「教育は生徒に常識やモラルといった既成の価値観を内面化させ社会秩序の維持を図る事務的なビジネスのことでしょう?」というようなことを『素晴らしき日々』は言った。

皆さまは『素晴らしき日々』に登場した世襲により教員となった女性教諭を覚えているでしょうか。イジメ問題を対処できず、精神崩壊し、後に報復を食らうことになる人物のことですよ。当該教員は自分に問題が起こって初めて自己解体の危機に陥ります。自己の教員となった理由の弱さに、自らの善良さがへし折れて、精神崩壊してしまうのです。

当該教員は親が教員であることから、無意識のうちに周囲からそうなることを望まれていると感じ取り、明確な主体的意志のないまま教員となってしまったというキャラ付けをされています。それは決して悪いことではないのですが、「教員は聖職であらねばならない」という教条主義的な規範的意識に無意識に束縛されてしまっていることが浮き彫りにされているのです。「生徒がイジメを受けたこと」を悔いているのではなく、イジメに対して何もできなかった「自分」を悔いているだけという我が身可愛さからくる恥辱が暴露される描写は破壊力バツグンです。

そして女性教諭は教条主義的な社会常識の観点から報復を受けることになります。教育の機能として「均質な国民」を創出することがあります。そのために日本社会のモラルや日本人としての生活習慣を身につけさせるのです。しかしそれは創られたものであり「国民」を創ることは国民国家の統治原理に過ぎないのです。故に、作中では常識やモラルや価値観といったものを「無批判に」植え付けることに罪を求めているのです。教育を常識やモラルといった既成の価値観を内面化させ社会秩序の維持を図る事務的なビジネスと捉えているのですね。昔のHDDを漁ったらキャプが残っていました。作中では以下のように女性教員に吐かせています。


教師という“職業”は生徒たちに我々の都合のいい情報を刷り込み、社会の従順なる僕として育成する事務的なビジネスでしょう?だから面倒なことにはフタをして教えず、『教育』と称して子供の個性を奪い、この社会に疑問を持つような存在が生まれることを阻んできたのでしょう?

作中においてこの当該教員の末路は、精神崩壊した挙句に自らが社会常識に反することを次々と行うことで罰せられることになります。