西周から東周への首都移転にともなう政治的変化

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今日は西周から東周への政治的変化について質問を受けました。
なにやら封建制のシステムで勘違いがある様子。


生徒Aくんからの質問です

春秋時代の東周は邑で緩やかに連合体を構成しているとおもいます。これって封建制の「くずれ」っていえるのでしょうか。むしろ戦国時代になってからが封建制のくずれだと思います。しかし問題文を読むと西周から東周への首都移転にともなう変化だから、春秋時代から戦国時代への変化ではありませんよね?どうすればいいのでしょうか?


ふむふむ。これは戦国時代を「封建制のくずれ」と認識していることに問題がある。
ではまず殷からおさらいしていきましょう。
殷はどのような統治スタイルか覚えている?
甲骨文字とかを思い出せ。


えっと、確か祭政一致神権政治
そして宗教的権威で邑の連合体を構成していたのよね?


うん。次に西周の場合は封建制を敷く。
一族諸侯に領地を与え世襲させ、その見返りに奉仕をさせる。
土地分与による支配システムが封建制というわけ。


多くの教科書では中世西欧と比較して、契約関係と血縁関係の相違が強調されているわね。
中国は血縁関係が重視。
周王朝の場合は世襲のため世代を重ねるごとに自立化傾向を見せる傾向があったのよね?
そこに犬戎が侵入してきて、鎬京から洛邑に遷都して西周から東周へ移り変わる。


この犬戎の侵入による首都移転で周王室は大きく威信を損ねてしまうのですね。
そして諸侯たちがそれぞれ独立していくきっかけとなる。
だけど、このとき周王室の権威はいまだ残存しており、各諸侯も完全に自立化できなかった。
そこで諸侯は覇者となのり、「尊王攘夷」を唱えて同盟を形成しようとした。
この盟主となることで自らの力を拡大しようとしたのです。


へー。周王室の権威の喪失により自立化し、残存する権威を利用して力を拡大しようとしたのね。
つまり諸侯が周王室から自立的になっていくことを封建制のくずれとしてとらえればいいのね?
じゃあ、戦国時代はどうなっていたのかしら?


戦国時代になると周王室の権威は完全に失墜する。
そして今までの邑の連合体とは違って、領域を支配する領土国家へと変貌を遂げていく。
このため、生徒の質問に答えると、戦国時代は封建制のくずれでも何でもないのですね。
封建制そのものが機能しなくなっているから。



元ネタ紹介!

紀元前11世紀に華北に勢力を伸ばした別の王朝は、首都の移転により時代区分がなされる。移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化を2行(※引用者註 60字)で説明しなさい。
東大2009-2-2-b