菊池伸輝「新自由主義・新保守主義の台頭と日本政治」(『岩波講座日本歴史』第19巻 岩波書店 2015)

  • この文章の目的
    • 新自由主義の定義、新自由主義自体の変質やその推進者にとっての成功と失敗を、日本の経験に即して再検討し、今日の日本においてどのように新自由主義が展開しているのかを確認することを目的とする。
  • 日本の新自由主義の特徴
    • 福祉国家化にともなう経済成長率の低迷という問題に見舞われる以前に、早熟的かつ先取的に「第一段階の新自由主義」を試みて成功
    • そしてその故に新自由主義の副作用としてのバブル経済の生成と崩壊をいち早く経験
    • さらにその克服のため、新自由主義改革により脆弱になった社会基盤の上で、さらなる「第二段階の新自由主義」を試みて挫折を繰り返している

一 1973年第一次石油ショック新自由主義

  • 福祉国家建設路線からの転換
    • 73年10月、石油ショックが発生し、福祉国家建設路線からの転轍が急速に行われた。石油ショックを大幅賃上げで乗り越えようとしてインフレを激化させた74年春闘の反省から、75年の春闘では、政府の本格的な介入なしに大企業労組と大企業経営者との間で妥協が成立し、高賃上げと国民全般の福祉向上を志向する「国民春闘」路線に終止符が打たれたからである。
    • 賃上げ抑制による国内消費の減退は過剰生産に帰結したが、インフレを抑制できたことから日本は相対的な競争優位を獲得し、俗に「洪水輸出」と呼ばれた貿易攻勢によって成長経済へ回帰した。
    • いわば、労働組合運動の産業規制力を抑制することで資本の蓄積力を回復するという新自由主義政策の一形態が70年代後半の日本に先取的に見られていたのである。
  • 第二臨調(81年3月設置)
    • 81年3月に設置された第二次臨時行政調査委員会(第二臨調)は……一種のコーポラティズム(政労使の政治的団体交渉装置)的な新自由主義の正統化機関となったのである。
    • 第二臨調は、全体を貫くテーマとして「活力ある福祉社会の実現」と「国際社会に対する貢献の増大」の二つを掲げた。これはマイナス・シーリング(予算の一括削減)および財政削減による引き締め政策、それを担保する行政機構改革、三公社五現業の民営化に代表される公社・公団の縮小、社会保障費の見直しという新自由主義政策と、ODA等の経済協力、防衛費を予算削減の例外とするという、新保守主義的大国化政策の両者を共存させたものであった。

二 日本の「90年代型新自由主義

  • 80年代型新自由主義の勝利・貿易摩擦・金融緩和・バブル経済
    • 日本は全国的な減量経営を実現し、製造業の輸出競争力を涵養したという点では「第一段階の新自由主義」の勝者であった。この結果、80年代半ばには日米の間で深刻な貿易摩擦が発生し、臨調が掲げたもう一つの柱である「国際社会に対する貢献の増大」実現のため、米国の防衛負担を分担するという直接的な安全保障政策、そして米国経済を支持するという経済的安全保障政策を講ずる必要性が生じていた。
    • プラザ合意」後の状況は中曽根ブレインにも予想しえない形となった。想定以上の円高にも関わらず、日米の貿易不均衡に改善の傾向は見られず、中小企業を中心として円高不況への不満の声が広がった。中曽根とそのブレインたちは焦って金融緩和と拡張的な税制政策を実施した。その過程で一般企業は転換社債等を駆使して直接市場から安価に資金を調達できるようになり、逆に市中銀行は投資先の大企業を失った。その結果、行き場を失った資金は株式や土地の投機に向かい、ここに一大バブル経済が発生したのである。日本のバブル経済新自由主義が生んだものに他ならなかった。
  • 94年6月〜 社会党の内包と新自由主義の円滑化
    • 55年体制の仇敵同士が手を組み、94年6月に誕生した自社さ連立政権は、村山富市社会党委員長を首相に戴くこと、すなわち社会党を体制の側に取り込んだことで、安全保障政策の抜本的改革を可能にするとともに、社会保障規制緩和、消費増税などの新自由主義改革を円滑化させたのであった。
    • またそうした政界の新自由主義改革体制の構築には、財界の強い働きかけもあった。93年以降の超円高で、企業労働の現場が大きく変わりつつあり、これを受け、日経連が95年に『新時代の「日本的経経営」』を発表した。同報告書は、従来の正社員層を「長期蓄積能力活用型」として絞り込むと同時に、専門職を想定した「高度専門能力活用型」、パート、アルバイト等を想定した「雇用柔軟型」というカテゴリーを定式化したものであり、有期雇用の「非正規労働者」が顕著に増加するきっかとなったものであった。その効果は、当時報告書の作成に携わったスタッフが驚愕したほどであった。とりわけ、「日本型福祉社会論」を基盤に実行された日本の「80年代型新自由主義」は企業内福祉の存在を前提にしていたから、正社員層の絞り込みは日本の社会保障全体のシステミック・リスクにつながった。

三 日本の「2000年代型新自由主義

  • 小泉政権新自由主義
    • ……2000年のITバブル崩壊、01年の9.11米国同時多発テロを経て、国際的なデフレーションが大きな問題となる中、日本の財界では、02年に旧経団連と日経連が合併し、日本経済団体連合会が誕生していた。日本の財界は依然として製造業がヘゲモニーを握っていたから、デフレをむしろ高コスト構造の改善とみなしており、急進的な新自由主義改革によるデフレ・スパイラルは望まないものの、少々の景気回復では賃金を上げることはおろか、正規労働者を増やすことも望まなかった。
    • これに対し、同年9月、小泉は急進的な不良債権処理に慎重な柳沢伯生に代えて金融担当大臣を竹中に兼務させ、竹中は「金融再生プログラム」を唱え、金融機関に急進的な改革を要請した。結局、03年4月に予定されていたペイオフの完全実施は延期されたが、イラク戦争勃発の不安もあって、日経平均株価は7600円台というバブル後最安値へ向かった。
    • こうした危機に終止符を打ったのは、またしても国家介入であった。03年5月17日にりそな銀行が破綻の危機に瀕しているということで、突如として公的資金が投入されることとなったのである。驚くべきことに、この公的資金投入は「経済財政諮問会議」でも満足に議論されずに、小泉首相と竹中金融担当大臣のトップダウンで実行されたものであった。この事件を契機に、金余り状態となっていた米国を中心とする多国籍金融機関等のいわゆる「外資」が日本の証券市場への投資を活発化させ、株価は上昇に転じた。
    • ……とはいえ、開発独裁国家ならぬ民主主義国家では政府の行動の正当性が問われることになる。小泉はそれを二度にわたる訪朝や、アフガニスタン紛争、次いでイラク戦争に端を発した01年からの自衛隊のインド洋給油活動、04年からのイラクサマワでの復興支援活動など、新保守主義で糊塗しようとした。しかしながら80年代の中曽根同様、小泉の新保守主義も、国民の支持を受けることはなかった。
  • 03年 もたらされなかった生活実感としての景気回復
    • 03年にバブル崩壊後最安値をつけた株価は回復基調にあり、改革期待から外資による日本の資産買いが活発化していた。長期的な金融緩和政策も与って、米国は98年のヘッジファンドLTCMの破綻など、後の壮大な金融破綻を予想させる事件を内包しながらも、金融主導型の好景気の中にいた。日本企業はこのバブルに沸く米国への輸出で久方ぶりに潤うこととなった。もっとも、結局輸出主導型に舞い戻ったのであり、その主力は規制緩和によって興った新たなIT産業やサービス産業、金融業などではなく、かつての主流産業であった、自動車や家電であった。しかもその増産にあたっては、80年代から連綿と続けられてきた労働市場規制緩和より、いつでも調整可能な非正規労働者に多くを担わせていたことから、なかなか国内市場が広がることはなく、生活実感としての景気回復はもたされなかった。
  • リーマンショック民主党政権
    • リーマンショックはそれぞれの歴史的経緯から独自に新自由主義改革を試みていた国々を再び共時的に変質させることとなった。直接的な金融危機が伝播したヨーロッパに加え、米国の需要が消滅し、日本も再々度の不況に陥った。非正規社員の大量解雇は社会問題化していた。
    • こうした中、09年9月の総選挙の結果発足した民主党政権は、非新自由主義政権としてスタートした。民主党は農家の個別所得保障、子ども手当ての創設、労働者派遣の規制強化など、高度成長期の日本でもできなかったことを、そして「80年代型新自由主義」以降削減してきた諸政策を逆転させることを公約に、政権を獲得したのである。
    • しかし民主党の公約実現は困難を極め、結局のところ、民主党政権は、現在の福祉水準を維持するためには消費増税が不可避であると国民に訴えただけの存在だった。
  • アベノミックスと新自由主義
    • ……12年9月の自民党の総裁選予備選挙では、菅内閣下で発生した尖閣諸島問題を受け、安全保障政策に関心が深いと目された石破茂安倍晋三が一位、二位となり、本選の結果、安倍が総裁となっていた。
    • 安倍が復活した背景に、長い経済の低迷と、隣国の躍進に対するコンプレックスが生んだ、「屈折したナショナリズム」の存在があったことは容易に推察されよう。
    • 党首討論で野田を解散に追い込んだ安倍は12年12月の総選挙で大勝し、第二次内閣を誕生させた。そしてデフレに沈む日本経済の打開を目指して安倍が打ち出したのが、非伝統的な禁輸緩和政策、財政支出による景気刺激策、そして成長戦略という、通称「三本の矢」であった。
    • その後、安倍政権は13年6月に発表した成長戦略、「日本再興戦略」が市場の期待を裏切る内容であり、株価の急落に見舞われたが、7月の参院選も制し、ねじれ国会を解消した。すると安倍は忽然と持論の安全保障政策に注力しだし、国会の会期末を睨んでNSC法案とともに、秘密保護法を強引に成立させ、さらに12月26日に靖国神社に参拝、中国、韓国はおろか、米国までをも激怒させた。「2000年型新自由主義」は、新保守主義的国家介入に頼らなければ自らを維持できないがため、それを実行する政権が有するナショナリズムとの衝突が避けられなかったのである。
    • 肝心の経済再生も暗礁に乗り上げた。14年2月にバーナンキの後を継いだJ・イエレンFRB議長が異次元金融緩和から脱却を目指していることから、大幅な円安という追い風が吹いた。しかしながら、不況と円高環境で空洞化が進んだ日本では、かつてのような輸出主導型の大型の景気回復が見られなくなっていたのである。

むすびにかえて

  • 2010年代の新自由主義
    • ……日本でも14年に改訂された「日本再興戦略」は、経産省主導の企業の整理統合や成長産業の選定、コーポレートガバナンスの強化を強制することなど、「国家資本主義」的な、かつての「悪名高き通産省」的な発想を盛り込んでいる。
    • こうしたことを考えると、もはや2010年代の新自由主義を、新自由主義と呼ぶこと自体が誤りであるように思える。
    • とはいえ、この危機が去った後、新たな相貌をまとう「新自由主義」が復活する可能性は十分残されている。
    • なぜなら、新保守主義的な国家による経済の調整は、その恣意性から新たな不平等をもたらし、一見もっともらしい市場原理による平等の実現へと、人々の心を誘うだろうからである。特に国家による平等実現の歴史的経験の乏しい日本において、それは顕著なこととなるだろう。