雑録

ディビッド・ウルフ/半谷史郎訳『ハルビン駅へ 日露中・交錯するロシア満洲の近代史』(講談社、2014)

ハルビンロシア帝国の外部に位置したので、リベラルな思想が育まれ、それが帝国にフィードバックされたという内容。

  • 本書の概要
    • 鉄道建設を主題とする「鉄道帝国主義論」。
    • 主たる特徴は東清鉄道がひきおこした国際競争。満洲問題はある種の「競争植民地主義」。
    • 一体感と緊張感をはらむロシア極東とロシア満洲の関係は本書の重要なテーマ。
    • ロシア満洲の歴史分析は、盛んに論じられている植民地主義、ポストコロニアリズム、国境地帯、地域主義とは何かという議論にも貢献しうる。
    • ハルビンの…リベラルな風土を突き止めて考えることで、常識化している「帝政末期のロシア政府=旧弊な保守主義・構想無き指導者」という見方に再考を促す。

以下メモ

  • 清国からの利権獲得について
    • 満洲の土地所有者となることは、東清鉄道が満洲の地主になる第一歩にほかならない。賃貸契約を交わすことで、東清鉄道は自動的に貸借人に対する義務を新たに数多く抱えることになった。この過程で、東清鉄道は一介の鉄道会社から多角的な植民地企業に変わったのである。(p.74)
  • 精神的支柱
    • 満洲にしっかりしたロシア人社会をつくるには、「精神的な」要求も満たす必要があった。宗教、教育、さらには人々を束ねる何らかの理念、「帝国主義イデオロギー」とも言うべき、新住民が取り組んだ……露清共通の課題(p.85)
  • ハルビンの売春婦
    • 東清鉄道の産業医は、1901年に27人に増員され、いまや危機的とも言える問題を調査し、満洲の中国人女性が九分九厘、淋病もちであることを確認した。ハルビンの売春婦は、衛生学のイロハを指導しても聞き入れなかった。体を洗うと一生のしあわせがなくなると信じて疑わず、決して風呂に入らなかったという。日本の女郎屋が開業すれば、週二回の定期検査を欠かさないので、状況も改善するだろうと言われていたが、蓋を開けてみれば、ウラジオストク並みの高料金だったため、期待外れに終わる。労働者や下士官は相変わらず清国の「魔窟」に通い続けた(p.90)
  • 満洲における軍民対立
    • 1897年、軍民対立が満洲でも始まった。ここはシベリアと違って、鉄道とこれを後押しする大蔵省に一日の長がある。1896年の露清同盟条約と東清鉄道敷設契約が、民の存在に合法的地位を与えていた。ご多分に漏れず、この地の軍民対立の発端はペテルブルクでの主導権争いだった。ただ意外なことに、ウィッテの満洲権益に楯突いたのは陸軍や海軍ではない。そうではなく、M・N・ムラヴィヨフの外務省が、大蔵省を差し置いて「次の段階」、ロシアの満洲南下を推し進めようとしたのがきっかけだった。1898年の旅順租借で軍は不凍港を得るが、この清国への足がかりが満洲全土を揺るがす軍民対立の震源地となる。(p.119)
  • 満洲占領
    • 1900年7月、ロシア軍が国境を越えて満洲に入る。広まりつつあった暴力的な排外騒擾、いわゆる義和団事件で危機にさらされたロシア人の生命と財産を保護するためである。その後二年間、満洲の三省はロシア軍の占領下に置かれ、軍の成り行きとして、陸軍省と大蔵省の対立は、ことごとく前者に軍配があがった。和戦の帰趨が明らかになるまで、ウィッテは耐え忍ぶしかない。できることと言えば、東清鉄道の自主裁量を守るための裏面工作と、占領終結に圧力をかけ続けることくらいだった。(p.131)
  • 満洲駐留
    • 1903年8月12日、アレクセーエフが極東太守に任命され、バイカル湖以東のロシアの軍事・経済・外交の全権を委ねられた。外交でまず進めたのは、清国との交渉打ち切りである。これはがらっと態度を変えて追加賠償に応じても、ロシア外交がこれまで獲得したこともない誓約を認めても、撤兵を強いることは不可能だと北京に分からせるためだった。(p.141)
  • 日露交渉の打ち切り
    • アレクセーエフ提督は、12月末に対日交渉の打ち切りを勧告する。日本側が要求を「つりあげる」、というのがその理由だ……日露開戦の責めを極東太守に負わせるのは公正を欠くし、立証できるわけでもない。とはいえ、大車輪の活躍にもかかわらず、人も地位も時も、すべてが裏目に出た。アレクセーエフ提督が外交の舵取りを任されたことで、どたんばの妥結はなくなった。この沈みかけの船は、アレクセーエフの王国ともども、早晩、海の底に消えていく。ロシア太平洋艦隊も、旅順も、壮大な帝国主義の夢も、すべてが海の藻屑となるのである。(p.145)
  • 植民と移民
    • ウィッテは、シベリア鉄道の着工当初から植民をとくに重視し、これを鉄道事業の最終的な成否と結びつけていた。同様に移民の問題も、満洲を横断する東清鉄道の敷設と切っても切れないつながりがある……まずは鉄道の敷設が先行した。人口の増加は後回しになり、従業員や警備隊や労働者が移り住み、後を追ってこうした人の日々の暮らしを支える人たちが着実に増えるのを待った。清国当局との協力関係や日本の厳しい視線を考えて、無理押しせず、領土併合の第一歩と受け取られないよう、最新の注意を払った。(p.148)
  • 義和団事件後の移民政策
    • 義和団蜂起が満洲から一掃されると、三年間は移民政策が大々的に推し進められた。この過程で、現場との調整不足や官庁の主導権争いが露呈する。議論の中から浮上した選択肢は二つ。一つは軍主導で「ロシアの伝統的な」入植策であるコサックと兵士を用いる案、もう一つは大蔵省が考え出した信仰の自由を約束してドゥホボール派を引き寄せる計画である。だが事は官の思惑を越えて進んで行く。まず中国人の移民が、自然発生的なものも政府の後押しを受けたものも含め、満洲の広大な空間に殺到する。なにより、日露戦争の敗北で、ロシアの拡張の勢いが鈍ってしまった。(p.148)
  • 「強者に賭ける」移民政策
  • 満洲における植民政策の他地域への応用
    • 1902年から03年の植民地政策の影響は、ハルビンだけに止まらない。満洲で練り上げられた諸原則は、後にシベリアやロシア欧州部でも用いられた(前者は1904年、後者は1906年に採用)。実験精神の旺盛さは、満洲を試験場にする。ここは建前としては帝国の領域外なので、計画の影響をどこよりも自由闊達に議論できた。植民政策そのものとは別に、シベリア移民の必要性を人口流出の抑制とともに考えるメカニズムも、まず満洲で最初に試みられた。ストルイピン改革を立案した主要人物はシベリアがらみの経歴が豊富で、帝国の東端で生まれた様々な発想に触れていたと見て間違いない。してみれば、満洲植民の検討は、帝政ロシア末期の農村改革の失われた環を見つけることにもなる。(p.149)
  • 満洲」の外部性利用
    • 入植の目的地は外国なのだから、「尋常のやり方」では埒が明かない。土地もなく、徴税権もないので、打つ手がない。とはいえ植民を進めなければいけないのだから、異端はの呼び寄せは人目を憚る(neglasnyi)方法だがやってみる価値はありそうだ……異端派はわざわざ「招き寄せる」必要もない。「今現在ロシア国内で剥奪されているものを、すなわち信仰の自由を保証しさえすれば、それで十分だ。今でも、資料を見る限り、ヴォルガ流域の異端派の間では、清国の〔鉄〕道に逃げ出す動きがある」。(p.158)
  • 「強者に賭ける」「満洲植民」
    • 満洲植民は「個人の意欲に任せるべきです。そうすれば、ここには望ましい人が現れます。積極性に満ち溢れ、不屈の精神を持ち、新しい生活条件に適応可能な人々、一言でいえば、自分の責任で自分の富を求める商工業階級がやってくるのです」。東清鉄道は1901年に建設労働者として都会の根無し草を押し付けられたことがあったが、植民ではそうした手合いは御免だったのである。(p.160)
  • 満洲の外部性とリベラル性
    • 満洲は公式には帝国の外にあるため、先例のない手法でも、専制国家の禁忌に触れることなく、自由闊達に議論することができた。ここで試した政策の多くは後にシベリアで用いられたし、中には欧州ロシアに導入されたものもある。「満洲」はいわば火付け役だった。(p.193)
  • 東洋学院
    • 最大の目標は「極東の通商や産業の振興」……教育によって技術と心構えの両面から自らを鍛え上げる戦略でもあった。「実践型」の学問とは、まず何より、生きた言語を学ぶことだ。地域研究の裏付けがあれば、周辺住民との対話能力は高度な働きかけの手段となる。従来の賄賂・暴力・恫喝より、ずっと洗練されている。また実践学派の中国びいきは、北京宣教団ゆずりの伝統もあり、新世代の東洋学者に「地元の」人々(中国人の満洲登場の時期は実は「侵略者」ロシア人と大差ない)を敵に回すのではなく、協力することを教えた。ともあれ戦時であれ平時であれ、知識は大いにこしたことはない。(p.268)
  • ロシア東方学会
    • …ロシア人と中国人の大衆を教育して相互の理解を促進するという教育理念は、政治の荒波の中でハルビンアイデンティティを維持継続するのに大きな役割を果たし続けた。……ウィッテの…教育政策で見せた……結果とは、文化的な知識人が特異な能力としてハルビンの違いをわきまえて守り通すことである。(p.269)
    • ロシア東方学会の活動は大きく言って三つ。研究、宣伝、そして教育である。だが、よく考えてみると、この三つの活動は互いに重なるところが多いだけでなく、学会を主導する東洋学院卒業生の専門活動とも相通ずる。ある意味では、学会の正会員が上等の共鳴板になって、指導部の唱える協調的な文化帝国主義を増幅していたのだ……ハルビンは、国の決断で社会との協調の道こそが拡張路線を追究する最良の手段だと見定めた場所なので、「国の利益に奉仕すること」ことが必然的に「ロシア社会の利益に敏感であること」を意味した。(pp.283-284)
  • 中国東北部にあったロシアの植民地の特異性
    • 束の間ではあったが、戦略的な寛容さが非寛容の最中でも維持され、政治的な自由が認められ、地方自治と異文化交流が奨励されている。ハルビンで試みられた社会や政治の様々な実験が政策や有力者に与えた影響は、帝政末期のロシアでも後継国ソ連でも確認できる。1917年までの経験で形作られた日中露の三つ巴の対立構図は、その後も、満洲争奪戦として続いていく。ハルビンがロシアの東北アジア関与の手段になったため、片田舎の出来事が地域の、時には世界の関心事へと拡大していった。(p.296)
  • ロシアの極東政策には実は二つの鋭く対立する選択肢があったことが明らかになった
    • 極東太守アレクセーエフの考えたロシアの弁務官満洲の清国官吏に事細かに指図するやり方は、東清鉄道が旨とする影響力と宣伝とは隔たりが大きい。後者を貫くのが現実を前向きに捉え、未来の共生を信じる姿勢であるのに対して、前者は、清国の国益を踏みにじるに違いない政策を力ずくで押し付けることだ。同じ結果になることもあっただろうが、民族感情に残る長期的な遺産が全く違う。太守の願いが中国人を「わが祖国の忠実な僕にする」ことだとすれば、その対極にあるのが東清鉄道(と後にはロシア東方学会)の宣教臭を廃した態度だった。ウィッテは、中国人の満洲政策は東清鉄道の未来の顧客が到来する合図だと信じており、軍部の恐れる人口学的な黄禍論と真っ向から対立した。(p.300)
  • 巧妙さを増したロシア帝国主義
    • 自由を知らぬロシアが自由を導入し、ロシア満洲に入植者を引き寄せようとした。この知力と意欲を兼ね備えた人的資源は優秀で、いつも農民社会のクズしか集まらない国庫負担移民を上回る成績を上げることになる。こうした個人の才覚に賭ける姿勢は、自身たたきあげの人だったウィッテにとって個人的な意味を持つ実験だったに違いない(pp.301-302)
  • 日本の満洲支配
    • 1930年代の日本の傀儡国家・満洲国の五族協和は一方的支配を糊塗するためだったが、白系ロシア人、ロシア・ファシストユダヤ人といった団体に対する日本の支援は、実はかなり効果があり、こうした団体は独自性を失わずにすんでいる。とはいえ、中支鉄道の中ソ共同経営が権力をほぼ二分したのと違って、日本の「協和」の意味合いは、対等の立場の協力とも、おもねりや「傀儡」とも言い切れない玉虫色であり、そのつかみにくさゆえに、研究者にとって、この地域の権力バランスの変化を推し量る恰好の材料になっている。(p.306)
  • 国民国家史観⇔地域史
    • ロシア極東と満洲の間にあった一体感と緊張感が本書の重要なテーマなのは見てのとおりだが、「東三省」と中国本土のつながりにも同じことが言える。境界線そのものも、そしてそこを行き来するパターンが目まぐるしく変わっていったことも、こうした関係を生む重要な要素だった。国境とは社会的につくられたものであって、一国にとどまらない現象の分析にはあまり役立たないことが分かったのだから、これから進むべき道は、関係する国々の国家史から共通項をまとめ上げる地域史である。
    • 一国ごとの社会史と、国の一部でありながら国境を越えて東北アジア地域を形成する空間の社会史とに注目することで、地域主義の広狭二つのパターンの間の相関関係が見えてくる。この言葉そのものは、国家の下にあるものを指す地理的概念なのか、国家を超えるものを指す地理的概念なのか、判然としない。例えば、何も限定せずにロシア語で「ダーリニー・ヴォストーク」といった場合、ロシア極東と極東全域のいずれかの意味にもなる。前者の意味の地域主義が国民国家を危うくする遠心力の表れだとすれば、後者の国境をまたいで出現する地域は融和に向かう建設的な営みを含意する。(p.307)
  • 競争植民地主義
    • 覇を競いあう東北アジアの国々や人々の接点が増すにつれて、関係国それぞれが異文化理解に必要な知識や技能を深める必要に気づく。日本のつくった上海の東亜同文書院や大連の満鉄調査部が語学研修者を輩出し、ロシアで活躍するスパイを養成した地でもある。日中露の各国が東北アジアの他国の動向の知識を蓄えてくると、競争的植民地主義の常として、共通の課題を追究し、他国で上手く行った政策を採用することが可能になる。ここから協力と搾取の双方の技術が独特な形で合流し、地域の発展と対立が加速していった。国際的な影響力と文化的相互理解のレベルが連動していることに疑いの余地はない。(p.308)
  • ハルビン史の三つの皮肉
    • ハルビンを彩る歴史は皮肉に満ちている。第一に、本書で詳述したロシアのリベラルの実験が、帝国主義批判の一掃を掲げる中国ナショナリズムを着実に成長させた一方で、上海の外国租界が清朝批判の改革家の避難所になったり、中国共産党の結党集会の場となったりもした。第二に、1920年代の中国が白系ロシア人にきわめて寛容で、外国領事への好意と信服を隠さなかったのに、国権回復運動が急速に広まると、まずソ連が、次いで日本が軍事介入に踏み切り、中国東北部を本土から切り離した。最後に、日本はここを手中に収めた際に協和を説いたが、これが独りよがりな、大日本帝国への軍事協力に力点をおくもので、個性の尊重に依拠する平和共存ではなかった。大きく言ってこうした三つの皮肉がハルビンの二十世紀にあるが、ここで繰り広げられた多民族共存の歴史的な経験は、三つの大帝国が角付き合わせる中で無に帰したのである。(p.419)