白木沢旭児『日中戦争と大陸経済建設』(吉川弘文館、2016年)

  • 本書の趣旨
    • 筆者は日中戦争の目的を中国の経済開発と捉え、日中戦争の重要な側面である長期建設、経済建設の実態を解明することを目指している。

第1部 貿易国家から生産国家へ

第一章 貿易構想の転換-英米依存体質からの脱却-
  • 英米依存から東亜自給へ(p.59)
    • 東亜経済懇談会に集まった官民の関係者は、1940年には第三国重視の貿易政策(同時に円ブロック向け貿易制限策)に対し批判的な意見を述べるようになり、英米依存よりも東亜自給の方が本来あるべき姿である、との共通認識が形成された
  • 転換を可能だとする根拠(pp.59-60)
    • 英米依存から東亜自給へと転換することが可能だとの判断の根拠には、大陸における長期建設の進捗があった
  • 大陸の工業化(p.60)
    • 長期建設をスムーズに進めるために、大陸を単なる資源供給地と位置づけるのではなく、ある程度の重工業化を推進すべし、との主張が見られた
  • 日本資本主義の矛盾と再生(p.60)
    • 日本資本主義の英米依存構造を鋭く見抜いた……からこそ、本来の国民経済は再生産が自律的に行われるべきである、との認識をもっていたはずである。40年以降の事態は、本来あるべき国民経済の再生産構造を構築する絶好の機会であった……太平洋戦争は無知や無謀の所産ではなく、同時代の最高の英知を傾注した結果である可能性は棄てきれない……「東亜共栄圏」への志向は日本帝国の経済社会に確実に定着していた……
第二章 輸出入リンク制による貿易振興策
  • 同時代の人々における生産力低位、外貨不足問題についての認識(p.72)
    • 「…日本の対外貿易には軽工業品、就中衣料品の輸出を以つて原料及び機械類の輸入を補完するという第一の使命が与えられ、いはゞ之によつて再生産過程が維持せられて来たのである。かくて日本の繊維工業の肥大性は劣性な重、化学工業の当然の要請とも云い得、外国貿易が基本的再生産構造と深く結び付いてゐる事は日本の特殊性を示すものに他ならぬ。……農村との関連に於ける低賃金機構の存在を武器に比較的劣位な技術的水準にて可能な繊維工業に進出し、その繊維工業の輸出によつて迂回的に重化学工業の原料品を獲得せねばならなかつたのである」(東亜経済懇談会『昭和十七年度東亜経済要覧』(1941)190〜191頁)
  • 商品別リンク制(p.73)
    • 輸入原料に依存して輸出商品を製造していた羊毛・綿業・人絹をはじめとするいくつかの輸出入品について第三国(ドル・ポンド圏)への製品輸出と原料輸入をリンクさせて、両者の拡大均衡を企図する商品別リンク制が実行された。
  • リンク制が吉野商相に始まったが、功績は池田蔵商相に帰せられる理由(p.83)
    • カルテル組織(大日本紡績連合会などの任意団体、中小工業者の工業組合、輸出商の輸出組合)による自治的統制の延長線上に団体リンク制を考案し実施した吉野商相に対し、個人リンク制導入に踏み切り、また個人求償制の延長線上にある綜合リンク制を導入しようとした池田蔵商相は、明らかに自由競争志向をもっていたと評価できる。
  • 輸出入リンク制の成果(pp.103-104)
    • 日中戦争期(=日中戦争段階、1937〜41)に外貨獲得を目的として行われた輸出入リンク制は、民間の支持を得ながら吉野商相期に始まり、池田蔵商相期に制度を確立させた。
    • 繊維原料を輸入すべき第三国も、繊維製品を輸出すべき第三国も、要するに英米圏であったがために、輸出入リンク制を維持・拡大している限りは、ある程度の対英米協調を維持する必要があった。この期間には、中国占領地、満洲国との円ブロック貿易は抑制され、大陸占領行政当局および経済界からは、その抑制の解除を求められ続けてきたが、あくまでも日本政府の基本路線は外貨獲得、第三国貿易重視であった。
    • 主要な商品別リンク制(綿業、羊毛、人絹)について輸出入リンク制の外貨獲得、輸出振興の効果を分析すると、恒常的に抱えていた綿業収支赤字、羊毛収支赤字が解消したことにより、外貨節約は顕著であること、輸出振興(=輸出額増大)も日中戦争前水準を上回る水準にまで到達していたことがわかった。
  • 輸出入リンク制の存在理由の消滅(p.104)
    • 日本政府は40年春のドイツのヨーロッパ制圧に眩惑され、「無主の地」南方への進出方針を固めていった。この年に英米との決裂を示すできごとは連続的に起きるが、経済政策全般にわたり影響が大きかったのは、同年9月の外交転換である(引用者註:9月27日の日独伊三国軍事同盟締結)。外貨獲得そのものが放棄されるにいたり、輸出入リンク制の存在理由もなくなってしまった。
第三章 戦争の長期化と長期建設
  • 第三国重視政策からアウタルキー構築政策への転換(p.110)
    • ……日満ブロック、あるいは日満支ブロックという用語は満洲事変以降に広く用いられており、東亜アウタルキー的な発想は根が深かった。しかし、日中戦争の開始後、日本政府・軍部は軍需物資、原料・エネルギー源確保のために第三国貿易が必要不可欠であることを深く認識するにいたったのであり、第三国貿易を事実上放棄する、という選択を行うためには、それ相応の理論的根拠と経済的見通しが必要だった……
  • 日中戦争の変化
    • 経済開発の必要性(p.111)
      • 日中戦争は、1937年12月の南京占領後、38年に入ると華北においては大きな会戦はみられなくなり、人々の関心は華北・華中占領地の経済開発に集まるようになった……
    • 戦争の性格(p.114)
      • 短期戦から長期戦に変わったことによって、戦争の時間的な長さが変わっただけではなく、戦争の性格が変わっていることが重要である。すなわち日中戦争は短期の武力戦として終わることができなかったことにより、長期の経済戦・経済建設へと姿を変えた、といえるのであり、当時の人々は戦争の性格の変化を認識したからこそ、長期戦と並んで長期建設という語を用いたのであった…
  • 1940年の外交転換(p.119)
    • 政府は1938〜39年にかけて第三国貿易重視策を実行していたが、その間においても貿易をめぐる二つの考え方は対立していた。一つは、英米圏をはじめとする第三国貿易を重視し、円ブロック貿易は抑制すべしという見解、すなわち政府見解である。これに対して、日満支ブロックを前面に掲げ、満洲国、中国占領地の経済開発を進め、円ブロック貿易を拡充することが、日中戦争の戦争目的にも適い、東亜の目指すべき道である、という見解が存在した。
    • 二つの考え方の相違が解消したのは、1940年である。同年春のドイツのヨーロッパ戦線制圧、フランス、オランダの降伏・占領を受け、従来日本が執ってきた欧州戦争「不介入政策」が「弾力化」し、「東亜に於ける自主的立場」が強調されるにいたった。これ以降、北部仏印進駐、日独伊三国同盟調印へと日本の外交政策は、対英米協調のわずかの可能性をも放棄し、枢軸陣営への参加に踏み切ることになる。「大東亜共栄圏」の語が7月26日、松岡洋右外相によって初めて用いられ、10月には企画院が立案した日満支経済建設要綱が作成される。9月ごろには、こうした外交路線上の一連の変化を政府は「外交転換」と呼ぶようになる。
  • 貿易路線の転換(p.125)
    • ……1940年半ばの外交転換と日満支経済建設要綱は、英米依存、第三国貿易重視の貿易路線を日満支ブロック、東亜アウタルキー構築へと転換するメルクマールをなすものだったのである。
  • 大東亜共栄圏をどのように開発するかの二つの路線(p.127)
    • ……42年においては、15年というスパンで、大東亜共栄圏内の各地を包含したさまざまな長期計画と国土計画が作成されたこと、企画院が、日本民族大東亜共栄圏内における配置の問題を重視して人口政策、国土計画を策定していくのに対して、商工省は、重要産業の統制会(=産業界)の意向を踏まえながら、より現実的で内地中心の共栄圏構想を抱き、両者が対立しながら「玉虫色」の文言で答申が作成された……
    • 日中戦争期の長期建設は、太平洋戦争期においても大東亜経済建設として、引き続き議論の対象となっており、そのなかでは大東亜共栄圏内分業、大東亜共栄圏内工業化を認めるか否かについての見解の対立も続いていたのである。
    • ……日中戦争期における大陸経済建設を長期建設、太平洋戦争期における大陸経済建設を経済建設と称し、区別するが、大陸経済建設それ自体は中国における日本軍占領地において継続して行われていたことに注目している……

第2部 華北における経済建設の実態

第一章 華北の石炭資源
  • 開発の自己目的的性格(pp.174-175)
    • 開発の自己目的的性格とは、炭種・規模・電化・機械化・輸送手段の有無がまったく異なる炭鉱をすべて同時進行的に開発しようとしたことに示されている。対日供給が見込めない山西省、蒙疆政権下の炭鉱でも新坑開発や電化が積極的に行われていた。42年までの生産量の伸びと44年にいたるもさほど生産量が減少しなかったことは各地での新坑開発(土法採掘も含む)に負うところが大きい。
    • これに対して内地では44年に樺太における主要炭鉱の閉鎖、九州炭鉱への労働者の大量配置転換という政策を実行しており、まさに重点主義を実践していたこととは対照的である。
  • 労働の暴力支配的「自由市場」的性格(p.175)
    • 労働の暴力支配的「自由市場」的性格とは、基本的に把頭制(請負制、間接管理)が採用され、労働者募集も把頭に委ねられたことに示されている。したがって炭鉱会社は労働移動に悩まされ続けた上、把頭による暴力的な募集(連行)、採炭労働支配が行われたため、後に万人坑ができることにもつながった。
    • これに対して内地では直轄制に移行した上に、戦時期には労働移動を防止するために朝鮮人(一部中国人)強制連行を実施したことにみられるように、政府による戦時労務動員が厳格に行われていた。
  • 資材の自給自足的性格(p.175)
    • 資材の自給自足的性格とは、高度な機械や油類が内地から供給されなかったことは当然だが、燃料としての石炭、あまり適さないが杭木など自前で調達し生産を支えたことに示されている。また、必要最低限の道具類−鍬、ツルハシ、ペンチ、モッコ、縄、火薬などは把頭の負担(調達方法はよくわからないが)であった。手掘りを基本とする技術水準が、最低限の資材での採炭をかろうじて可能にしていたと評価できるだろう。
  • 経済的成果を度外視した開発(p.175)
    • 炭鉱会社や日本側諸機関の開発への熱意は失われなかったが、開発による経済的成果はさまざまな条件により制約されていた。しかし、経済的成果を度外視して開発を続けることが日中戦争経済史を貫く一つの特質である……
第二章 華北の鉄資源と現地製鉄問題
  • 鉄鉱石〜長期建設のなかで中国・華北に期待された資源〜(pp.210-211)
    • 華北鉄鉱石の最も重要な用途は現地製鉄の原料であった。
    • 現地製鉄は、その計画の立案段階において、日本内地鉄鋼資本の思惑と中国占領地当局の思惑が食い違い、さらに中国占領地当局においても華北と蒙疆の対立がみられ成案を得るまでに時間がかかっている。
    • 太平洋戦争期のきわめて短い期間ではあるが、華北における銑鉄生産高は急速な増加を示した。長期建設のかけ声の一方で、華北の重化学工業化については、決断が遅かったことが指摘できる。
    • 結果として現地製鉄構想は失敗に終わったという評価は変わらないが、着想それ自体は合理性をもつものであった……
第三章 綿花生産と流通
  • 綿花作付と食糧農産物作付との競合(p.244)
    • 農林資源たる綿花は、日中戦争下の華北において農民を掌握する目的であり、製品たる綿布は農民を掌握するための手段であった。しかし、華北の農業経営という観点からみるならば、綿花作付と食糧農産物作付との競合(後者への移行)、綿花生産の経営収支悪化が進行していた。華北農民が、食糧農産物を中心とする自給農業に回帰してしまうことを日本側は最も恐れていた。綿花を増産するためには食糧農産物も安定的に生産され供給されなければならなかったわけで、換言するならば、華北農業の復興と日中戦争以前にも増した綿花商品生産の発展が華北占領行政の課題であった……
  • 占領行政の中心課題(pp.244-245)
    • ……農林資源の確保が、日中戦争における占領行政の中心課題であったことが理解できる。そもそも満洲国も中国も人口の大半を農民が占める農業社会であった。満州事変および日中戦争により本国の数倍に当たる広大な農業社会、膨大な農民を支配下に置いた日本帝国は、これまで経験したことのないようなスケールの新たな農業の問題を突きつけられることとなった……
第四章 華北農村掌握と農業政策
  • これまでの日中戦争史研究で注目されてこなかった占領行政の課題(p.250)
    • 日中戦争により日本は広大な農村地帯、膨大な農民支配という課題を負ったために、占領地行政のなかで農業政策・農民政策はきわめて大きな位置を占めていた……
  • 農産物増産(pp.274-275)
    • ……綿花増産と食糧不足の矛盾を日本側も問題視し、綿花増産とともに小麦などの食糧作物増産を政策目標としていた……、しかし、日本側は供出や配給を計画的に行うほどには農村を掌握していなかった……
  • 華北農民の換金志向(p.275)
    • ……華北農民の換金志向は意外に強い……、食糧を購入するためにも兼業をも含めた現金収入が必要であった……村内の農外=農業労働者の存在も、雇用する側(おそらく専農)から見ると、賃金支払いのための現金需要をもたらすものとなっていただろう。華北農村は、日本の農村以上に現金需要=換金作物志向が強かった可能性がある。
    • 日中戦争下(太平洋戦争期)にいたっても農村の商品生産志向・現金志向・食糧購入志向は根強いものがあった。日本側による華北農村支配は、華北農村市場(これは県単位あるいは村単位に存在しているものと思われる)を掌握することを不可避としていた。華北特有の農業問題の焦点は、農業生産の再建・維持(水害・旱害の克服)に加えて、農家・農民の現金需要をいかに満たすか、という点にあった……
終章 大陸経済建設の帰結
  • 大陸経済建設の最期の姿(p.285)
    • ……大陸経済建設の目的は、すべて転換し、大陸の資源・物資は現地で消費するほかなかったのである。英米依存からの脱却をはかり、日満支を中心とする東亜共栄圏構築にたどり着いた後に45年段階には日満支の日が脱落し「大陸資源依存からの脱却」が叫ばれ、対日依存が不可能となった大陸側では大陸自給体制となった。これが大陸経済建設の最後の姿であった。
  • 総力戦体制と戦後への影響(p.285)
    • 日中戦争と大陸経済建設というテーマを追求した結果、軍人・兵士よりも非軍人・非兵士(文民あるいは民間人)の役割がきわめて大きかったといえるのであり、これこそが総力戦の特質を示している……
    • 日中戦争は典型的な総力戦であり、国民(日本帝国臣民)はさまざまな形態で戦争に参加したのである。日中戦争という国民的体験は、戦後の日本社会の再建にも影響を与えたはずである。具体的には、大陸経済建設が戦後中国経済および戦後日本経済に与えた影響を検討する必要がある。