ハルビンはロシア帝国の外部に位置したので、リベラルな思想が育まれ、それが帝国にフィードバックされたという内容。
- 本書の概要
以下メモ
- 清国からの利権獲得について
- 精神的支柱
- ハルビンの売春婦
- 満洲における軍民対立
- 満洲占領
- 満洲駐留
- 日露交渉の打ち切り
- 植民と移民
- 義和団事件後の移民政策
- 「強者に賭ける」移民政策
- 満洲における植民政策の他地域への応用
- 1902年から03年の植民地政策の影響は、ハルビンだけに止まらない。満洲で練り上げられた諸原則は、後にシベリアやロシア欧州部でも用いられた(前者は1904年、後者は1906年に採用)。実験精神の旺盛さは、満洲を試験場にする。ここは建前としては帝国の領域外なので、計画の影響をどこよりも自由闊達に議論できた。植民政策そのものとは別に、シベリア移民の必要性を人口流出の抑制とともに考えるメカニズムも、まず満洲で最初に試みられた。ストルイピン改革を立案した主要人物はシベリアがらみの経歴が豊富で、帝国の東端で生まれた様々な発想に触れていたと見て間違いない。してみれば、満洲植民の検討は、帝政ロシア末期の農村改革の失われた環を見つけることにもなる。(p.149)
- 「満洲」の外部性利用
- 入植の目的地は外国なのだから、「尋常のやり方」では埒が明かない。土地もなく、徴税権もないので、打つ手がない。とはいえ植民を進めなければいけないのだから、異端はの呼び寄せは人目を憚る(neglasnyi)方法だがやってみる価値はありそうだ……異端派はわざわざ「招き寄せる」必要もない。「今現在ロシア国内で剥奪されているものを、すなわち信仰の自由を保証しさえすれば、それで十分だ。今でも、資料を見る限り、ヴォルガ流域の異端派の間では、清国の〔鉄〕道に逃げ出す動きがある」。(p.158)
- 「強者に賭ける」「満洲植民」
- 満洲植民は「個人の意欲に任せるべきです。そうすれば、ここには望ましい人が現れます。積極性に満ち溢れ、不屈の精神を持ち、新しい生活条件に適応可能な人々、一言でいえば、自分の責任で自分の富を求める商工業階級がやってくるのです」。東清鉄道は1901年に建設労働者として都会の根無し草を押し付けられたことがあったが、植民ではそうした手合いは御免だったのである。(p.160)
- 満洲の外部性とリベラル性
- 東洋学院
- 最大の目標は「極東の通商や産業の振興」……教育によって技術と心構えの両面から自らを鍛え上げる戦略でもあった。「実践型」の学問とは、まず何より、生きた言語を学ぶことだ。地域研究の裏付けがあれば、周辺住民との対話能力は高度な働きかけの手段となる。従来の賄賂・暴力・恫喝より、ずっと洗練されている。また実践学派の中国びいきは、北京宣教団ゆずりの伝統もあり、新世代の東洋学者に「地元の」人々(中国人の満洲登場の時期は実は「侵略者」ロシア人と大差ない)を敵に回すのではなく、協力することを教えた。ともあれ戦時であれ平時であれ、知識は大いにこしたことはない。(p.268)
- ロシア東方学会
- …ロシア人と中国人の大衆を教育して相互の理解を促進するという教育理念は、政治の荒波の中でハルビンのアイデンティティを維持継続するのに大きな役割を果たし続けた。……ウィッテの…教育政策で見せた……結果とは、文化的な知識人が特異な能力としてハルビンの違いをわきまえて守り通すことである。(p.269)
- ロシア東方学会の活動は大きく言って三つ。研究、宣伝、そして教育である。だが、よく考えてみると、この三つの活動は互いに重なるところが多いだけでなく、学会を主導する東洋学院卒業生の専門活動とも相通ずる。ある意味では、学会の正会員が上等の共鳴板になって、指導部の唱える協調的な文化帝国主義を増幅していたのだ……ハルビンは、国の決断で社会との協調の道こそが拡張路線を追究する最良の手段だと見定めた場所なので、「国の利益に奉仕すること」ことが必然的に「ロシア社会の利益に敏感であること」を意味した。(pp.283-284)
- 中国東北部にあったロシアの植民地の特異性
- ロシアの極東政策には実は二つの鋭く対立する選択肢があったことが明らかになった
- 極東太守アレクセーエフの考えたロシアの弁務官が満洲の清国官吏に事細かに指図するやり方は、東清鉄道が旨とする影響力と宣伝とは隔たりが大きい。後者を貫くのが現実を前向きに捉え、未来の共生を信じる姿勢であるのに対して、前者は、清国の国益を踏みにじるに違いない政策を力ずくで押し付けることだ。同じ結果になることもあっただろうが、民族感情に残る長期的な遺産が全く違う。太守の願いが中国人を「わが祖国の忠実な僕にする」ことだとすれば、その対極にあるのが東清鉄道(と後にはロシア東方学会)の宣教臭を廃した態度だった。ウィッテは、中国人の満洲政策は東清鉄道の未来の顧客が到来する合図だと信じており、軍部の恐れる人口学的な黄禍論と真っ向から対立した。(p.300)
- 巧妙さを増したロシア帝国主義
- 自由を知らぬロシアが自由を導入し、ロシア満洲に入植者を引き寄せようとした。この知力と意欲を兼ね備えた人的資源は優秀で、いつも農民社会のクズしか集まらない国庫負担移民を上回る成績を上げることになる。こうした個人の才覚に賭ける姿勢は、自身たたきあげの人だったウィッテにとって個人的な意味を持つ実験だったに違いない(pp.301-302)
- 日本の満洲支配
- 国民国家史観⇔地域史
- ロシア極東と満洲の間にあった一体感と緊張感が本書の重要なテーマなのは見てのとおりだが、「東三省」と中国本土のつながりにも同じことが言える。境界線そのものも、そしてそこを行き来するパターンが目まぐるしく変わっていったことも、こうした関係を生む重要な要素だった。国境とは社会的につくられたものであって、一国にとどまらない現象の分析にはあまり役立たないことが分かったのだから、これから進むべき道は、関係する国々の国家史から共通項をまとめ上げる地域史である。
- 一国ごとの社会史と、国の一部でありながら国境を越えて東北アジア地域を形成する空間の社会史とに注目することで、地域主義の広狭二つのパターンの間の相関関係が見えてくる。この言葉そのものは、国家の下にあるものを指す地理的概念なのか、国家を超えるものを指す地理的概念なのか、判然としない。例えば、何も限定せずにロシア語で「ダーリニー・ヴォストーク」といった場合、ロシア極東と極東全域のいずれかの意味にもなる。前者の意味の地域主義が国民国家を危うくする遠心力の表れだとすれば、後者の国境をまたいで出現する地域は融和に向かう建設的な営みを含意する。(p.307)
- 競争植民地主義
- ハルビン史の三つの皮肉
- ハルビンを彩る歴史は皮肉に満ちている。第一に、本書で詳述したロシアのリベラルの実験が、帝国主義批判の一掃を掲げる中国ナショナリズムを着実に成長させた一方で、上海の外国租界が清朝批判の改革家の避難所になったり、中国共産党の結党集会の場となったりもした。第二に、1920年代の中国が白系ロシア人にきわめて寛容で、外国領事への好意と信服を隠さなかったのに、国権回復運動が急速に広まると、まずソ連が、次いで日本が軍事介入に踏み切り、中国東北部を本土から切り離した。最後に、日本はここを手中に収めた際に協和を説いたが、これが独りよがりな、大日本帝国への軍事協力に力点をおくもので、個性の尊重に依拠する平和共存ではなかった。大きく言ってこうした三つの皮肉がハルビンの二十世紀にあるが、ここで繰り広げられた多民族共存の歴史的な経験は、三つの大帝国が角付き合わせる中で無に帰したのである。(p.419)