(091028)6章タバコの歴史 補綴 第3章中国タバコ

3-1 中国タバコの世界
  • タバコの伝来
    • タバコが中国に伝来した時期は日本と同様確実には明らかになっていない。確実な文献は17世紀初頭以降のものであり、16世紀後半から17世紀初めにかけてもたらされたとされる。岸本美緒は中国におけるタバコの流入経路は4種類あったとしている(『東アジアの近世』山川出版67頁)。第一がフィリピンから福建に至るルート、第二が東南アジアから海路広東に至るルート、第三が日本から朝鮮を経て遼東に至るルート、第四がインドシナ半島から陸路で雲南へと至るルートである。
  • 皇帝と嗅ぎタバコ
    • タバコの流入に対し、中国でも日本と同様初期には禁令が出された。しかし効果は薄く喫煙は普及し、ヨーロッパと同様にタバコは薬草として医学体系に位置づけられ文化的受容が促進された(『タバコが語る世界史』山川出版24頁)。明最後の皇帝、崇禎帝は禁令は効果は無く、清代に入ってからも康熙帝雍正帝が禁令を発した。だが両帝は喫煙はしないが嗅ぎタバコを好み、鼻烟壺の収集・製造に執着し、庶民にも広まった。禁令は形の上では続いていたが、アヘン問題に関心が移ると消え去ってしまう(同)。
  • タバコ禁令
    • タバコが伝来した東アジアにおいて共通に見られるのがタバコ栽培や喫煙の禁令である。禁令は確認される中でも日本の慶長14年(1609)年のものが最も早いものであり、長崎周辺で既に葉タバコの栽培が行われていたとされている(『東アジアの近世』70頁)。17世紀前半には中国でも禁令がくだされた。ではどうしてタバコが禁止されたのであろうか。以下のような4つの理由が考えられている(同)。一つ目が食糧にならない葉タバコを栽培することによって穀物栽培が阻害されること。二つ目が健康に有害であること。三つ目が無用の出費で民の生計を圧迫すること。四つ目が火事の原因になりやすいことである。だが東アジアのどの地域も禁令は有名無実化した。利益が上がりニコチンの中毒性のため栽培・販売を止めることはできず、人びとの生活の中に定着していく。
3-2 16世紀の国際交易ブームと17世紀の収束
  • 海洋アジア交易圏
    • タバコが東アジアに流入した16世紀は西欧諸国の進出とともに世界的な交易ブームの中にあった。だがタバコをもたらしたヨーロッパ商人は既存のネットワークに加わっただけであり、海洋アジア交易圏は歴史的に形成されたものであった。ここではタバコが流入した当時の交易の状況を知るためにどのように海洋アジア交易圏が形成されたかを扱う(『中公世界の歴史25』60頁)。
    • 形成期
    • 発展期
      • 8世紀から15世紀。8世紀頃から南シナ海とインド洋、紅海までが一つに繋がる。紅海からはイスラム商人が進出し、南シナ海では中国の冊封朝貢体制が敷かれる。
      • 中国側で南シナ海への進出が活発になってきたのは宋代、1127年の南宋以降である。金に圧迫され南下した王朝は税収を海洋貿易に見いだすことになった。こうして宋代では陶磁器の輸出が盛んになった。13世紀にモンゴル帝国の時代となり元朝が成立すると、ユーラシアの一体化が進み、東西の陸上ルートと海上ルートが一本に結ばれた。14世紀後半には明朝が成立した。鄭和の南海大遠征、東南アジア諸国冊封朝貢日明貿易倭寇など海上交流が活発になった。こうして東アフリカ、西アジア、インド、東南アジア、東アジアが一つの交易圏として発達してくる。
    • 変容期
      • 16世紀。アジア物産に魅せられたヨーロッパ諸国は香辛料などの獲得のためアジアへ進出してくる。その背景には封建社会からの脱却やレコンキスタの膨張などがある。こうしてポルトガルを筆頭にオランダ、イギリスが進出してくる。フィリピンはガレオン貿易でアカプルコ-マニラ間から中国の福建へと進出する。こうして太平洋、インド洋、大西洋と全ての海域が結び付けられた。ヨーロッパのアジア物産の対価は銀しかなく、中国に銀が集積された。また日本銀も中国に流入し、中国では税制が銀納になる。
    • 欧米進出期
      • 16世紀は、ヨーロッパは既存のアジアネットワークに参入しただけであった。地域支配が始まるのはプランテーション経営が始まる17世紀後半頃からであり、植民地支配を行うようになるのは19世紀後半の帝国主義下である。16世紀にはヨーロッパの一方的な銀の流出状態にあったが、産業革命を達成し金融資本と産業資本が結び付くと、商品市場と資本の投下地の獲得の為、植民地支配に積極的になるのでる。
  • 明初朝貢秩序の解体(16世紀)
    • タバコが東アジアに流入した16世紀は西欧の進出だけではなく、アジアも含め国際的に交易が活発化した時代であった。これは明初に成立しネットワークを形成した朝貢秩序が解体したことによる。なぜ朝貢秩序が解体されると交易が活発化するのか。ここではまず明初の朝貢秩序とはどのようなものかを述べる。14世紀は動乱の時代であり、元の衰退と明の台頭、それに伴う李氏朝鮮の形成、日本の南北朝の動乱が起こっていた。14世紀末から15世紀初めにそのような動乱が明を中心とする広域的な秩序のもとに各地域が結び付けられていく。その秩序は朝貢冊封の関係をとった。中国の貿易は貢物を奉げそれに対する回賜という形態をとっていた。この上下関係が中国王朝による周辺諸国の君臣関係にまで至ると冊封となった。より広い意味では「朝貢システム」ととらえることができ、「近代的な主権国家相互の外交関係及びそすいた国際秩序のもとでの貿易と異なる、東アジアの伝統的な国際秩序や貿易関係、すなわち華夷観念に基づく等差的な国際秩序観とそのなかで行われる交易を広く指す」(『岩波講座 世界歴史13』1998 12頁)。明代の特徴はこの朝貢体制と民間貿易の禁止の結び付きとにあった。明は海禁政策を採り強い統制化に置こうとしたので、民間貿易の隆盛をもたらすものではなかった。
    • 15世紀の東アジア・東南アジアの状況は、永楽帝の時代に形成された国際秩序のもとで、朝貢貿易を基幹として交易が行われていた。周辺諸国では民間交易、私貿易、密貿易が行われていたが、最大勢力の明が固い貿易統制を敷いていたことにより、周辺の民間貿易もその影響を受けざるを得なかった(『岩波講座 世界歴史13』15頁)。この15世紀の国際秩序が打破され新興軍事力が成長してくるのが、16世紀の状況。16世紀の北虜南倭は戦争と銀を結び付け戦争景気と密貿易の利益に沸く好況地帯を中国の周辺部に作り出した。明は1567年には海禁を緩和し民間の海上貿易を許す方向に転換、明初の固いコントロールから人と物質に即した柔軟なコントロールへと転換しようとした。そて、1571年にはスペインによりマニラが建設され新大陸の銀がガレオン貿易で流れ込み、1557年にマカオ居住権を得ていたポルトガルが1570年代に長崎-マカオ間の日中貿易に乗り出したため日本銀も大量に流入した。だが、新大陸と日本からの安定した大量の銀の流入は東アジアの交易ブームをさらに過熱化させ、新興勢力の財政基盤となり、明の支配を切り崩していく。
    • 明の支配は周辺諸国により切り崩されてきたが、衰退に身を任せたのではない。1572年から張居正は集権化と富国強兵により建て直しを図ろうとした。この張居正が銀の大規模な流入に対応して行った徴税制度である一条鞭法を全国化した。様々な賦税・徭役負担が一本化・銀納化されて土地に課される改革が推し進められた。このように「16世紀後半から17世紀前半の東アジア・東南アジアは、明を中心とする商業ブームのなかで、新興の商業=軍事勢力が急速に伸長し、生き残りを賭けて衝突した時期であった」(同31頁)。
  • 17世紀の局面転換
    • 17世紀には全世界的な気候変動による飢饉(1640年前後、日本では寛永の大飢饉)が生じ、日本と中国も経済的な混乱に陥った(同32頁)。中国では農民反乱が激化し王朝交代をもたらし、日本は幕府が全国的統制力を強化させていった。明朝に代わった清朝は、三藩の乱と鄭氏台湾を鎮圧しなければならなかった。そこで1661年に遷界令を布くことになる。福建・広東にを中心とする沿海の住民を内地に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして交易による財源強化を断とうとしたのである。こうして1680年代には三藩の乱と鄭氏台湾を鎮圧し、反清勢力は姿を消した。そして1684年には遷界令が解除され中国船の出航が再開された。岸本美緒はこうした清朝支配の確立を「明朝の支配を食い破って成長してきたこれら勢力の間の覇権争いの最終段階」と表現している(同37頁)。
    • 1684年に清朝が海禁を解除したときには、清朝海上貿易を安定して支配しえた。必要とあらば入港地の限定や貿易品の制限を随意に出来たのである。このとき16世紀の交易ブームは収束していた。「日本の「鎖国」や銀輸出禁止により、日本商人は東シナ海から姿を消し、日本銀の減少は東アジアのブームを収縮させた。日本の「鎖国」以後、東アジアにおけるポルトガルの活動は縮小し、マカオと東南アジアとの交易にほぼ限定されるようになった。台湾の拠点を失ったオランダは、清との直接交易に見切りをつけ、東南アジア島嶼部での支配拡大に力を注いでいた。マニラに向かう中国帆船の数も、世紀初頭に比べて半減していた。総じていえば、16世紀後半から17世紀前半にかけての加熱したブームは去り、中国の政治的・経済的統合に対する遠心力は弱まり、野心的冒険者たちの率いる自立的勢力は姿を消していた」(同37-38頁)。
3-3 明代後期の社会と経済
  • 農業経営の商業化
    • 明代後期には福建省を中心にしてタバコの栽培が急速に普及した。このタバコ栽培の普及の背景には明代後期に農民経営の商業化が進行したということがある。この変化は中国じたいの生産力の発展に加えてメキシコ銀・日本銀の大規模な流入、新しい栽培作物の伝来という世界史的な構造の変化と深く連動している。(『世界歴史体系 中国史4』147-183頁)。
    • 中国の生産力の発展は、低地開発による。明代には長江下流域のデルタ地帯の低地開発が完了した。これにより、下流域に続いて長江中流域が穀倉もしくは穀物移出地帯として登場してくる。氾濫原の湿地帯に水田を造成し、北宋時代にインドシナ半島から導入され品種改良が行われた占城米を植え収穫が可能となった。こうして、穀倉地帯は移動し、長江下流域では穀物に代わって工芸作物が栽培されるようになり、16世紀半ばには北宋時代の「江浙熟すれば天下足る」に代わり「湖広熟すれば天下足る」という俗諺が生まれた。江南地区の手工業は発展を見せ、都市民間手工業だけでなく農村手工業の展開ももたらした。養蚕・製紙により桑が栽培され製糸業が発展、夏季の棉作が普及した。こうした手工業の発達はその原料を供給する農業の展開に連関し、工芸作物の栽培がさかんとなる。こうした中国側の内部発展がタバコ栽培を拡大させた一因である。
    • 商業的農業の展開により江南デルタの小農民は恒常的に食用米を購入することになる。手工業の発達や商業的農業と連動し、遠距離交易が展開するようになる。このような経済の拡大と商業の発展とを支えたのが貨幣経済の浸透であった。この貨幣経済は銀の流通量の増大により可能となった。明代の銀は鋳造されることなく、地金のまま通用した。当然、夾雑物の混入の度合いによる品質の差異が発生するが、この問題に対しては、銀塊の融解・分割を銀炉とよばれる専門の業者によって行わせ、品質維持のための刻印を打たせた紋銀を作らせた。だがここで問題が発生する。主要な貨幣としての銀地金の国内での供給は明代中期に枯渇していたのである。それにもかかわらず明代後期において銀の流通の拡大がみられたのはどうしてであろうか。それは16世紀に大量の銀が流入したからであった。
  • 銀の大量流入の背景
    • 16世紀初め、渡来したポルトガル商人により二種類の銀がもたらされる。ヨーロッパにおけるアジア物産の再輸出で獲得した新大陸の銀、および日本に搬入した貨物の代価として納めた日本銀である。ここに福建商人やオランダ商人が参入し、東アジアから東南アジアにかけての海上貿易圏が形成される。そこでの決済に銀が使用され大量の銀が中国大陸に流入した。16世紀後半からは、福建商人がルソン島におもむき、マニラに根拠地を築いたスペインのメキシコ銀を輸出品の代価として受領し、中国に持ち帰った。(『世界歴史体系』163頁)
    • 海禁・朝貢体制は沿海諸省のために深刻な打撃を与え後期倭寇の原因となった。後期倭寇の主力が中国人であり海禁が沿海住民の生計の手段を奪っていることが問題となり、1567年に海禁は廃止され貿易が認められることとなる。日本への渡航は禁止されていたが実効は無かった。こうして東アジア・東南アジアへ中国商人が今まで以上に進出することとなる。こうした交易の展開にはヨーロッパのアジア進出、いわゆる大航海時代が深く関わっていると濱島敦俊は指摘する。「・・・1510年、インド西岸のゴアを占領し、つづいてマレー半島のモルッカをへて、1517年広州にはじめて来航したポルトガル商人のアジア進出が重要な契機をなしていた。海禁を国是とする明朝は交易を禁止したが、密貿易は継続し、ついには広州の取引が公認され、1557年、澳門に居住地の設定が公認された…彼らがもたらす銀が、16、17世紀、江南を先頭とする経済の拡大をもたらす重要な要因となっていた」(『世界歴史体系中国史4』165頁)。
  • 税制改革
    • 銀経済の進展、さらに16世紀に進行した社会的変動は、税糧および徭役負担の体系にも反映する。銀納化が進んでいき、16世紀半ばの一条鞭法が施行され清代の地丁銀へと発展する。だが土地に基づく課税は限界があり、国家権力の補足し得ないところで動いている莫大な財貨から収奪しようと、商工業に対して課税されることになる。16世紀に進行した商業化と、外国貿易の拡大は莫大な富を生み出す一方で、在来の収税制度には補足されなかったのである。だがこの課税は、各地で反発を招き、騒乱状態を出現させることとなる。