カレル・チャペック(来栖継訳)『山椒魚戦争』(岩波文庫、1978)

ディストピアもの。資本主義を含め現代文明が行き過ぎた結果、山椒魚が人間にとって代わる。
しかし最終的に山椒魚も種族間戦争となって滅び、生き残ったわずかの人間がまた文明を築き始め、歴史は繰り返す。
現代世界のシステムそのものが、人間の根本的な問題となっていることが指摘されている。
これが第二次世界大戦直前の1936年に書かれたというのだから色々な意味ですごさを感じる。

本文抜粋メモ

現代文明と社会システムに対する危惧

もし人間以外の動物が、文明と我々の呼んでいる段階に達したとき、人類と同じような愚行を演じるだろうか。同じように、戦争をやるだろうか。同じように、歴史で破局を体験するだろうか。トカゲの帝国主義、シロアリのナショナリズム、カモメあるいは、ニシンの経済的膨張を、われわれはどんな目で見るだろうか……私を否応なしに机の前に坐らせ、『山椒魚戦争』を書かせたのは、つまり、人間の歴史、とくにこの現代の歴史との、こういう対決なのです……私がこの世界で描いたのは……現代なのです。それは未来の事態についての憶測ではなく、現代の世界、いまわれわれが生きている世界を、鏡に映しだしたものなのです。

現代において考えてみればTPPとか移民問題。またはロボットとかAI

もちろん、山椒魚の伝播が、どこでもスムーズにおこなわれたわけではなかった。あるところでは、人間の労働に対する不当な競争相手と見て、この新しい労働者の導入に、保守的な人々が激しい反対運動を起こしたし、海中の小生物を餌とする山椒魚の存在は、漁業の脅威とはならぬか、と危惧を表明する人々もあった……だが、新しいことや、進歩が決まって抵抗や不信にぶつかるということは、昔からいつもあったことで、工場に機械を導入した場合にも起こったのである。これとは種類の違う誤解の起こったところも二、三あったが、山椒魚の取引の持つ巨大な可能性とともに、そのもたらす収入源の大広告を、正当に評価した世界中の新聞の有力なバックアップによって、山椒魚シンジケートの進出は、世界いたるところで、たいていの場合、大きな興味をもって迎えられ、熱狂的に歓迎された場合さえあった。

資本主義や社会システムは人間に悪気を感じなくさせるし、歴史は繰り返すというはなし

「あなたはちゃんとした人間、つまりジェントルマンだ。そういうあんたが、奴隷売買と本質的に変わらぬ浅ましい仕事の片棒を担いでいて、いやになる時はないかね?」……「山椒魚山椒魚だよ」……「二百年前には、黒ん坊は黒ん坊と言っていたものだよ」……「そのとおりじゃなかったのかね?」……ふと私は、チェスの手なんてどれもみんな古くて、誰かが前にやったもののような気がした。われわれの歴史だって、いつか、誰かによって演じられたものなのかもしれない。そしてわれわれは、その時と同じような敗北に向かって、同じような手でコマを進めているのかもしれないのである……きちんとしておとなしい男が、かつては、象牙海岸で黒人狩りを行い、ハイチやルイジアナへ船で運び、その途中、船倉でくたばるものはくたばるにまかせておいたこともあり得る……当時なんの悪気もなかったのである。いつの時代でも……悪気はなかった。だから、始末に困るのである。

歴史文学哲学思想などの人文科学を軽視する風潮

人類の歴史で、この偉大な時代ほど、多くのものが生産され、建設され、利潤の得られた時はかつてなかった……世界には「量」というとてつもない進歩と理想がやってきたのである……カビの生えた「人間時代」は、文化・芸術・純粋科学などといわれた、くずでくだらぬガラクタとともに、いったいどこへ行ってしまったのだろう!……人間はもはや事物の本質を深く探究して時間を空費するようなことは、しないだろう……事物の数と量産こそ、これからの人間の関心の対象になる……世界の未来は、生産と消費をたえず高めることにかかっていたが、そうなると、もっと生産し、もっと食わせろというわけで、さらに多くの山椒魚が必要になってきたのである。

帝国主義とマスメディアとナショナリズム

…ドイツは種族的に純粋なドイツ原産の山椒魚の新時代が、ドイツ領水域のいたるところで進化発展できるよう、新しい、しかも長い海岸線を必要とする。植民地を必要とする、世界の海洋を必要とする。自国の山椒魚のために、新しい空間を必要とする――とドイツの新聞は書きたてた。ドイツ国民がたえず目にするものを通じて、こういう現実を認識するために、ベルリンには……でかい銅像が建てられた。

異なる集団意識と格差と排除

…一個に人間には、たしかに幸福になる能力がある。しかし人類となると、ぜったいにだめなのである。人間の不幸はすべて、人類になることを余儀なくされたことにある。あるいは人類になることが遅すぎたところにある。つまり、その時には、人間はもう種々の民族・人類・信仰・身分・階級、すなわち富める者と貧しき者、教育のある者と無い者、支配者と被支配者に、分化してしまっていたのである……「社会体制」と呼ばれるこの無意味な集団のなかで生活させ、生活上の共通の規則を守らせるがよい。それは、そのなかでは、居心地よく感じる動物が一匹もいないような、不幸で、不満で、どうしようもなくばらばらの集団であるだろう。人類という絶望的なまでに雑多な大集団は、この集団とそっくりの姿をしているのである。種々の民族・身分・階級は、長いこと一緒に暮らしていけないものなので、そのうちかならず、おたがいに窮屈になり、邪魔になって、どうにも我慢できなくなるのである。

人類融和の不可能性

…我々は道徳上の規準・人権・協定・法律・平等・ヒューマニズムといったものを、考え出した。われわれと『あのほかの連中』とを、架空の高い統一体に包合する架空の人類を作りだした。なんという致命的な誤りだったのだろう!われわれはモラルの法則を、生物学的に優先させたのである。われわれは『同種の社会のみ、幸福な社会であることができる』という、すべての共同社会に適用される自然の大前提に、違反したのである。そしてわれわれは、この達成可能な幸福を、あらゆる人間・民族・階級・水準から一つの人類・一つの社会秩序という、偉大だが、実現不可能な夢の犠牲にしてしまったのである。これは高邁な愚行だったのである。それはそれとして、自己の枠の上に出ようとする人間の尊敬に値する唯一の試みだったのである。そして人類は、いまこの高度の理想主義に対する代価を、収拾不可能な混乱という形式で支払っているのである。

人類の分化傾向

…われわれが分化という不治の病にどの程度深く感染しているか、いったいなにびとが明言できよう?見たところは同種の共同体も、遅かれ早かれすべて再び崩壊して、種々の利害・党・身分などからなる雑多の寄合世帯になるのは不可避である。それらの利害・党・身分などは、お互いに抹殺しあうか、でなければ、またぞろ我慢して共存するか、二つに一つで、ほかに抜け道は、全然ないのである。われわれは悪循環のなかで動いている。しかし、進化は永久に回転をやめない。

山椒魚共同体について

山椒魚の世界が人間の世界より幸福だろうことは、疑う余地がない。それは統一がとれ、同質であり、同じ精神によって支配されるだろう。山椒魚山椒魚とのあいだには、言語・見解・信仰はもちろん、生活上の要求の差もないだろう。文化的な差はもちろん、階級的な差もなく、分業が存在するだけであろう。主人もなければ、奴隷もないだろう。すべての山椒魚が神であり、支配者であり、雇い主であり、精神的指導者でもある、大山椒魚共同体にのみ奉仕するのであろうから。こうなると、存在するのは、一つの民族、一つの階級だけなのだ。それはわれわれの世界よりもすぐれ、完成された世界なのである。実現可能な、ただ唯一の『幸福な新世界』なのである。さあ、この世界にわれわれは席を譲ろう。斜陽の人類にとっては、まだ手遅れにならないうちに、悲劇的美しさのなかで、みずからの終末をやめるほかに、できることは何一つないのである。

社会システムによる滅亡

山椒魚に武器と爆薬を与えるな、山椒魚とのいまわしい取引をやめろ、ってね。それが、どういう結果になったか、ご承知の通りだ。みんな、そうするわけにはいかない、という至極もっともな経済上・政治上の反対理由を、それこそ、ゴマンと持っていたよ。ぼくは政治家でもなければ、経済学者でもない。彼らを説得するなんて、ぼくにはできない。どうしようもないよ。おそらく世界は沈むだろう。海の底になるだろう。だが、少なくともそれは、一般に認められた政治的・経済的な理由からだ。少なくとも科学・技術・世論の助けを借り、人類の英知を総動員したあげく、そういうことになるのだ!天災なんてもんじゃ、絶対にない。国家・政治権力・経済・その他の理由によるにすぎないんだよ。こうなると、どうしようもないんだ

社会システムと戦争

「人間だって同族だよ…同族だというのに、ことあるごとに争っているじゃないか!生きる場所だけならまだしも、権力、メンツ、勢力範囲、名誉、市場、その他あらゆることが、争いの原因になっているんだからね!山椒魚だって、仲間どうしで争って、どうして悪い?たとえば、メンツのことで?」……「つまり自分たちのほうがえらいことを示すために、文明、勢力拡張などといった大義名分で、押しかけるのだ。一つの岸の山椒魚が、もう一つの基礎の山椒魚をかみ殺す、思想上あるいは政治上の理由なんか、いつでも見つかるからね。山椒魚はわれわれと同じように、文明化している。だから政治権力、経済、法律、文化、なんでもござれで、相手に戦争をしかける論法にはこと欠かぬっ、てわけさ」

国民国家と人間の自由意志について

…たとえば…英国人をつかまえて…次のように聞いてみたいものだ。「ちょっとうかがいますが、エチオピアの紛争ではあなたご自身、一体どうなさるつもりなのでしょうか」……その人はこう答えるだろう。「英国は協定の実行、つまり、エチオピアの独立をあくまで主張すべきだ、と思いますね」うんぬん……それから、もし私がこれと同じ質問をナポリかローマの市民にしたとしたら…その人からは、次のような答えがかえってくるに違いない。「イタリアには領土の拡張が必要なんですよ」うんぬん。不思議なことが、あればあるものだ。今日、問題になっているのは、もはや人間と人間の良心なのではなく、イタリア・英国・エチオピアなどの国のことだけなのである。これではまるで、政治をやるのが、もはや人間ではなくなっているみたいじゃないか!