相原秀起『知られざる日露国境を歩く』東洋書店、2015年

樺太、択捉、北千島(シュムシュ島・パラシムル島)にあった国境線をめぐるはなし。
著者が実際に旧国境線を訪問し、かつてそこにあった国境標石・碑文・旧跡を探す。
前半は樺太にあった国境標石を著者が探索・発見・保護・展示するまでの流れがメイン。
後半は択捉島の自然描写、最果ての国境線であるシュムシュ島について書かれている。

雑感

  • 樺太
    • 北緯50度以南の樺太ポーツマス条約で日本領となったことは小中で習う。だがこの北緯50度線を意識したことなどもなかった。この北緯50度線には全長131?の陸上国境線がひかれていた。そしてこの国境線に「樺太日露国境天測境界線標」として標石が4基置かれていた。著者はこの4基の標石を求めて樺太を行く。4号標石は現地人が所持しており現物を見ることはできたものの回収できず。2号標石は回収に成功し、97年に根室市歴史と自然の資料館に収蔵。1号標石は98年にサハリン州郷土博物館に展示。3号標石は同博物館に展示されているが偽物であり本物は行方不明である。本文は4号標石の発見譚、2号標石を回収するのに苦労した話、3号標石がなぜ本物ではないと分かったのかについて述べられている。
  • 択捉島
    • 択捉島の自然とラッコ、巨大な滝「ラッキベツの滝」の紹介が中心。択捉島が日本領となれば最北端となる「カモイワッカ岬」に設置されていた「大日本恵登呂府」の碑のはなしが面白かった。現在では石碑は存在しない。国境線の象徴であったため1947年にソ連軍が根元から破壊し、崖下に落としたとのこと。
  • 北千島
    • 私たちは日露の国境というと樺太と択捉という認識だが、かつては千島列島のシュムシュ(占守)島が最北端の国境であった。本文では占守島の戦いの意義が面白く感じた。

満州占守島の戦闘が違う点は、ソ連軍の被害が日本軍をはるかに上回る点だ。日本軍の守備隊にはアリューシャン列島キスカ島を撤収してきた部隊や満州戦線から引き抜かれた池田戦車連隊など精鋭部隊が米軍上陸に備え訓練を重ねていた……カムチャッカのペトロパブロフスクカムチャッキーを出港した(引用者註:ソ連の)上陸部隊は、竹田浜を目指した。国端崎への砲撃を合図に激戦が始まった

ソ連スターリンは戦略的要衝である占守島を確実に占領するため上陸作戦を行った、との見方がある。スターリンは北海道北部の分割占領も企てていた…占守島での日本軍の抵抗がなければソ連軍は北海道に迫っていたとし、「占守の戦いは北海道を守る戦いだった」……

  • 国境線について
    • 著者はソ連の対日参戦(中立条約破棄問題)、樺太蹂躙、シベリア抑留を挙げる一方で、日本のシベリア出兵や極東占領をも挙げており両方の歴史を学習することが必要であると述べている。加害の歴史・被害の歴史を学ぶことでフラットに見る意識が生まれるとし、偏狭な歴史観に基づくナショナリズムは国家間の対立をあおるだけと指摘している。