ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、2013年

岩波文庫の同タイトルを読んだことはあったが、光文社古典新訳文庫で再読。

  • 同時代作家のベストセラーよりも大家の古典を読むべき。
  • 練られた思想によるテーマ性のある文章を読むこと。さらに読むだけではなく思索することが必要。
  • 何も考えず粗製乱造された文章を大量に読んでも全く意味がない

「自分の頭で考える」より

知識の体系化

どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。

自分が思索して考えたことは、もうすでに誰かが考えていた問題

さんざん苦労して、時間をかけて自分の頭で考え、総合的に判断して真理と洞察にたどりついたのに、ある本を見たら、それが完璧な形でさらりと書かれていたーーーそんなこともあるかもしれない。だが自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、百倍の値打ちがある。というのも、自分の頭で考えてたどりついた真理や洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きした構成要素となり、みごとに緊密に全体と結びつき、そのあらゆる原因・結果とともに理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。さらにそれは、ちょうど内なる欲求が活発になった絶好のタイミングであらわれたものなので、しっかり根をおろし、二度と消えることはない。

「著述と文体について」より

「書きながら考える」「書くために考える」のではなく、考え抜いたからこそ書く。

…本当に真剣にあらかじめ考える少数の書き手の中に、テーマそのものについて考える、きわめて少数の人がいる。その他の者は、書物について、他人の言説について考えをめぐらすだけだ。つまりかれらは考えるために、他人の既存の思想から、より自分に近しく強い刺激を必要とする。よそから与えられた思想がかれらのもっとも手近なテーマになる。したがってたえず他人の思想の影響下にあり、そのために決して本来のオリジナリティーは手に入らない。これに対してテーマそのものについて考えるきわめて少数の書き手は、テーマそのものに刺激されて考える。だから思索がじかにテーマに向かう。こうした書き手の中にしか、不朽の名声を博する者はいない……

原著を読む

できれば原著者、そのテーマの創設者・発見者の書いたものを読みなさい。少なくともその分野で高い評価を得た大家の本を読みなさい。その内容を抜き書きした解説書を買うよりも、そのもとの本を、古書を買いなさい。誰かが発見したことに新しく付け加えるのがたやすいことは、いうまでもない。だからこそ、じっくり考え抜いた根拠に基づいて新たに付け加えられた事柄に精通してゆかねばならない。

現代でいうところの「テレビがゆってた(by若者)」というやつだな

…そもそも非知識階級の若者たちがとにかく印刷物だという理由で、新聞を権威と考えていることを指摘せねばならない…

文章を書く時には構成が重要であり、そのあとに文章を並べる

あらかじめ設計図を描き、細部にいたるまで考え抜いて仕事にあたる建築家のような書き手は少ない。むしろほとんどの書き手はドミノゲームのように事を進める。つまり半ば意図的、半ば偶然にドミノの牌が次々ならぶように、文章がつながり結ばれてゆく。全体がどんな形になるのか、結末はどうなるのか、おおよそ見当がつかない。多くの著述家は全体像すら知らず、サンゴ虫がサンゴ礁をつくるように書いてゆく。文は文に連なり、行く先は神のみぞ知る。おまけに「現代」生活は猛スピードで進む。文筆の世界でそれは極度にぞんざいで、ずさんな文章となってあらわれる。

「読書について」より

多読よりも精読

……食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ……ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかりと根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。概して精神の栄養も身体の栄養と変わりはなく、吸収されるのは、摂取した食物のせいぜい五十分の一にすぎない……

大衆向けベストセラー=悪書

…悪書は読者から、本来なら良書とその高尚な目的に向けられるべき時間と金と注意力を奪い取る。また悪書はお金めあて、官職ほしさに書かれたものにすぎない……こうした大衆文学の読者ほど、あわれな運命をたどる者はいない。つまり、おそろしく凡庸な脳みその持ち主がお金めあてに書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。この手の作家は、いつの時代も吐いて捨てるほどいるというのに。その代わり、時代と国を越えた稀有な卓越した人物の作品は、その題名しか知らないのだ。特に大衆文芸日刊紙は、趣味のよい読者から、教養をつちかってくれるような珠玉の作品にあてるべき時間をうばい、凡庸な脳みその人間が書いた駄作を毎日読ませる、巧妙な仕組になっている……人々はあらゆる時代の最良の書を読む代わりに、年がら年じゅう最新刊ばかり読み、いっぽう書き手の考えは堂々巡りし、狭い世界にとどまる。こうして時代はますます深く、みずからつくり出したぬかるみにはまっていく。

古典を読みませう。

……私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆が大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。むしろ愚者のために書く連中は、いつの時代も俗受けするものだと達観し、常に読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけだ。

大家に関する本ではなく、大家が書いた本を

昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本なら読むけれども、偉大な人物が書いた著作は読まない。新刊書、刷り上がったばかりの本ばかり読もうとする。それは「類は友を呼ぶ」と諺にもあるように、偉大なる人物の思想より、今日の浅薄な脳みその人間がくりだす底の浅い退屈なおしゃべりのほうが、読者と似たもの同士で居心地が良いからだ……ところで私は、若き日にアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルのすばらしい警句に出会えた運命に感謝している。以来、それは私の導きの星となった……「古人の書いたものを熱心に読みなさい。まことの大家を。現代人が古人について論じたものは、たいしたことはない」(シュレーゲル『古代の研究』)

体系的に本を読む

…読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。私たちは食べ物で身体をやしない、読んだ書物で精神をつちかう。それによって現在の私たちができあがっている。だが、身体が自分と同質のものしか吸収しないように、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。目的なら、だれでも持っているが、思想体系めいたものを持つ人は、ごくわずかだ。思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。

二回読む

…「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ。二度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末が分かっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるからだ。また二度目になると、どの箇所も一度目とはちがうムード、ちがう気分で読むので、あたかも同じ対象をちがう照明のもとで見るように、印象も変わってくるからだ。