加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』(岩波現代全書、2017年)

  • この本の趣旨
  • 開拓政策者たちの満蒙開拓団に対する認識(pp.vi-vii)
    • 農林省経済更生部長小平権一の部下として開拓政策の実務を担い、満洲国開拓総局長を経て敗戦時に東満総省長だった五十子巻三…は…終生、優れた大和民族による満洲開拓が「五族協和」の実現に貢献したとの考えを持ち続けた……彼のような民族協和の実践例として開拓政策を高く評価する考えは、加藤完治を筆頭に開拓政策に関わった者たちの意識のなかに大なり小なりいだかれ続けてきた。
  • 満蒙開拓団に対する世間一般の評価〜ステレオタイプ〜(p.xi)
    • 満蒙開拓政策は、加藤完治と東宮鉄男によって進められたとされている。そして、移民拡大に反対していた高橋是清二・二六事件で殺害されたことで、移民拡大の障壁が取り除かれ、百万戸計画という大量移民に繋がったとも言われている。しかし、これらは加藤完治ら移民推進派が、戦中から戦後にかけてことあるごとに発言していた言説であって、彼らの功績を誇張した「俗説」でしかない。にもかかわらず、今日にいたっても研究書のレベルですらこのような単純化された「物語」を何の検証もないままそのまま鵜呑みにする傾向が強い。
  • 満蒙開拓政策の責任の不明瞭さ(p.xi)
    • 満蒙開拓政策は限られた特定の人間たちによって推進されたような単純なものではなく、戦時下で目まぐるしく変わる政治環境のなか、政策が肥大化する反面、誰もが一定の枠組以上の影響力を与えることはできず、政策責任の所在が不明瞭になってしまったという特徴を持つ。
    • 満洲開拓政策という国策は、関与した人物の多彩さに加え、「日満一体」のもと日本国内にとどまらず満洲国まで巻き込んだ政治状況の複雑さ、さらには日本人だけでなく中国人や朝鮮人など多民族を巻き込んだ民族問題までもが絡み合って、その実態への接近を拒絶し続けてきた。
  • 満洲国における日本人人口増加の必要性(pp.3-4)
    • 満洲国の建国理念のうち、「五族協和」とは日本人・満洲人・漢人・モンゴル人・朝鮮人の五つの民族を指し、これら民族はすべて平等の権利のもとで理想国家建設にあたるとされていたが、実際は日本人が独占的な支配権を握っていたのは周知の事実である。ただし、日本人が独占的な支配権を握っていたものの、五族のなかでは圧倒的に少数派という根本的な問題を抱えていた。最大民族であった漢人が、事変当時に3000万人を突破していたのに比べて、日本人は30万人にも満たなかった。こうしたいびつな民族バランスが日本にとって当初から懸案となっており、満洲国の日本人人口の増加は急務となっていたのである。
  • 満洲の土地所有権問題(p.5)
    • ……旧清朝皇室領「皇産」やモンゴル王公の所有地「蒙地」を中心とした満洲の土地所有権の複雑さが根底にあった……満洲の土地所有権の複雑さは、満洲国になってから近代的土地所有権の確立を目指して実施された地籍整理事業によって解決が図られたが、結果的には挫折する……満洲の土地所有権の複雑さはのちの開拓団の用地取得(当初の買収を行ったのは東亜勧業)にも大きな影響を与えることになる。
  • 満州事変が起こる前の日本の社会状況について(p.8)
    • 満洲事変が起こる前、世界恐慌の影響を受けて日本社会は不況のどん底にあった。当時の日本経済は軽工業中心で、最大の輸出品は生糸であったが、その最大輸出先である米国の不況は日本経済に深刻な打撃を与えていた(例えば、生糸輸出額は恐慌前の1929年で21億4900万円だったものが1931年では11億4700万円とほぼ半減した)。しかも、生糸生産の基幹となる養蚕業は、農村の前近代的家族経営に依存するというきわめて脆弱な構造であったため、不況は農村の経済的疲弊に直結した。さらに都市部では農村からの出稼労働者も失職し、郷里へ戻ってくる事態が起きていた……
    • ……しかし、このような深刻な問題を政治は解決できなかった。1925年の普通選挙制度導入により、所得に関係なく選挙権を得た成人男性には政治参加の道が開かれるようになっていた。そして、政党内閣の黄金期を迎えていたが、実情は二大政党(政友会と民政党)による泥仕合が繰り広げられて、有効な政策を打ち出せないなか、政党の信用は失墜していった。
  • 農村改革の必要性(pp.9)
    • 明治以降、近代資本主義の発達にともなって都市に富が集まり、華やかな都市文化が開花した一方、資本主義経済に組み込まれた農村では、寄生地主化した大地主への土地の集中が進み、貧困は深刻化していた。1910年代以降になると農村部での格差は、小作争議へと発展していったが、耕地面積も狭隘で、商品となる木材すら供給できない山間僻地の農村では、困窮はより深刻であった。
    • こうしたなかで、近代化の波にさらされ危機に瀕している村落共同体を立て直すためには、協同組合方式を導入して、農業経営の集約と大規模化、改良農法による生産力向上、米作一辺倒を脱却して商品作物や畜産などを合わせた多角経営などによって、農村全体を富ませなければならないと考える人々も多くあらわれた。
  • 国体学と土地問題の関連性(pp.13-14)
    • ……天皇の赤子である日本人はすべてが家族と同様に一体であると捉えることによって、当時先鋭化していた地主と小作の対立は昇華できることになる。しかし、天皇のもとで万民は平等といった理想には首肯できても、現実には貧富の格差は歴然としてあり、生活における不平等は何ら解消されない。そこで、具体策として農業の近代化を図って小作人にも経済的恩恵をもたらすことで、農民運動家が諸悪の根源と見なす土地所有権問題は二義的なものとなる。さらに、地主と小作人がともに参加する農村自治を推し進めることで、農村共同体の破壊を回避できる。そして、こうした階級融和的な象徴に天皇を位置づけるのである。このような問題解決のアプローチは、地主制、さらにはそれを支える天皇制を諸悪の根源と見なしてその打倒を掲げる無産系農民運動の対極に位置した。
    • しかし、理想はともかく現実の農村改良では限界があった。国内農地の拡大は限界に達していたが、農村人口は増加の一途をたどっていた。しかも地主制が維持されている以上、増え続ける農業労働力を国内農業だけで吸収することは困難になっていた。結局……改良農業を基本とする農本主義は、人口増加圧力の前では、国内農業の枠を越えて外地(植民地)に目を向けざるを得ない宿命を持っていた。
    • その思想的推進力となるのが、天皇であった。すなわち、国内で地主・小作関係を昇華して一体化させる存在として天皇が位置付けられていたが、その構図はそのまま外地では日本人・現地民の関係に置き換えることが可能であった。天皇のもとで民族の相違や対立は乗り越えられなければならないというロジックは、結局のところ現地民の土地や財産の収奪を正当化する危険性を孕んでいたのである。
  • 関東軍における移民の必要性(pp.18-20)
    • ……関東軍内部で満洲移民計画が急に浮上してきたのは、満蒙独立論に方針転換したことと密接な関連があると見るべきであろう。すなわち、朝鮮や台湾のような日本編入論であればその地域における日本人の人口比率はさして問題にならない。しかし、傀儡とはいえ独立国家という建前をとる以上、新国家内部における日本人の人口比率が多民族に比べて著しく低いことは大きな問題となる。そのため日本人の大量増加が見込める農業移民が絶対的に必要となるのである……
    • 1932年1月15日から29日にかけて関東軍統治のもと、満洲国建国後の諸政策を検討する「満蒙二於ケル法制及経済政策諮問会議」が開催され、26日には諮問会議の一委員会である産業諮問委員会において、移民問題が取り上げられた……関東軍統治部では二月になって政策の優先順位を示すことになったが、財政経済政策では満洲国建国前に早急に着手すべき事業として、「移民土地ノ選定及獲得」「屯田計画ノ進行」「土地制度ノ規定」といった移民関連事業が挙げられ、建国後には移民会社の設立と移民訓練所の完備が列記された。
    • ここに関東軍にとって移民政策が最優先されることになり、同月中には、日本政府・満鉄・民間出費による移民会社を窓口にした普通移民と北満への屯田兵制移民の二本柱からなる「移民方策案」と「日本人移民案要綱」「屯田兵制移民案要綱」が作成されたのである。
  • 第一次試験移民(pp.31-31)
    • ……満洲移民はそれぞれの個人や組織の政治的思惑が異なるなかで、まず関東軍と拓務省が連携し、それを陸軍中央が追認、さらに在郷軍人会が積極的に後押しするかたちで軍事色の強い試験的な武装移民になり、1932年8月16日には移民案を実現するための第一次満洲移民に関する予算案を第63臨時議会へ提出することが閣議決定され、30日には議会を通過、これを受けて拓務省と陸軍省とのあいだで移民団送出に関して緊密な連携が図られることになった……そして9月1日に募集が開始され…5月に締め切って10日には…各訓練所で3週間の訓練を経て、10月3日に第一次試験移民として423人が満洲の最初の入植地となる佳木斯へ渡った。
  • 国策(p.41-42)
    • 国策というものは、政策の規模が大きいにもかかわらず、時間をかけて現地の実情に合わせながら完成されるものではなく、単年度予算に縛られるためひとたび決定されると短期間での結果が求められ、しかも臨機応変な柔軟性に欠けるという欠陥を抱えている。さらに個々人や特定の集団の思惑が国策を生み出す要素になるが、いったん国策として動き始めると発案者らの思惑を超えて、個人の力では制御できないものとなる。始まったばかりの満洲移民政策は、小さな「国策」でしかなかったが、すでに国策が本質的に抱える危険性の萌芽が見られたのである。
  • 試験移民の無謀さ(pp.46-47)
    • 加藤完治と東宮鉄男が計画した試験移民が、非現実的で無謀なものであったことは、はやくも第一次移民団に続いて第二次移民団が送出される1933年7月5日の直前に表面化していた。7月3日、第一次移民団のうち、群馬小隊長根岸正雄らが同郷出身である東宮のもとを訪れ、幹部不信任案を提出した。根岸らは、防寒装備も建築物も不十分なまま、無謀な水田計画を立て、しかも農具も使用できないものばかりで指導員も能力が不足し、さらに匪賊の襲撃によって戦死した団員の遺骨が現役軍人並みに丁重に扱われず貨物扱いされたことなどを挙げ、移民団失敗の責任を幹部はとるべきだと訴えたのである。
  • 満洲における土地所有問題と地籍整理事業(pp.51-53)
    • 満洲農業の場合、ほとんどの既墾地は自作農ではなく地主が小作人を使って経営していた。しかも、日本のように農地所有者は地主、農作物生産者は小作人という単純な構造と違い、土地所有形態が複雑で、小作人を直接雇用しているのは農場の管理者にすぎず、土地所有者は都市に居住する王侯貴族や官僚といったように、資本と経営と労働が分離していた。いわば資本の所有者である貴族に任命された荘官が農民を使って農場経営を行った平安時代の荘園制度に似ているともいえるが、時代を経るなかで荘官が自立していったと同じように、満洲でも現地管理者が土地所有者になるケースも見られ、土地所有の実態はきわめて複雑になっていた。
    • …近代国家を目指す満洲国にとって、人民と土地をコントロール下に置くことは絶対的に必要であった。土地に関しては、前近代的な土地所有形態を改めなければ税収も安定せず、また国土の管理も不可能となる。そのため、まず土地の地籍調査を進めて土地所有権を確定することが何よりも急がれた……
    • ……地籍整理事業が開始されたのは1936年度からであって、第一次試験移民が開始された頃、満洲国では土地制度改革は始まっていなかった。と、いうことは、旧来の土地所有制度を基に所有者が特定され、土地の買収が行われていたことを意味する。満洲事変以前の土地所有実態はきわめて複雑で、東北軍閥時代にも制度改革が試みられたが失敗に終わっていた。その結果、地券そのものの信憑性も疑わしいものも多かった。試験移民はこうした土地所有実態を完全に把握しきれていないなかで強行されたため、現地に多大な動揺と混乱を与えていたのである。
  • 土竜山事件(pp.64-65)
    • 謝文東の叛乱は、単なる土地を追われた現地民の不満の表出ではなく、郷村実力者の立場が、中央集権化を進める満洲国が出現したことで不安定化し、それが土地買収という混乱を機に一気に表面化したものと言える……
    • ……1939年3月に関東軍に帰順し、それ以降は密山炭礦の把頭(人夫頭)を経て東安省林口県内の模範村で村長を務めた……
    • ……土竜山事件とは、土地を追われた農民と愛国心に燃えたリーダーによる「抗日英雄」物語ではなく、在来の土地所有形態から郷村自治にいたる伝統的な満洲の郷村社会が、強力な中央集権化国家を目指す満洲国の出現によって解体の危機にさらされ、これに対する拒否反応として起きた事件と捉えるべきであろう。
  • 総力戦体制(p.72)
    • 陸軍にとっても1934年は大きな岐路であった。それは、陸軍で隆盛を極めていた皇道派の重鎮荒木貞夫が影響力を失って陸相を辞任し、代わって総力戦体制構築のために日満一体化を推進する統制派の永田鉄山が、軍務局長になる時期にあたっていたのである。
  • 本格化する移民政策(pp.75-76)
    • 満洲国の基本方針であった「満洲国経済建設要綱」(1933年3月1日公表)は、日満経済ブロック形成と経済の国家統制を掲げていたが、移民を含む農業部門に関しても強力な国家統制によって行われるものとされていた。当初から日本人移民は満洲国経済に不可欠なものと位置づけられていたのである。
    • しかし、いくら関東州や満洲国が日本人移民を必要としていても、送り出す側となる日本国内がこれに充分応え得る体制を構築していなければ机上の空論で終わってしまう。関東軍としては、できるだけ早く武装移民から普通移民へ転換して量的拡大を図ると同時に、日本国内の体制構築を働きかけねばならなかった。
    • そうしたなかで、1934年11月26日から、関東軍特務部において「対満農業移民会議」が開催された……11日間にわたる会議の結果、「満洲農業移民根本方策案」が策定された。根本方策案では、日本人移民政策は日満一体を体現する国策的意義を有するものであり、南米移民など他の海外移住よりも「絶対的に重要かつ緊急を有するもの」と位置づけられた。満洲移民政策は単なる試験的性格を超えて、重要国策として再定義されたのである。
  • 中東鉄道の買収と移民の促進(pp.78-79)
    • 移民政策の拡大が慌ただしく進められた背景は、これまで帝政ロシアからソ連が引き継いで経営していた中東鉄道(北満鉄路)の満洲国への売却交渉が、大詰めを迎えていたからである。ロシア(のちにソ連)の満洲経営の実行機関であり、満洲において満鉄のライバル企業であった中東鉄道は、満洲国の出現によって経営が悪化していた。また、関東軍にとって満洲国内にソ連系企業が存在することは軍事的にも経済的にも厄介な問題であった。そうした両者の思惑のなかで売却交渉が始まり、紆余曲折の末、1935年3月23日に満洲国へ売却されることで妥結した。
    • 中東鉄道の買収の結果、北満が完全に日本の支配下に置かれたことで、北満地域の経済開発が急務となってきた。日本人移民も旧来の治安維持機能から踏み出して、開発の一翼を担うことが期待されたのである。
    • 1935年になると満洲移民をめぐる政治環境は大きく変わった。対満事務局の設置によって関東軍が完全に政策の主導権を握ると同時に、中東鉄道買収によって北満地域の開発が急務となった。開発主体として大量の日本人移民が急速に必要とされるようになったのである。
  • 2.26事件以前に移民拡大路線は決定していた(pp.84-85)
    • ……岡田内閣は、12月召集の第68通常議会で1936年度予算に本格的移民団1000戸の送出予算を提出し、議会を通過させた……大蔵省は財政的理由に移民拡大に慎重であったが、実質的には移民政策の実行機関となる満拓と満移が誕生したこの段階で、移民政策の拡大は既定路線となったといえよう。一般的には、二か月後に起きる2.26事件で移民政策に反対だった高橋是清蔵相が殺害されたことで、本格移民への道が開かれたと言われるが、事実は事件が起きる前に移民拡大路線が始まり、大蔵省も追認せざるを得なくなっていたのである。
  • 移民政策拡大体制の確立(p.92)
    • 1935年以降、移民政策の主導権を陸軍が握るようになると、関東軍によって移民政策の基本方針が決定され、拓務省が政策の肉づけを行って予算を獲得し、各都道府県に対して移民募集を指示、満移が都道府県と連携しつつ募集目標の達成を図るという基本構造が形作られたのである。あとは、中長期の計画を立てて移民の数値目標を上げれば、いくらでも移民政策を拡大できるよになったといえよう。
  • 永田鉄山の死による移民政策の迷走の開始(pp.92-93)
    • ……移民政策の主導権を握っていた陸軍内部では大きな動揺が起きていた。拓務省による海外拓殖委員会が設置され、特別委員会で移民政策の具体化が図られていた最中の8月12日、統制派リーダーの永田鉄山が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で殺害されるという前代未聞の事件が突発する。
    • 永田は、第一次世界大戦後の軍事潮流となっていた総力戦体制構築のため、日本と満洲国との一体化路線を推進してきた人物である。満洲事変を引き起こしたのは、石原莞爾関東軍の幕僚たちであったが、事変拡大を国内から側面支援していたのが永田であった。
    • 永田にとって満洲国の産業化と資源開発は、日本の高度国防国家に不可欠とされたが、農業生産の拡大による食糧供給基地化もそのなかの一部であった。また、石原莞爾の腹心で満洲産業開発のブレーンであった宮崎正義(満鉄経済調査委員会)も、移民は生産拡大を担うものとして重視しており、やがて満洲産業開発五か年計画を支える重要な要素として位置づけられるのである。しかし、永田は特別委員会の答申が出されて満洲移民政策が本格化する前に殺害されていた。
    • もともと満洲移民政策は、拓務省の省益拡大という思惑と加藤完治ら農村問題解決に熱心な者たちの近視眼的な動機から開始され、やがて関東軍・陸軍の対ソ軍事戦略と中長期的な総力戦構想に取り込まれて本格化していった。そして、それを主導してきたのは永田であった。しかし、永田という戦略の司令塔を失った陸軍も中長期的視野を欠くようになり、移民政策の迷走が始まるのである。
  • 満鉄と関東軍(p.109)
    • 満洲の歴史的経緯と漢人労働力に依存せざるを得ない現状を前提として、経済的合理性から漢人を活用した北満開発を進めようという満鉄
    • 政治的・軍事的思惑によって日本人主体の北満開発を進めようという関東軍
    • …建国初期に人材と資金の供給源として重きをなしていた満鉄とそれに依存せざるを得なかった関東軍との関係も1935年以降、大きく変化していた。対満事務局設置によって、関東軍は満鉄監督権を掌握したことに加えて、同じ頃から満洲国に国内官庁から転入する官僚が増加、満洲国の財政的・経済的自立化も進み、これまでの資金と人材の供給源であった満鉄への依存度は相対的に低下していった。事変直後の関係は逆転し、満鉄の関東軍への従属性が強まっていったのである。
  • 総力戦体制と日満一体の産業開発計画(pp.114-115)
    • 対ソ戦
      • 関東軍は対ソ兵力劣勢を補うために、大量の人的戦力と有事の際の軍事拠点を満洲国内で確保しなければならなかった。そのためには、ソ連軍の攻撃を受けた際に動員できる日本人移民を大量に入植させ、軍事補給拠点となり得る移民村をソ満国境周辺に増設することが急がれたのである。すなわち、関東軍にとって日本人移民を中心とした北満開発は、満洲国の発展という経済的理由以上に対ソ戦という軍事的理由から急務となっていたのである。
    • 石原莞爾と総力戦
      • …さらに、1935年8月に石原莞爾参謀本部第一部第二課長(作戦担当)に着任してから日満一体化の具体策が急がれていた。石原は、対ソ作戦を意識して単純な軍事力増強ではなく、強力な国家経済力を基礎とした国防力強化を唱え、満鉄経済調査会員で石原の経済ブレーンであった宮崎正義を中心に日満財政経済研究会を東京で組織させ、総力戦体制構築に向けた日満一体の産業開発計画の立案を進めていった。
    • 満洲国第二期経済建設要綱」
      • ……広田内閣で七大国策が決定される同時期の1936年8月10日、陸軍省関東軍とのあいだで「満洲国第二期経済建設要綱」が決定され、そのなかで漢人移民の制限とともに「大和民族ノ大量的移住国策ヲ樹立スルコト、即チ二十年間百万戸ヲ目途トシ、第一期五年間二自由移民ト集団移民ト合計十万戸ノ移住ヲ実施スルコト」が明記され、ここに満洲移民政策は日満両国の国策として強力に推進されることとなった(『満洲建国十年史』)
    • 満洲産業開発五カ年計画」
      • …この要綱は11月に「満洲産業開発五カ年計画」として具体化され、翌年度からスタートすることになる。さらに、これに対応するかたちで日本国内用として重要産業五カ年計画の立案が始まり、日満を一体とした総力戦体制の構築が本格化しつつあった。
      • こうした流れのなかで、満洲移民は単なる農村救済の一方策ではなくなり、総力戦体制を支える重要な「国策」の一つとして位置づけられるようになった。
    • 国策のつまずき
      • しかし皮肉なことに本格移民が開始される1937年度以降、関東軍ソ連軍との戦力差は縮まるどころか拡大の一途を辿っていく。しかも、同年に開始された日中戦争が、始まったばかりの国策をつまずかせる要因となるのである。
  • 農村更生協会と杉野忠夫(pp.133-134)
    • ……農村更生協会は、経済更生運動を地域から強力に推進するためにつくられた組織であった……なかでも杉野忠夫がその後の経済更生運動と満洲移民をつなげる重要な役割を果たすことになる。
    • ……杉野は、農村人口の増加を吸収できる農地が絶対的に不足している以上、国外に未開墾地を求め、勤勉な農民に分け与えることが最善であると考えた。そして、満洲移民は国内では都市への農業人口の流入を防止し、労働力の飽和状態を解消させることで労働条件が向上、単純工業から精密工業へ産業構造の転換が図られる一方、移住地では現地民が顧みない未利用地を活用することで日本農業と現地民との自作農同士の平和共存が実現する、といった一石三鳥にもなる政策と確信したのである。
  • 経済更生計画と分村計画の結合(p.142)
    • ……農林省は、経済更生計画と分村計画を結びつけ、各町村の分村計画を指導することで満洲移民政策に強い影響力を及ぼすことになった。地方庁にとってもこの事態は歓迎することで、これまで地味だった経済更生運動が「移民国策と合体して果然見事なる実を結び「分村計画による集団農業移民」は「経済更生運動の結論」として県下諸地方にその萌芽をあらはし」、移民事業を「奇跡的爆発」に推し進めたと評価されたのである。
  • 「在満日本人の在満軍隊への徴収及び召集を容易且便益」する方策(p.149)
    • 義勇軍計画の初発は、1936年9月、満洲事変時の関東軍参謀で当時は陸軍省軍務局にいた片倉衷少佐が満洲国を視察した後に報告書を作成、そのなかで徴兵適齢前の青少年を移民とし、将来的に現地徴収の途を取るべきとの意見を開陳したことから始まる。
    • …当時の日本の兵役制度では本籍地の聯隊に入営するのが基本であった。当時、満洲国には国籍がなく移民は日本国籍のままであった。そのため、満洲国に入植した移民も本籍地で徴兵検査を受け、召集令状を受ければ本籍地の聯隊に入営した。関東軍としては、満洲の兵力を補いたくても辺地の日本人移民を直接召集することはできなかったのである。有事の際に迅速な大量動員ができないのであれば大量移民の意味はない。そこで現地召集の検討を始め、片倉が渡満して調査を行ったといえる。そして、片倉は、徴兵前の青年を入植させ、現地で徴兵検査を受け、関東軍指揮下の現地部隊に直接入営させる方策が適切であると判断したのである。
  • 土地買収をめぐる現地民の動揺(pp.155-156)
    • ……百万戸計画実施段階では、湿地帯の干拓や土地改良などの大規模土木事業を行って耕作可能地の拡大を図ることが必要であったが、そのような一大事業は短期間では不可能で、結果的に、拓務省の安井拓務局長が後年回顧したように、「従来満人が入地し相当に落付いて耕作しているような処でも日本人の入植に都合がよく、したがってその定着に便利のよい土地は無理してまでも買収」するケースがおき、「先住の満人、漢人達には非常に侵略的な印象を与え」たのである(『満洲開拓史』)。
    • ……しかも、満洲国内で起きていた現地民からの強制土地買収は、日本と戦う中国にとって格好の抗日宣伝材料となり、それが現地民の動揺を招く結果をもたらしていた。関東軍としても、前述した要望のなかで「民心二影響スル所微妙ナルモノアル」とあることから分かるように、土地買収をめぐる現地民の動揺は無視できない事態となっていた。
    • ……さらに、日中開戦前後から日ソ間の軍事的緊張は高まり、1937年夏に乾岔子島事件、翌38年夏には張鼓峰事件が勃発、関東軍にとってソ満国境防衛が急務となっていた。
  • 国内官庁と関東軍の移民政策への考え方の違いと断絶(p.162)
    • ……国内官庁は、日本の国内問題から移民政策を構想し推進していった。一方、満洲国とそれを実質的に支配する関東軍は、満洲国の問題として移民政策を位置づけていた。両者の考えは、当初から根本的な部分において異なっていた。百万戸計画までは、表面的には両者の思惑は一致し移民政策の国策化まで実現された。しかし、満洲国が国家体制を固め始め、さらに日中戦争が始まったことで内外情勢が急速に変化していくなか、両者のあいだでもともと抱えていた深刻な断絶が表面化したのである。
    • だが、満洲国にとって産業開発5カ年計画と北辺振興策と並んで三大国策とまで位置づけられるようになっていた移民政策に対して、もはや日本国内の官庁や「有識者」が影響を及ぼせる状況ではなくなっていたのである。
  • 石原莞爾の総力戦体制構築の挫折(pp.165-167)
    • 1937年9月、日中戦争不拡大を唱えたものの戦争拡大阻止に失敗し、参謀本部内で孤立した第一部長の石原莞爾関東軍参謀副長に「左遷」された。満洲国を総力戦体制構築の要と位置づけていた石原にとって、日中戦争満洲国の産業開発計画を狂わすものでしかなかった。そのため盧溝橋事件勃発後の戦争拡大の阻止を図ったが、部下は彼の指示に従わず拡大に突き進んでいった。石原自身が満洲事変で下克上的な行動をとって戦争を拡大していったことのしっぺ返しを受けたことになる。
    • …石原にとって「五族協和」として唱えられた民族協和思想は単なるヒューマニズムでも偽善的なものでもなかった。すなわち、総力戦とは国民が積極的に戦争を支持することがなければ成り立たないものであって、国民が政府に反発しているようでは戦争を勝ち抜くことは不可能という考え方に基づいていた。戦争が長期化するなかで国民の不満が高まり、最終的に内部から自壊した第一次世界大戦のドイツの例を意識していたのである。
    • 石原としては、多民族国家である満洲国を構成する各民族の政治的平等と生存権を保障することで、満洲国を支える自覚を持たせることが、満洲国の防衛と日満一体による総力戦体制構築に不可欠と考えていた。そして、関東軍が政治への関与を薄め、対ソ防衛に専念することを何よりも求めていたのである。
    • ……満洲開拓政策基本要綱が策定される過程は、移民政策実現に大きな影響を与えてきた石原が政治の表舞台から去る過程とも重なり、開拓政策は本来の意図も目標も見失ったまま誰も止められなくなる起点ともなった。
  • 有事の際の軍事基地としての開拓団(pp.183-184)
    • 日米開戦の7月14日、陸軍は「臨時満洲開拓政策遂行要領」を策定、関東軍にこれを伝達した。ここでは「満洲開拓政策当面ノ目標ヲ北方警備ノ強化二有事ノ際二於ケル満洲国内後方治安ノ維持並二後方ノ充実確保就中主要糧穀ノ増産、保有二集中スルコト」と定め、開拓団を明確に有事の際の後方基地として位置づけていた。
    • このような指示が出された要因は、同時期に実施された関東軍特殊演習(関特演)との密接な関係、すなわち対ソ戦発動の準備を進めていたからであった。結局、対ソ戦は発動されず日本は南方へ進出、アメリカとの戦争に突入するが、この関特演において開拓団と義勇軍は生産部門(食糧供出・木炭増産)と警備部門(治安維持・後方援護・軍役従事)において協力を行い、一定の成果をあげていた。すでに開拓団は有事の際の軍事基地としての役割を与えられ、それは敗戦まで変わらなかったのである。
  • 内地農民以外の開拓民層の発掘(p.187)
    • 1944年2月、新京で「第二回開拓全体会議」が開催された。この会議では、これまで行っている分村開拓民送出以外に「企業整備並都市疎開二伴フ大陸帰農開拓民二一層重点ヲ指向スル」と、産業合理化によって転廃業を余儀なくされた中小商工業者と空襲に備えて建物疎開を受けた者を対象として、彼らを開拓民とすることが強調されていた。1944年段階になると、一般農民よりも戦時下で基盤を失った者たちを開拓民として選びだそうとしていたのである。
    • さらに興味深いことに、「関東州内並国内ノ日本内地人帰農開拓民、都市疎開開拓民(以上イズレモ仮称)都市人口疎開、義勇隊現地募集二就テモ漸次之ヲ制度化スル様考慮」と満洲国と関東州に在住する日本人(開拓民ではなく、都市部に居住していた市民)の満洲国内での開拓民化も計画していたことが注目される。
  • 対ソ戦の準備と国境周辺の放棄(p.193)
    • 関東軍ソ連満洲へ侵攻することをまったく予測していなかったわけではなかった。すでに前年の1944年9月18日、大本営は大陸命第1130号をもって関東軍に対して長期持久戦への転換を求め、これに対応するかたちで関東軍は翌45年1月17日までに満洲東南部と朝鮮北部を確保するためにの持久戦計画を策定していた(『その日、関東軍は』)。
    • 実質的にはこの時点で、対ソ戦が勃発した際、開拓団が点在する国境周辺は放棄されることが決まっていたといえる。
  • ヨーロッパにおける武装移民に対する認識と日本の満蒙開拓団の認識の対比(p.196-197)
    • 占領地の支配強化を目的として自国民を入植させる政策は、ヨーロッパでは一般的であった。例えば、第一次世界大戦後に独立したポーランドでは国境を接するソ連との軍事的緊張状態が続いていたため、東部国境周辺にオサドニッツィと呼ばれる武装移民を入植させ、国境防衛に充てていた(『カチンの森』)。
    • また、ドイツは第二次世界大戦中に120万ものポーランド人を独軍占領地ウクライナ強制移住させ、彼らを追放した後には、ドイツ本国からドイツ人の入植を進めていた。このようにドイツとソ連に挟まれた東欧では、支配と移民とは表裏一体の関係にあって、政治的・軍事的意図を抜きにして語ることはできないものであった。
    • ということはソ連側から見れば当然、日本が満洲国内で建設した開拓団は政治的意図によってつくられた軍事組織以外の何ものでもなかった。しかも、実際に関東軍は開拓団に軍事的役割を求めていたのであり、日ソ戦時に軍命令で戦闘に直接従事した開拓団……や義勇隊……もあったのである。
    • 開拓団をめぐる悲劇は、このように当時の国際的通念からすれば開拓団は軍事組織と見なされていたにもかかわらず、当事者である開拓民にとっては、日本国内と同様の「村」としか認識しておらず、関東軍が守ってくれる以上、軍事攻撃に曝されるとは露ほども思っていなかったというギャップの大きさにあるといえる。
    • また、関東軍幕僚を除けば、開拓政策を推進した民間人や官僚も国内問題という極めて内向きな視点からしか開拓団を考えていなかったことも大きな問題であったといえる。軍事的緊張感が強い外国への入植という国際的な問題を日本限定の内向き思考でしか捉えられない政治エリートの創造力の貧困さは、日本社会の宿痾である。
  • 戦後に残存する満蒙開拓の遺風(p.217)
    • 満洲開拓政策を思想面で支えた人口調整論と農家適正規模論は、戦後になっても社会に根強く残り、戦後開拓政策や中南米移民政策を支え続けたといえよう。すでに農地改革によって地主制は解体し、自作農中心の農業経営となる一方、日本の産業構造は転換期を迎え、第一次産業から第二次産業への転換が始まっていた。にもかかわらず、政策に関わる官僚も政治家も長期的な社会変動を見通せず、過去の産業構造に囚われて将来の政策を構想した。彼らは農民という立場である限り、戦後も国策の虜囚であり続けたのである。
  • 日本政治の欠陥(p.225-226)
    • ……ひとたび政策が実施されると誰もその結果と効果に対する関心を持たず、評価することを避けようとするため、客観的な政策評価が行われず、結局、同じような失敗を繰り返すということである。
    • 長期かつ大規模に実施される政策(とりわけ国策)というものは、その時々の環境に左右され、当初の意図と結果は必ずしも合致しない。むしろ、環境の変化が激しければ激しいほど成功よりも失敗する確率が高くなるのである。そのような失敗、もしくは当初予想していたよりも成果はあがらないことを前提に、同じ過ちを繰り返さずに少しでも次の政策の成功の確率を上げるためには、実施された政策を検証し、客観的な評価を下しておかなければならない。
    • 結局、分村計画を含めた満洲開拓政策の総括は……政策に関わった官僚の誰も行っておらず、客観的評価がなされていない以上……単なる「感想」でしかない。
  • ソ連侵攻による免罪符(p.229)
    • ……開拓政策推進派にとって、敗戦間際のソ連参戦は彼らの免罪符ともなった。すなわち、開拓団は五族協和の旗印のもとで現地民との共存を図り、王道楽土の建設を目指していたが、それをすべて打ち砕いたのはソ連であって、悲劇の責任はソ連のみにあるという考え方である。
  • 肯定される満洲開拓政策(p.229)
    • 加藤は『満洲開拓史』の序文において、当時誰もが不可能といっていた日本人の満洲農業移民が「現地に乗り込んで行って、あらゆる困難を克服して、立派に彼の地に落ち着くようになったのは、何といっても画期的な大事業」であり、不幸にして敗戦で中断、「悲惨な目にあって、辛うじて日本に帰って来たのであるけれども(中略)日本人の満洲農業移民不可能論を見事打ち破って(中略)その可能なことを示した功績は、絶対に忘れてはならない」と満洲開拓政策を全面的に肯定していたが、このような思考回路は、1970年代以降、義勇隊を中心に全国で建立された慰霊碑にも強く受け継がれ、皇国史観を基盤としたより先鋭的な歴史観が展開されていった。
  • 欺瞞的な満洲開拓政策の正当性(pp.229-230)
    • ……優秀な日本人農民が未開の満洲で模範的開拓民となることで現地民も感化され、やがて満洲全土が理想郷となるストーリーは、満洲開拓政策の正当性の根拠とされてきた。しかし、地方に割り振られた数値目標によって機械的に送り出された日本人農民すべてが現地民と比べて「優秀」であるという根拠はまったくない。さらに、同じ日本人であっても都市に住む日本人と地方に住む開拓民は生活レベルも何もかも違っており、ほとんど交わることもなかった。住居は現地式、機械式農法の導入も限られている開拓民の姿は、現地民にとって模範でも憧れでもなく、「感化」されようがなかった。彼らは、この当たり前の現実が見えなかったのである。
  • 虚妄の日満一体(p.230)
    • ……多民族に対する理解度も決定的に欠けていた。そもそも開拓団と現地民とは構造的に不平等な関係であったこと、どのようなかたちであれ外来民が流入してきた場合、現地民は必ず反発することが見落とされている。そして、いつかは顕在化する現地民との対立が、ソ連軍侵攻を機に一挙に噴出したのであって、悲劇の根本的要因はもっと根深いところにあったという思慮は一切見られない。結局、当時の日本でことあるごとに喧伝されていた「日満一体」は虚妄だったのである。