4-1 16世紀アジア交易の展開
- タバコの伝来とアジア交易
- 南蛮貿易とは何か
- ポルトガルの海上帝国とアジア進出
- ポルトガルが早期の進出を遂げた第一の要因として挙げられるのがヨーロッパの西端で大西洋に臨み北アフリカに近いという地理的利点であり、さらにスペインを形成するカスティーリャ、アラゴンに先んじて統合の度合いを高めていた。しかし、内部には危機を抱えており、この危機を乗り越えるために対外進出を選んだのあった。この危機はどのようなものであったか。「黒死病の時代の以後の1世紀間で国家の収入は半減していた。貨幣価値の下落は地代収入に頼る貴族を苦しめていたが、その主因は貴金属とくに金の深刻な不足であった。その乏しい金および銀をヨーロッパから吸いよせていたのはアジアの物産である。一方、北アフリカ沿岸のイスラーム商人との通商によってサハラ越えのキャラバン・ルートが金をもたらすことは、ヨーロッパではすでによく知られていた。しかも北アフリカのモロッコは土地が肥沃で、サトウキビの生産地でもあった。また、ジョアン1世は新興貴族の台頭に直面して潜在的な脅威を回避する必要があった」(山川『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』377頁)という状況だった。
-
- ポルトガルの対外膨張は1415年のセウタ攻略から始まり、89年にはディアスが喜望峰に到達して帰還、98年にはガマがカリカットに到達した。アジア進出は1510年のゴア征服から本格化し、11年にマラッカを制圧、22年にはモルッカ諸島に要塞を置いた。中国への通商は1513年にジョルジ・アルバレスにより始められ、54年にはマカオが割譲された。日本に関しては1543年にはいわゆる種子島への漂着から交易の視座を得た。この当時、中国は後期倭寇を鎮圧したが警戒を続け海禁を解いた後も日本との交易を禁止していた。こうしてポルトガルは日中両国の貿易の仲介者として登場してくる。「東南アジアの香料やインド・ヨーロッパの製品を遠路舶載したポルトガル商人は日本に対し、その最も欲する生糸・絹織物などの中国の商品を舶載し、代わって中国の欲する日本の銀を持ち出すことにより遥かに容易に、かつ遥かに有利な商利を獲得することができたのである」(『岩波講座 日本歴史』1963年,96頁)。
- 石見銀山と銀の流出
- 九州平定後、秀吉は輸入品の買占めを図ろうとする。直轄領長崎だけでなく、どこの大名領でも来航した船の生糸を膨大な銀で買い占め、更なる来航を促す。買い占めた生糸を畿内で売りさばき貿易独占の利を得た。蔵入地の米を石見銀山に送って銀にかえ、長崎で輸入品の鉛・塩硝を購入させる。このように直轄領の農村からの米、銀山からの銀と貿易港とを有機的に結び付けた。「輸入品を誰よりも優先的に買い占めることは軍事的にも経済的にも秀吉の力が他を圧倒しうる体制を成立させることになる。それは直轄銀山から銀が大量に産出される限り、どんなに多くの貿易船が来ても取引(買占め)を成立させ、権力の強大化をもたらす。当時世界の産銀高の三分の一を産出したというほどに世界有数の産銀国となり、世界の貿易体制に重きをなすに至ったからこそできた業である」(池上裕子『織豊政権と江戸幕府』講談社2001年258-259頁)。
4-3 近代におけるタバコ産業の展開
- 概略
- 近代におけるタバコ産業は刻みタバコからシガレットへの転換であった。シガレットが普及する中で、国際企業のアメリカン・タバコ会社が日本に進出した。1899年村井兄弟商会がアメリカン・タバコ社と合同し日米煙草トラストが結成されたのである。アメリカン・タバコ社の勢力が強まる中で、それに対抗するため、また日露戦争の税収のため、タバコは専売となった。すなわち1904年、煙草専売法が施行され、大蔵省に煙草専売局が設置されたのであった。戦後には1949年に大蔵省専売局から日本専売公社に引き継がれる。1985年たばこ専売制度が廃止され、日本たばこ産業株式会社が発足し現在に至っている(たばこと塩の博物館編『たばこと塩の博物館常設展示ハンドブック』2007年)。
- 紙巻たばこの出現
- 日清戦争から日露戦争へ
- 日本において紙巻タバコが普及するようになった契機は日清戦争であった。紙巻タバコは慰問品となり、一般世人の購買力をあおりつつ、業者自身の報国的かつ広告的慰問がかなり行われた。さらに岩谷商会は陸軍と結び付いた。まず出征軍人に酒とともに紙巻たばこが下賜されたが、この製品製造は岩谷商会が担った。こうして岩谷商会の「天狗たばこ」は陸軍軍人社会に愛され、「恩賜」タバコと慰問品により、紙巻タバコが普及していくのである。
-
- こうしたなかで、アメリカン・タバコ社が日本に進出してくる。アメリカン・タバコ社の創始者デュークは、アメリカにおいてシガレットを機械化により大量生産し他企業を制圧、新たな市場を国外に求めていた。こうして多様なタバコの消費形態はシガレット一辺倒になっていくのである。日本におけるアメリカン・タバコ社の進出は木村商会との資本提携のもとで進んだ。木村商会はアジア進出を夢見て外資導入を図りアメリカン・タバコ社と合同した。「内地の需要を充すに就ては弊社すでに資金の存する所あり、且万般の施設全く其成を告げ、即ち自らを信じ其供給を充すに難からずと雖も、大に東洋販路の拡張を謀り、随つて一大工場の新設を期するに至りては、其資本を要する事莫大にして、外資輸入道に依らざれば其の目的を達する能はず」(上野堅實『タバコの歴史』276頁)。だが村井商会はアメリカン・タバコ社がイギリスと提携したブリティッシュ・アメリカン・タバコ社(以下BAT社)の支配下に組み込まれることになる。村井商会とアメリカン・タバコ社は資本金500万円ずつで出資したが、アメリカン・タバコ社から200万円の増資の提案がなされた。折半で100万円ずつ拠出することになったが村井商会は払い込めず資本金構成は700万円対500万円となり、村井側の主導権は失われた。出資金はBAT社(1902年10月成立)に引き継がれ、旧村井商会のブランドであった「ヒーロー」や「ピーコック」などの商標権もBAT社に帰属させられてしまった。
-
- タバコ専売はこうした英米タバコトラストの侵入と税収の獲得が相俟って進展した。政府は日清戦争の戦後経費を賄うために葉タバコから専売制度の導入を試みたが、民間業者からは反対運動が起こった。政府の専売制度導入の理由として「我が国のタバコ市場を座巻しつつあった英米タバコ・トラストから我が国のタバコ産業を守る」(同281頁)という大義名分が用いられた。結局、専売に反対する運動が各地で見られたが、日露戦争に突入し軍費の調達が国家的至上命令とされ、1904年7月1日より煙草専売法は施行された。こうしてBAT社は日本市場から締め出されることとなった。村井商会を操り強硬に製造官業化反対を取らせ、外交ルートからも働きかけたが、日英同盟により決着が付いた。BAT社は中国大陸や朝鮮半島に進出していくことになるが、専売制度を敷いた日本も対抗することとなり、熾烈な競争を繰り広げることになる。