雑録

18世紀〜19世紀におけるオスマン帝国、ムガル帝国、清の3つの帝国の動揺に共通する政治的要因について(※条件:帝国内部と外部の動きを記す)


これまた頻出の「アジア諸王朝の動揺」のテーマだわね。
出題者の要求は「共通の政治的要因」。
条件指定も帝国内部と外部の動きを中心に述べるだけだから難易度は低いわ。
簡潔にまとめると以下の通りかしらね。
内部は「中央集権体制の動揺」、外部は「主権国家国民国家体制からの挑戦」を書けば良いでしょ。


論述問題は何よりも構成が大事。プロットが決まればあとは文章を並べるだけです。
今回はまず外部的要因について西洋の国際体制に組み込まれたことを述べた後に、
内部的要因として「中央集権体制の動揺」の事例を各帝国ごとに述べていきましょう。


まず外部的要因の「主権国家国民国家体制からの挑戦」だわね。
これはそもそもアジアには独自の国際体制が敷かれていたことを指摘する必要があるわ。
明確な領域を有していたわけでもなければ、国民を直接統制できていたわけでもないもの。
イスラーム世界や東アジア世界にあった伝統的な国際秩序が打破されていったのね。


それと関連して一部の民族が他の多数の民族を支配する多民族国家であったことも指摘できます。
清王朝満州人だし、ムガル帝国はティム―ルの子孫だし、オスマン帝国はトルコ系。
そのような中で西洋からの挑戦を受けて、王朝が失策を重ねれば、
少数勢力であった被支配的な民族のナショナリズムは昂揚するという寸法です。
こうして支配者層と被支配者層の国内対立が起こってくるのですね。


次に内的要因だけど「中央集権体制の動揺」ね。
アジア諸王朝の集権的支配が腐敗していったことを述べていく方針ね。
清王朝乾隆帝末期から動揺が始まり嘉慶白蓮教徒の乱(1796-1804)で国力の衰退を露呈させたわ。
アヘン戦争(1840-42)に敗北するとインフレや不況が起こって社会不安が広がるわね。
こうして洪秀全が「滅満興漢」を唱えて太平天国の乱(1851〜64)を起こすのね。
清朝はこれを鎮圧できず、郷勇たちが活躍するの。彼らは洋務官僚となって改革を主導するわ。


ムガール帝国アウラングゼーブ帝以後を中心に書きましょう。
アウラングゼーブ帝は帝国最大領土を実現したけれども国内はガタガタ。
ジズヤを復活してジハードを展開したため、各地の異教徒・異端派が反抗することに。
外征による財政難に際しては徴税請負も公認したため集権支配は崩れたという流れです。
各民族・宗派は独立傾向を見せていき、帝が死ぬ(1707)と藩王国が乱立する結果になりました。
各地の勢力は18世紀から19世紀にかけてイギリスに征服されていきます。
最終的にはインド大反乱(1857)も鎮圧され、イギリスの直接統治下に置かれました。


最後にオスマン帝国
まずはアフメト3世(位1703-30)のチューリップ時代に注目ね。
文化の爛熟期を迎えるのだけれど・・・
その一方ではミッレト制を打破しようとする自立化運動が生まれたのね。
さらに東方問題で列強の干渉も激化し、「瀕死の重病人」と呼ばれるようになるわ。
帝国内のスラブ系及びアラブ系の住民は自立化傾向を見せていくことになって・・・
ムハンマド=アリーは2回のエジプト=トルコ戦争(1831〜33、1839〜40)で、
エジプト総督の世襲権を承認されるのよ。


300字だと字数制限厳しいので指定語句を使って具体例を表現する感じで書いた。

アジア諸帝国は、西洋列強の進出により国民国家体制の挑戦を受けた。西洋の進出は王朝支配下において少数勢力であった被支配階層のナショナリズムを昂揚させることになり、国内対立を促した。またアジア諸帝国の内部ではその腐敗により中央集権体制が崩壊していった。清王朝ではアヘン戦争後に社会不安が広がると、洪秀全が滅満興漢を唱えて太平天国の乱を起こした。ムガル帝国ではアウラングゼーブ帝によるジズヤの復活と幾多の外征で中央集権体制が崩壊し、帝の死後は藩王国が分立した。オスマン帝国ではスラブ人やアラブ人などの自立化傾向が強まり、ムハンマド=アリーは二度のエジプト=トルコ戦争でエジプト総督の世襲を認めさせた。(297字)