第1部 貿易国家から生産国家へ
第一章 貿易構想の転換-英米依存体質からの脱却-
- 英米依存から東亜自給へ(p.59)
- 東亜経済懇談会に集まった官民の関係者は、1940年には第三国重視の貿易政策(同時に円ブロック向け貿易制限策)に対し批判的な意見を述べるようになり、英米依存よりも東亜自給の方が本来あるべき姿である、との共通認識が形成された
- 転換を可能だとする根拠(pp.59-60)
- 英米依存から東亜自給へと転換することが可能だとの判断の根拠には、大陸における長期建設の進捗があった
- 大陸の工業化(p.60)
- 長期建設をスムーズに進めるために、大陸を単なる資源供給地と位置づけるのではなく、ある程度の重工業化を推進すべし、との主張が見られた
- 日本資本主義の矛盾と再生(p.60)
- 日本資本主義の英米依存構造を鋭く見抜いた……からこそ、本来の国民経済は再生産が自律的に行われるべきである、との認識をもっていたはずである。40年以降の事態は、本来あるべき国民経済の再生産構造を構築する絶好の機会であった……太平洋戦争は無知や無謀の所産ではなく、同時代の最高の英知を傾注した結果である可能性は棄てきれない……「東亜共栄圏」への志向は日本帝国の経済社会に確実に定着していた……
第二章 輸出入リンク制による貿易振興策
- 同時代の人々における生産力低位、外貨不足問題についての認識(p.72)
- 「…日本の対外貿易には軽工業品、就中衣料品の輸出を以つて原料及び機械類の輸入を補完するという第一の使命が与えられ、いはゞ之によつて再生産過程が維持せられて来たのである。かくて日本の繊維工業の肥大性は劣性な重、化学工業の当然の要請とも云い得、外国貿易が基本的再生産構造と深く結び付いてゐる事は日本の特殊性を示すものに他ならぬ。……農村との関連に於ける低賃金機構の存在を武器に比較的劣位な技術的水準にて可能な繊維工業に進出し、その繊維工業の輸出によつて迂回的に重化学工業の原料品を獲得せねばならなかつたのである」(東亜経済懇談会『昭和十七年度東亜経済要覧』(1941)190〜191頁)
- 商品別リンク制(p.73)
- 輸入原料に依存して輸出商品を製造していた羊毛・綿業・人絹をはじめとするいくつかの輸出入品について第三国(ドル・ポンド圏)への製品輸出と原料輸入をリンクさせて、両者の拡大均衡を企図する商品別リンク制が実行された。
- リンク制が吉野商相に始まったが、功績は池田蔵商相に帰せられる理由(p.83)
- 輸出入リンク制の成果(pp.103-104)
- 日中戦争期(=日中戦争段階、1937〜41)に外貨獲得を目的として行われた輸出入リンク制は、民間の支持を得ながら吉野商相期に始まり、池田蔵商相期に制度を確立させた。
- 繊維原料を輸入すべき第三国も、繊維製品を輸出すべき第三国も、要するに英米圏であったがために、輸出入リンク制を維持・拡大している限りは、ある程度の対英米協調を維持する必要があった。この期間には、中国占領地、満洲国との円ブロック貿易は抑制され、大陸占領行政当局および経済界からは、その抑制の解除を求められ続けてきたが、あくまでも日本政府の基本路線は外貨獲得、第三国貿易重視であった。
- 主要な商品別リンク制(綿業、羊毛、人絹)について輸出入リンク制の外貨獲得、輸出振興の効果を分析すると、恒常的に抱えていた綿業収支赤字、羊毛収支赤字が解消したことにより、外貨節約は顕著であること、輸出振興(=輸出額増大)も日中戦争前水準を上回る水準にまで到達していたことがわかった。
- 輸出入リンク制の存在理由の消滅(p.104)
- 日本政府は40年春のドイツのヨーロッパ制圧に眩惑され、「無主の地」南方への進出方針を固めていった。この年に英米との決裂を示すできごとは連続的に起きるが、経済政策全般にわたり影響が大きかったのは、同年9月の外交転換である(引用者註:9月27日の日独伊三国軍事同盟締結)。外貨獲得そのものが放棄されるにいたり、輸出入リンク制の存在理由もなくなってしまった。
第三章 戦争の長期化と長期建設
- 第三国重視政策からアウタルキー構築政策への転換(p.110)
- 日中戦争の変化
- 1940年の外交転換(p.119)
- 政府は1938〜39年にかけて第三国貿易重視策を実行していたが、その間においても貿易をめぐる二つの考え方は対立していた。一つは、英米圏をはじめとする第三国貿易を重視し、円ブロック貿易は抑制すべしという見解、すなわち政府見解である。これに対して、日満支ブロックを前面に掲げ、満洲国、中国占領地の経済開発を進め、円ブロック貿易を拡充することが、日中戦争の戦争目的にも適い、東亜の目指すべき道である、という見解が存在した。
- 二つの考え方の相違が解消したのは、1940年である。同年春のドイツのヨーロッパ戦線制圧、フランス、オランダの降伏・占領を受け、従来日本が執ってきた欧州戦争「不介入政策」が「弾力化」し、「東亜に於ける自主的立場」が強調されるにいたった。これ以降、北部仏印進駐、日独伊三国同盟調印へと日本の外交政策は、対英米協調のわずかの可能性をも放棄し、枢軸陣営への参加に踏み切ることになる。「大東亜共栄圏」の語が7月26日、松岡洋右外相によって初めて用いられ、10月には企画院が立案した日満支経済建設要綱が作成される。9月ごろには、こうした外交路線上の一連の変化を政府は「外交転換」と呼ぶようになる。
- 貿易路線の転換(p.125)
- 大東亜共栄圏をどのように開発するかの二つの路線(p.127)
- ……42年においては、15年というスパンで、大東亜共栄圏内の各地を包含したさまざまな長期計画と国土計画が作成されたこと、企画院が、日本民族の大東亜共栄圏内における配置の問題を重視して人口政策、国土計画を策定していくのに対して、商工省は、重要産業の統制会(=産業界)の意向を踏まえながら、より現実的で内地中心の共栄圏構想を抱き、両者が対立しながら「玉虫色」の文言で答申が作成された……
- 日中戦争期の長期建設は、太平洋戦争期においても大東亜経済建設として、引き続き議論の対象となっており、そのなかでは大東亜共栄圏内分業、大東亜共栄圏内工業化を認めるか否かについての見解の対立も続いていたのである。
- ……日中戦争期における大陸経済建設を長期建設、太平洋戦争期における大陸経済建設を経済建設と称し、区別するが、大陸経済建設それ自体は中国における日本軍占領地において継続して行われていたことに注目している……
第2部 華北における経済建設の実態
第一章 華北の石炭資源
- 開発の自己目的的性格(pp.174-175)
- 労働の暴力支配的「自由市場」的性格(p.175)
- 資材の自給自足的性格(p.175)
- 資材の自給自足的性格とは、高度な機械や油類が内地から供給されなかったことは当然だが、燃料としての石炭、あまり適さないが杭木など自前で調達し生産を支えたことに示されている。また、必要最低限の道具類−鍬、ツルハシ、ペンチ、モッコ、縄、火薬などは把頭の負担(調達方法はよくわからないが)であった。手掘りを基本とする技術水準が、最低限の資材での採炭をかろうじて可能にしていたと評価できるだろう。
- 経済的成果を度外視した開発(p.175)
- 炭鉱会社や日本側諸機関の開発への熱意は失われなかったが、開発による経済的成果はさまざまな条件により制約されていた。しかし、経済的成果を度外視して開発を続けることが日中戦争経済史を貫く一つの特質である……
第三章 綿花生産と流通
- 綿花作付と食糧農産物作付との競合(p.244)
第四章 華北農村掌握と農業政策
- これまでの日中戦争史研究で注目されてこなかった占領行政の課題(p.250)
- 日中戦争により日本は広大な農村地帯、膨大な農民支配という課題を負ったために、占領地行政のなかで農業政策・農民政策はきわめて大きな位置を占めていた……
- 農産物増産(pp.274-275)
- ……綿花増産と食糧不足の矛盾を日本側も問題視し、綿花増産とともに小麦などの食糧作物増産を政策目標としていた……、しかし、日本側は供出や配給を計画的に行うほどには農村を掌握していなかった……
- 華北農民の換金志向(p.275)
- ……華北農民の換金志向は意外に強い……、食糧を購入するためにも兼業をも含めた現金収入が必要であった……村内の農外=農業労働者の存在も、雇用する側(おそらく専農)から見ると、賃金支払いのための現金需要をもたらすものとなっていただろう。華北農村は、日本の農村以上に現金需要=換金作物志向が強かった可能性がある。
- 日中戦争下(太平洋戦争期)にいたっても農村の商品生産志向・現金志向・食糧購入志向は根強いものがあった。日本側による華北農村支配は、華北農村市場(これは県単位あるいは村単位に存在しているものと思われる)を掌握することを不可避としていた。華北特有の農業問題の焦点は、農業生産の再建・維持(水害・旱害の克服)に加えて、農家・農民の現金需要をいかに満たすか、という点にあった……
終章 大陸経済建設の帰結
- 大陸経済建設の最期の姿(p.285)