近代アフガニスタン史〜よく分からないドゥッラーニー朝の解説〜


東京書籍の『世界史B』ではアフガニスタンのドゥッラーニー朝は1747〜1818、39〜42とされている。しかしなぜ断絶したのか、なぜ復活したのか、なぜわずか3年で再び滅亡したのかが全く記述されていない。良く分からない。


生徒に質問されたらどうするのよ。


一応、答えらしきものは用意してある。ドゥッラーニー朝はサドーザイ朝とバーラクザイ朝に分けることができる。サドーザイ朝は1747年に建国されているが、1818年に統一を失うので東京書籍では1747〜1818としているのかもしれない。けど実際に分家が本家を乗っ取ってサドーザイ朝が滅びバーラクザイ朝が成立するのは1826年なんだけどね。で、だ。1838年に第一次アフガン戦争が起こると、39年には東インド会社が侵攻しサドーザイ朝を復活させている。そしてその後の1842年にイギリス軍が撤退したことを契機に再びサドーザイ朝は滅亡した。これが、おそらく東京書籍の教科書における1839〜42に該当するのであろう。つまり東京書籍の『世界史B』ではドゥッラーニー朝すなわちサドーザイ朝として捉えているのではなかろうか。


そういえば東大の第2問でアフガニスタン史が出題されたことがあったわよね(※1989年度)。その枝問(c)と(d)でイギリスのアフガニスタン支配に関する問題があるじゃない?(c)がイギリスによる植民地化で、(d)がイギリスからの独立がテーマになっているアレよ。近代アフガニスタンに関する教科書記述がバラバラだとどう論述していいのかも分からないわね。


それはもうバラバラである。特に『詳説世界史研究』の書きっぷりだと、イギリスによる緩衝国的な扱いとして述べられているので保護国となっていないかのような印象を受ける。一応机上においてある『世界史B』(東京書籍、2016年2月10日発行)、『詳説世界史』(山川出版社、2014年3月5日発行)、『詳説世界史研究』(山川出版社、2008年発行)、『世界史用語集』(山川出版社、2014年10月発行)、『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年発行)における近代アフガニスタン史に関する記述を抜粋しておこうと思う。帝国書院も机上に並べてたはずなのにどこいった?後で追加します。

『世界史B』(東京書籍、2015年2月10日発行)

アフシャール朝の軍団に組み込まれていたアフガン人は、アフガニスタンでドゥッラーニー朝(1747〜1818、39〜42)をおこし、アフガニスタンはイランから自立した。(p.313,l.11-13)

…カージャール朝は…1838年からは、ロシアの支援を受けて、アフガニスタンへの侵攻をくりかえしたが、ロシアの南下を恐れるイギリスの参戦をまねき、1856年にはアフガニスタンの独立を認めた。(p.313,l.17-22)

1747年にイランから自立したアフガニスタンは、インドから侵攻してきたイギリス勢力を二度に渡って撃退して(第一次アフガン戦争1838〜42、第二次アフガン戦争1878〜80)、独立を維持した。イギリスは1880年、外交によってアフガニスタン保護国化したが、第一次世界大戦後の1919年、第三次アフガン戦争によって、独立を承認した。(p.314,l.11-15)


東京書籍だと第二次アフガン戦争で独立は維持したものの、外交によって保護国化という側面が読み取れるわね。東京書籍のアフガニスタン史を年表で整理しなおすと以下の通りになるのだわ。
1747年 ドゥッラーニー朝建国
1818年 ドゥッラーニー朝滅亡(1回目)
1838年 カージャール朝のアフガニスタン侵攻始まる
同年  第一次アフガン戦争開戦
1839年 ドゥッラーニー朝再建
1842年 第一次アフガン戦争終結
同年  ドゥッラーニー朝滅亡(2回目)
1856年 カージャール朝、アフガニスタンの独立を認める
1878年 第二次アフガン戦争開始
1880年 第二次アフガン戦争でアフガニスタンが独立を維持
同年  イギリス、アフガニスタンを外交によって保護国
1919年 第三次アフガン戦争で、アフガニスタン独立

『詳説世界史』(山川出版社、2014年3月5日発行)

アフガニスタンは、18世紀半ば以降アフガン王国が独立を保っていたが、19世紀にはいると北部の領有権を主張するカージャール朝の侵攻をうけた。ロシアの中央アジア経由での南進をおそれるイギリスはこれに介入し、アフガニスタンのイランからの独立を認めさせた。しかしロシアに対抗しながらインドでの権益を守ろうとするイギリスは、2度にわたってアフガニスタンに侵攻し(アフガン戦争1838〜42、78〜80)、その外交権を確保するとともに英領インドとの境界を定めた。(p.267,l.3〜9)

…イギリスの保護国であったアフガニスタンは、19年イギリスとたたかって(第3次アフガン戦争)完全な独立をはたし、立憲君主制のもとでの近代化に着手した(p.354,l.12〜15)


『詳説世界史』だとカージャール朝とロシアの関係が述べられていないから、なぜカージャール朝の侵攻なのに、イギリスはロシアの中央アジア経由をおそれるのかしら?と思ってしまうわね。また2度のアフガン戦争で外交権がイギリスにより奪われているかのように読み取れるので、アフガニスタンの武力での独立性の維持の側面は東京書籍に比べると薄れてしまうわね。

『詳説世界史研究』(山川出版社、2008年発行)

アフガニスタンでは、アフシャール朝のナーディル=シャーの撤退後、これに仕えていたアフガン族のドゥッラーニー部族のアフマド=シャー(位1747〜72)が推挙されて、国王となった。ロシアの南下とイランの進出を恐れるイギリスは、1838〜42年と1878〜80年の2度にわたりアフガニスタンに侵攻し、戦火を交えた(アフガン戦争)。いずれもアフガン諸部族民のゲリラ戦に敗れたため、イギリスは外交権を抑えアフガニスタンを緩衝国とする戦略に転じた。1893年には、イギリスの仲介によってインドとの国境線(デュアランド=ライン)が画定し、1907年の英露協商によってロシアおよびイギリスの不干渉が合意された。1919年にはアフガニスタンがインドを攻撃し、イギリスと交戦したが、停戦後アフガニスタンの独立が国際的に承認された。(p.401,l.4〜12)


『詳説世界史研究』だと保護国の保の字すら出てこないわね・・・。外交権を奪われれば保護国?という解釈なら保護国なのでしょうが・・・。イギリスがアフガン戦争に勝てなかったことは東京書籍でも述べられているけれど、こちらの方がアフガニスタンのゲリラ戦が具体的に示されているわね。また外交権がイギリスに握られるのは上記2つと共通しているけれど、「保護国」ではなく「緩衝国」という扱いであり、英露協商ではロシアだけでなく「英露両者の不干渉」となっていると説明しているのが面白いわね。ちなみに末尾の記述のアフガニスタン独立の国際的な承認のところなんだけど、この時の国際情勢を説明させるのが、1989年度の東大第二問(d)なのよ。

『世界史用語集』(山川出版社、2014年10月発行)

アフガン王国
1747年のドゥッラーニー朝建設により成立。19世紀、ロシアとイギリスが勢力争いを展開し、第二次アフガン戦争でイギリスの保護国とされた。第一次世界大戦後の1919年に独立を回復、73年に共和政に移行した。(p.241)

ドゥッラーニー朝 1747〜1842 
カンダハルやカーブルを都としたパシュトゥーン系の王国。今日のアフガニスタンイスラーム共和国の起源とされる。(p.241)

アフガン戦争 1838〜42、78〜90、1919 
ロシアとイギリスの対立から始まった、アフガニスタンとイギリスの3次にわたる戦争。イギリスは第一次で破れ、第二次でアフガニスタン保護国としたが、第三次で独立を認めた。(p.241)

アフガニスタン保護国化 1880 
イギリスはロシアのアフガン進出をおそれ、第二次アフガン戦争に突入した。その結果、アフガニスタンは、外交権をイギリスに委ねて保護国となった。(p.241-242)

アフガニスタン独立 1919 
第三次アフガン戦争の終結のためにラワルピンディ―条約が結ばれ、イギリスが外交権を与える形で承認した。(p.301)


山川の用語集だと、アフガン王国という大きな枠組みの中に、ドゥッラーニー朝が内包されているイメージのように感じられるわね。それと第一アフガン戦争前に一度断絶してることがスルーされているわ。またアフガン戦争に関する記述なんだけど、第二次でイギリスが敗北したことが述べられていないので、これ読んだ受験生は第二次でイギリスに敗北したように思ってしまうのではないかしら?

『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年発行)

アフガニスタン
……18世紀前半にはナーディル・シャー治下のイランとムガル帝国との争いの場となったが、両者の弱体化に乗じて1747年、パシュトゥーン人のアフマド・シャーがカンダハールで即位し、ドゥッラーニー朝を建てた。これがアフガン国家の始まりである。19世紀には英露の勢力争いの場となり、2度のアフガン戦争の結果、アフガニスタンはイギリスの保護国となった。1919年に即位したアマーヌッラーは同年のうちに独立を回復させ、近代化政策をとったが、成果は表面的に終わった……(p.18-19)

アフガン戦争
アフガニスタンを舞台とするさまざまな戦争のことだが、狭義には、イギリスとアフガニスタンとの間で3回にわたって戦われた戦争をさす。最初の2回は、インドを支配していたイギリスと、中央アジアからの南下を図るロシアとの対抗のなかで生じた。ロシア軍は実際には侵入しなかったが、アフガン君主がロシアに接近しようとしていると疑ったイギリスがアフガニスタンに攻め込んだ。第一次戦争(1838〜42)では、イギリス軍がほぼ全滅し、イギリスが傀儡君主として復位させたシャー・シュジャーも暗殺された。西北インドの支配を強化し態勢を立て直して臨んだ第二次戦争(78〜80)でも、イギリスは軍事的に損害を被ったが、外交戦術で新王アブドゥル・ラフマーンを取り込み、アフガニスタン保護国とした。第一次世界大戦直後、アマーヌッラー王はイギリスの疲弊に乗じてインドに攻め込み(第三次戦争、1919年)、その結果イギリスはアフガニスタンの独立を認めた。(p.19)

ドゥッラーニー朝 1747〜1818、1839〜42
前近代末期のアフガニスタンの王朝。イランのナーディル・シャー暗殺に乗じて、配下のアフマド・シャー・アブダーリー(在位1747〜73)がカンダハールで建国。彼はアフガニスタン統一とともにインド遠征を繰り返し、61年にはパー二―パットの戦いでマラーター軍を破った。その子ティムール・シャー(在位1773〜93)は75年カーブルに遷都した。彼の死後内紛が続き、バーラクザーイ朝に代わられた。第一次アフガン戦争で復活したが、1842年に滅亡した。(p.467〜468)

バーラクザーイ朝 1826〜1973
近現代アフガニスタンの王朝。ムハンマドザーイー朝ともいう。ドゥッラーニー朝宰相の弟ドースト・ムハンマド(在位1826〜63)がカーブルで建国。イギリスとの3度のアフガン戦争をへて、1919年、完全独立。ザーヒル・シャー(在位1933〜73)のとき、クーデタで倒された。(p.539)


『山川 世界史小辞典』を読み込めば、ドゥッラーニー朝が滅亡した後、第一次アフガン戦争で一時復活したのは、イギリスによってシャー・シュジャーが傀儡君主として擁立された時ではないかと類推できるわね。あとアフガニスタン史の王朝区分だけど、高校世界史的にはアフガン王国=ドゥッラーニー朝+バーラクザーイ朝と捉えられているみたいね。

まとめ的なはなし


高校世界史レベルでさえ複数資料の参照が必要なことがここから分かるわね。『詳説世界史』と『世界史用語集』だけを金科玉条のように丸暗記しても、対応できないわね。


近代アフガニスタン史を見ても記述の差異はあれ「第二次アフガン戦争でイギリスは軍事的には敗北したけれど、アフガニスタンの外交権を奪った」ということは、東京書籍『世界史B』、『詳説世界史研究』、『山川 世界史小辞典』において共通して読み取ることができる。しかし『詳説世界史』と『世界史用語集』だけで勉強していると、あたかも第二次アフガン戦争で勝利して保護国化に成功したように読めてしまう。まぁどこにもイギリスが勝利したなんて書いてないけどさ。


歴史というものは、歴史事象について叙述者がどのように解釈するかだから、複数資料の参照は当然よね。高校生のみんなも『詳説世界史』だけでなく社会経済史の記述が豊富な東京書籍とグローバルヒストリーな帝国書院は手元に置いておいても損はないわよ。