラルヒイの場の内に拡大され、この「公」が中世以後の権力ヒエラルヒイにも柔軟に相応し、権力ヒエラルヒイの場の内に共同体構造が包摂された、と説く。
- オホヤケの重層的構造
- 古代には在地首長的なオホヤケと重層して様々なレヴェルでのオホヤケが存在しえたと想定されるのであり、中世社会や近世社会における「公」の重層的存在は、基本的には古代社会の構造に淵源するものと考えられる。
- このようなオホヤケの重層的構造も超歴史的に日本固有のものとして存在したのではなく、日本の古代国家の形成のされ方と深くかかわりつつ、歴史的に形成されてきたものと想定される。
- 中国よりもはるかに遅れた段階にあった日本の支配者層が、国際的動乱に対処するために、中国の先進的な統治理念や法を摂取して形成した早熟的な古代国家は、当然古い社会体制を残存し、それを基礎にして成立した。
六 ヤケの景観と機能
本節ではヤケそのものの性格を―その景観や機能を中心に―明らかにする
- 景観
- 彌永貞三によるミヤケの語義の拡大説
- 様々な機能を含めた観念であるヤケ
- 軍事や交通と深い関わり
- もっとも重要な機能が農業経営の拠点
- ただ個々の農民の住居は一般にヤケとは観念されなかった
七 ヤケとイへ
奈良時代に前後に社会に流通していた「ヤケ・ヤカ」という語は中世にはほとんど使われなくなる
- 一般民衆のイへ
- 一区画の宅地という観念の成立すること自体が竪穴住居から平地住居への転換を前提としていたので、少なくとも竪穴住居に住む一般庶民のイへは、まだヤケとは観念されなかった。
- 古代の「イへ」の観念は一般に家族と結びついており、家族のすまいがイへであった
- イへは家族のすまい、経営の単位とは次元を異にする、経営的に従属していた下層農民にも「イへ」は存在、ヤケは「ヤやクラを含む一区画」の施設を意味、必ずしも家族の存在をその背後に想定していない
- 一区画の宅地という観念の成立すること自体が竪穴住居から平地住居への転換を前提としていたので、少なくとも竪穴住居に住む一般庶民のイへは、まだヤケとは観念されなかった。
- 在地首長のイへとヤケ
- ヤケは規模が大きく、在地首長層のヤケが農業経営の拠点
- 日本の古代社会は共同体の共同性が民会ではなく首長により代表されるので、ヤケは在地首長のイへと空間的・機能的にも重複
- 在地首長層の住居が、ヤケとしての景観と機能をもっていたとき、同じ実体が家族の側面からはイへとして、景観の側面からはヤケとして観念された
- 「家」という漢字が、イへともヤケとも訓まれたのには、そのような背景があった
- 首長層のイへが一つの経営単位として成長してくると、かつてはヤケの観念と結びついていた機能的側面が、しだいにイへの観念の方へ移行していった
- 景観としてのヤケの農民層への普及
- かつてのヤケを中核とした何らかの共同体が解体してゆき、基幹的な農民層のイへがはっきりしたヤケをもって経営の単位となる
- そのときヤケという言葉が担っていた景観と機能が、イへという言葉に担われていった
- 鎌倉時代には、かつてヤケという語が担っていた機能的な側面の大部分はイへという語に移っていた