6世紀末から7世紀初めというのは東アジアにとって激動の時代でした。589年に隋が統一し、618年に唐が成立しました。中国に巨大な統一国家が出現したことは日本列島にも影響を与えたのですね。日本でも中央集権的な古代国家の形成が始まります。
それが古代国家形成(聖徳太子→大化の改新→天武持統朝→大宝律令)の一連の流れなのね。
律令国家における「郡司」の「特異性」について
では、中央集権的な古代国家の形成を目指したなかで、地方支配はどのようなものが目指されたのでしょうか。
えーっと律令国家における地方組織の整備ね。現代日本の行政区分が都道府県ならかつての古代国家は「五畿七道」ってやつ。その行政区に国・郡・里が置かれ、それぞれに国司・郡司・里長が任命されたのだわ。
中央集権国家を目指したことは国司の在りようをみれば分かる。国司は中央から任国に派遣され、職務として軍事・警察、戸籍・計帳の作成、班田収授の実施などの役割を担った。中央政府から派遣された役人が地方を支配する。なんと中央集権的ではないか!!
待って、待って。中身をよく見てみると、国司は直接統治してないから。そもそも派遣された国司がいきなり現地を掌握できるわけないでしょー。現地には有力者が存在して民政一般を行っているの。地方豪族だわね。国司はその地方豪族の伝統的支配力を媒介にして任国の民衆を支配したのだわ。
それでも、地方豪族がいきなり郡司になったわけではないですよ。実質的には豪族が現地支配していたとはいえ、その豪族を国司が連れて帰り、郡司として任命したのは政府ですよ。政府の審査を経て任命されていることに、中央集権的な側面を指摘できるのではないでしょうか?
確かに地方豪族が郡司として律令国家に組み込まれたのは確かだわ。けれども、律令官制において郡司は特異的な存在だったのね。律令国家の官僚機構は官位相当制よね?説明できるかしら?
個人に位階を与え、その位階ごとに任命される官職が決まっているという、朝廷内の序列と官僚ポストを組み合わせた制度のことでしょう。事例としては「位階が正三位の官人は、大納言という官職に任命する」というような感じですね。
しかし郡司にはこの官位相当制は適応されなかったのね。郡司といえば、元国造の伝統的な地方豪族であり、官位相当制の適用外で、さらに任期の定めがない終身官でその地位は世襲されたの。確かに郡司は律令に規定された官職だったわ。だけどヤマト政権以来の氏族的性格が残存し、その性格を認められていたのね。
律令国家が個人の能力による官僚機構だったのに対し、ヤマト政権は氏族制に基づく氏姓制度であり、根本的に異なります。しかし異なるなかでも前時代の連続的側面を引き継いでいることが「特異的」といえるのでしょうね。
国司と郡司の関係性変化について
国司が地方統治を郡司に依存し、なおかつ郡司の方が経済的な力を持ってたことが分かりました。郡司の「特異性」ですね。しかしその特異的な郡司をどのようにして国家に統合していたのでしょうか。郡司を任命する際の中央政府における審査だけで十分だったのでしょうか?
ここで用いられるのが儀礼と慣習による統合と服属ね。東大の参考文では元日の儀式と下馬の礼が紹介されているわ。儀礼に参加する中で権力構造が植え付けられているという事例ね。元日の儀礼により地方豪族である郡司に対し、国家への服属関係を認識させ、天皇に仕えて民衆を支配する官僚としての意識を再確認させていったの。
まぁ儀礼による権力構造への服従は分かりやすいのではないでしょうか。どうみてもバカバカしい式典などに参加しなければならないことが多々あり、皆がバカバカしいと思っていても、組み込まれてしまった私たちにはどうすることもできない。
また位階の上下に関わらず、郡司が国司に下馬の礼を取ることにより、郡司が国司に服属する存在であることを刷り込んでいったのね。こうして郡司は国司に従属し、儀礼を通して官僚として掌握されたの。
こうした中で次第に郡司の力が弱まり、国司の権力が強化されていきます。これまで郡司は正倉を持ち、郡衙を拠点に民衆を支配していました。しかし国司の単独財源である正税が成立し国司が正倉を管理するようになります。
国司の力が強まった結果、従来の地方豪族は衰退していったのね。そしてこれまで郡司は中央政府の審査の下で任命されていたのだけど、審査はなくなるの。そして国司が推薦する候補者がそのまま郡司に任じられることとなったのだわ。郡司の任免権は国司に移り、中央政府は追認するだけとなったのね。そして地方豪族も従来の豪族ではなく、新興豪族層が郡司に任命されるようになったのだわ。