小林英夫『<満洲>の歴史』(講談社現代新書、2008)

  • この本の趣旨
    • 日本人の視点を意識した中国東北史を記述すること(p.4)
    • 日本人の目から見た日中関係史の一翼を担う中国東北史の発展過程と、そこに関わった日本の夢と現実の考察(p.6)
  • 17世紀における満洲
    • 満洲ヌルハチに起源をもつ清朝発祥の地として、満洲旗人の地を保全する考えから、何人も立ち入ることができない風禁の地であった。ところが清朝が北京を都に定め全中国の統治をしはじめると、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満洲の空洞化現象が生じはじめた。これを防ぐために清朝は1644年に「土地分給案及開墾補助策」を、49年には「移住民の保甲編入、荒地開墾所有許可令」、53年には「遼東招民開墾例」などの一連の遼東招民開墾政策を実施し、漢人の東北移民を促進した。漢人の東北移民は急速に進行し、開墾奨励策は1668年に停止されたものの、漢人の移民の勢いは止まらず、その後も自主的な移民が進められ1900年頃には東北の漢人の人口は推定1700万人近くに達したのである(『満洲近代史』)(p.17)
  • 世界経済に組み込まれる満洲
    • 1860年、天津条約に基づいて牛荘(営口)が開港されることで、満洲は世界経済の一環に包摂されることとなった。営口で取引をされたのは満洲特産の大豆三品(大豆、大豆油、大豆粕)で、この輸出入を通じて営口は賑わい、過炉銀が流通することとなる。満洲特産大豆が世界商品になる過程は、同時にまた営口が栄え、漢人満洲開拓が急速に促進される過程でもあった(p.19)
  • ロシアの満洲経営
    • ロシアの鉄道中心の満洲経営は、1895年の三国干渉で遼東半島を租借すると、北のハルビンと南の大連を二大拠点に東支鉄道で両都市を結ぶ戦略として具体化される。98年、旅順は軍港として、大連は商業港としての位置づけが与えられて租借条約が締結されると、ロシアは膨大な資金を投入して、両都市の建設に邁進した(p.26)
  • 満鉄の性格
    • …満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術といった広い意味での「文事的施設」を駆使した植民地統治を行う会社として位置づけられていたのである。満鉄が創業当初から調査部をおいて調査活動を重視したゆえんである(pp.38-39)
  • 張作霖・張学良の歴史的意義
    • 1910年代の第一次世界大戦を前後する時期に東アジアは激動の時期を迎え、かつそのなかから新しい指導者が姿を見せる。それ以前の帝政を支えてきた政治家たちは次第にその影を失い、新しい発想を持った政治指導者が東アジアに登場する。中国東北では、奉天軍閥の雄、張作霖であり、その後継者の張学良である。彼らは、一面で軍閥という古い殻をまといつつも、近代化という新しい装いも整えて東北政治の主役となっていく。この変化を認識することなく、軍閥の古いイメージで満洲をみることは、大きな誤謬であった(p.56)
  • 張作霖爆殺事件
    • 張作霖を暗殺したのが河本大作指揮する関東軍部隊だったことは、よく知られた事実である。蔣介石率いる国民革命軍の影響が張作霖の撤退とともに東北に及ぶのを恐れた関東軍の一部の将校は、張作霖の爆殺を契機に東北の直接軍事占領をたくらんだのである。爆破のスイッチを押したのは独立守備隊中隊長だった東宮鉄男大尉。彼は満洲移民を推進した「満洲移民の父」とも称された人物だが、後に日中戦争に従軍、浙江省平湖県での戦闘で戦死することになる。(p.61)
  • 明治期の藩閥支配の時代から1920年代の政党政治の時代への移行と満鉄
    • …満鉄のほうはといえば、1927年の田中義一政友会内閣の成立にともない、同年7月には、満鉄社長に「満鉄中興の祖」と称された政友会の山本条太郎が、副社長には松岡洋右が就任した……政友会としての幹事長として山本は「産業立国案」を掲げて、人口問題、食糧問題、金融恐慌、失業問題の解決を主張し、そのため「満蒙分離」を前提に、鉄道網の拡充による満洲開発の促進を強調した。また満洲を農業、鉱工業および移民を受け入れる地とするために満鉄を活用する方針をとり、「大満鉄主義」、「満鉄第一主義」を掲げ、権力の集中化を図ったのである。この方針を実現するため、山本は自ら満鉄社長となり、腹心の松岡を副社長に据えて満鉄経営に乗り出した。(pp.79-80)
  • 石原莞爾の「世界最終戦論」と満洲
    • …石原は未来戦争を予測する。むろん予測の根拠に、滞在していたヨーロッパでの第一次世界大戦の総力戦が生んだ傷跡や人々の体験が潜んでいたことはいうまでもない。将来必ず、一都市を一挙に破壊する殲滅兵器と、地球上のいずれの地域にもそれを運搬し得る航空機が出現するはずである。こうした兵器の出現は、戦争の性格を持久戦争から決戦戦争へと変えるし、究極にはそれが最終戦争となる。
    • では、最終戦争は、いつどこで起こるのか。石原によれば、その時期は釈尊の入滅後2500年が経過した後の2015年から2020年初頭で、場所は太平洋を隔てた両地域、具体的には日本を中心とした東亜国家群とアメリカを中心とした米州国家群との間で起こるはずである――。
    • この石原の世界最終戦論から導かれる施策は、一つに東亜の連携であり、二つにはそれに備える日満一体の決戦戦争体制の構築である。そのために長城線以南の関内は中国人の土地ととして彼らとは連携するが、満洲は、日・朝・満・蒙の共有地として中国から分離・奪取して日本の領土とするというのが石原構想の基本だった。そして前者は東亜連盟として結実し、後者は満洲事変から満洲国の建国として具体化されていく。(pp.88-89)
  • 石原莞爾の思想転換 満蒙占領から満蒙独立へ
    • 満洲事変推進に重要な役割を演じた関東軍参謀の石原莞爾の構想によれば、彼は当初、満洲直接占領を考えていた。しかし事変勃発直後の9月22日、石原を含む関東軍参謀の会談で結成された「満蒙問題解決策案」では、直接軍事占領構想は後景に退き、「宣統帝を頭首とする支那政権」樹立構想を打ち出し、吉林に煕洽、洮索に張海鵬、熱河に湯玉麟、東辺道に于芷山、ハルビンに張景恵を擁立する方針へと転換していった……
    • 「日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、更にその政治能力を見るに於いて」「昭和6(1931)年の暮れに、それ迄頑強な迄に主張し続けて居た満蒙占領論から完全に転向し」「満蒙独立論」に変わったと石原自身は述べている(『現代史資料』11・「続・満州事変」)。内外情勢を考慮して判断したことだろうが、本音に近い述懐だと思われる。彼は満洲での漢民族の力を再認識したともいえる。(p.95)
  • 満洲国における関東軍の統治
    • 関東軍は32年10月に……秘密協定で、満洲国国防費、治安維持費は満洲国が負担すること、満洲国の鉄道その他の社会施設は日本が管理すること、日本軍が必要とする各種施設は満洲国が援助すること、官吏に日本人を採用し、その選任は関東軍司令官の推薦に委ねることを決定し、これが同年9月15日の日満議定書で再確認された。これにより関東軍満洲国への「内面指導」が確定されたわけで、重要政策は、関東軍参謀本部第三課(後に第四課)を通じて総務庁に伝えられ、ここで政策化されていった。
    • 総務庁で決定されたことは、国務院会議、参議府会議を経て皇帝に諮詢され、公布されていった。したがって国務総理の参謀的役割である総務庁は決定的に重要で、国務総理が形式的な最高責任者なら総務長官は、関東軍の窓口となる立案の満洲国サイドの最高決定権者で、国政の全権を掌握していたのである。(p.106)
  • 集団部落政策による匪民分離工作
    • …抗日運動の組織化のなかで、関東軍はどんな対抗策を考えたのであろうか。その「切り札」として登場したのが、集団部落政策だった。集団部落政策を一言でいえば、治安維持が困難な地域にある村落を撤去して治安維持上有利な地域に住民を移動させ、匪民分離工作を実施し、抗日勢力と一般民衆との連携を絶って治安維持を図っていく政策である。これによって従来の自然発生的な屯に代わって、新たに日満軍警が治安維持を目的に人為的に屯を作り出す点に政策の眼目が置かれていた。抗日勢力の活動は、屯そのものを基盤としていたわけではないが、農会、商会や治安が安定していると称された地区の甲長から物質的援助を受けていた。日満軍警はこれを「通匪行為」と呼んでいたわけだから、集団部落政策によってそれが禁止されれば、抗日勢力の活動は著しい困難に直面したのである。
    • 集団部落政策は、1936年4月までに、吉林省・興安南省・間島省を中心に1358部落が作られた(『満蒙共産匪の研究』第二輯)。いずれもが、抗日活動が活発な地域だったことは改めて指摘するまでもない。この「匪民分離工作」は、戦後イギリス軍によるマラヤ共産党対策に、アメリカによるベトナム戦争での「戦略村構想」に引き継がれていった。そして満洲での集団部落政策が抗日勢力に与えた打撃は大きいものがあったといわれる。1940年2月に日本軍の討伐の前に包囲された抗日連軍第一の指導者だった楊靖宇は射殺されている。(p.119)
  • 満洲国改造の夢−強力な近代工業・農業国家への変貌
    • 皇室を通じた日満一体化とともに1935年以降、満洲国は、日満一体での重工業化と日本農民の満蒙移民という二大国策で、強力な近代工業・農業国家への変貌の道を模索しはじめる。この二つの国策は、いずれも日本側の強い要望とヘゲモニーのもとで推進されたもので、関東軍満洲国、満鉄といった満洲側の機関と日本の各省庁や合作物にほかならなかった。
    • 前者は、「満洲産業開発五カ年計画」として36年末には政策化され実施に移されていくし、後者は同じく36年には「20カ年100万戸移住計画」としてこれまた政策化されていった。この政策が成功裡に展開されれば、満洲は遠からずして重工業基地・農業生産基地となり、国境警備は、近代化した兵器を具備した日本人移民の強固な「人間トーチカ(要塞)」に任されるはずであった。
    • むろん、この計画が推進される背後には前者の工業化政策にあっては日本から満洲への繊維製品や重工業機器など軽重工業製品の間断ない供給が必要であり、逆に満洲での鉄鉱石や石炭などの工業原料の大増産が不可欠だった。またそのために、満洲で不足しがちな労働力を補填するには、華北地域からの短期季節移民労働者の導入が必要だった。そして後者の満蒙移民政策推進にあっては、広大な日本人移民地の確保が前提となっていた。しかも日本人移民者は、在地の中国人との競争に打ち勝つだけの技術力や資金力を持つことが求められていたのである。(p.133)
  • ノモンハン事件第二次世界大戦の勃発
    • 日中戦争の拡大が関東軍のソ満国境警備に支障をきたすことは、かねてより危惧されていたが、それを現実化させる動きが1939年5月発生した。ノモンハン事件がそれである……8月20日、指揮官ジューコフが率いるソ蒙軍が総攻撃に出た。強力な重装備の装甲師団に加え、日本に倍する兵力を擁したソ連軍は、突撃と火炎瓶だけで有力な対戦車兵器を持たない日本軍の主力23師団、第7師団に壊滅的打撃を与えて駆逐した。この直後の8月23日、独ソ不可侵条約が締結された。この3年前の36年11月、日本はコミンテルンに対して相互防衛措置の協議を決定し、秘密付属協定でソ連との協定不締結を謳った日独防共協定を締結していたが、このドイツの協定違反行為を前に、28日、平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」の言を残して総辞職した。9月1日、ドイツ軍がポーランドに進行を開始することで第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍は西から、ソ連軍は東から、ポーランドを攻撃した。そんななか、ノモンハンでは9月15日、日本軍はソ連軍が認める国境線で矛をおさめる停戦協定に合意したが、それはドイツ軍によるワルシャワ占領の二週間前だった。(pp.140-142)
  • 日ソ中立条約と関東軍特殊演習
    • 1941年6月、突如としてドイツ軍はロシア国境線を突破してソ連領に侵攻した……他方、松岡洋右外相は、ドイツのソ連攻撃が始まる二カ月前の4月、日ソ中立条約に調印した。折から泥沼化していた日中戦争の解決策を南進に求めて、前年9月、日本軍は北部仏印進駐を強行し、その4日後に日独伊三国同盟を締結する。これに対しアメリカが日本重工業の死活物資であるくず鉄の禁輸を実施、さらに日米交渉を提唱するなかで、松岡は南進と対米交渉を有利に進めるべく日ソ中立条約を締結したのである。
    • その後、フランスがドイツに降伏した41年6月、日本軍は南部仏印進駐を実施、7月はじめに御前会議で対英米戦争準備と対ソ戦準備を盛り込んだ「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を策定する。ドイツ軍がソ連軍を破って破竹の進撃を続けているなかで、関東軍は70万人の兵力を動員しソ満国境を圧迫する関東軍特殊演習(関特演)を実施した。
    • しかし、10月以降のドイツ軍のモスクワ攻撃は、12月初めに挫折する。日本もまた北進を断念し、南方へと矛先を変えて兵力を南方へ転用していくこととなる。しかし西からのドイツ軍の攻撃に呼応して東からシベリアへ関東軍が攻め入る可能性を秘めたこの関特演がソ連に与えた脅威は相当のものがあった……(pp.146-147)
  • 「日満一体化」
    • 満洲国国家改造計画…は工・農両部門で時期を同じくして展開された。一つは「満洲産業開発五カ年計画」であり、いま一つは満洲移民計画だった。これらの計画は、それぞれが異なる立案機関をもって展開されたが、究極の目的は「日満一体化」であり、それは満洲の国家改造を通じた「日本化」の夢の実現にほかならなかった。しかしこの夢は、日本そのものをとりまく環境の変化と、満洲の大地に根をおろす中国農民のパワーの前に、破綻を余儀なくされていく。(p.164)
  • 満洲経済統制策」
    • 宮崎正義…が32年6月に立案した「満洲経済統制策」…は、無秩序な資本主義システムが恐慌を生み出したという現実から出発し、満洲経済建設に関しては、統制の必要性を強調した。ただしその統制の方法は、ソ連のように国営企業一色で行うのではなく、そうした国営分野と並んで私企業を法的に規制する形で統制を実施する分野、自由競争に委ねる分野を分けるべきだとしたのである。(p.165)
  • 「昭和十二年度以降五年間帝国歳入及歳出計画(付、緊急実施国策大綱)」
    • …宮崎たちは…36年8月に「昭和十二年度以降五年間帝国歳入及歳出計画(付、緊急実施国策大綱)」を完成させている…五年間の歳入と歳出を予測した上での日本の改造計画書だった。そのポイントは、いかに効率よく国家予算を重工業に投入し得るかというものであり、そのための「緊急実施国策大綱」では、行政機構の抜本的改革(いわゆる行革)、陸海軍の協調、輸出産業の拡大・発展、産業別統制政策の実現を謳っていた…(p.169)
  • 満洲産業開発五カ年計画」の準備と帰結
    • …林内閣は37年2月スタートした。日中戦争勃発半年前のことだった。2月以降宮崎らは5月に「日満軍需工業拡充計画」「重要産業五カ年計画要綱」を、6月には「重要産業五カ年計画要綱実施二関スル政策大綱案」「重要産業五カ年計画要綱説明資料」をやつぎばやに作成、陸軍省案として「重要産業五カ年計画要綱」を作成した。満洲では「満洲産業開発五カ年計画」が、日本では「重要産業五カ年計画」が準備されたのである。
    • 計画は順調に進んだかに見えた。しかし7月に勃発した日中の衝突は、またたくまに日中全面戦争に拡大すると、宮崎たちのプランの前途には暗雲が漂いはじめた…日満の五カ年計画成功の前提は、向こう10年間大規模な戦争は避けるということだった。しかし現実には37年7月の日中衝突は、石原たちの努力も空しく日中戦争となり、短期に終了させるという努力は水泡に帰して長期持久戦の様相を呈しはじめたのである…戦線の拡大で宮崎らが作成した「重要産業五カ年計画」「満洲産業開発五カ年計画」は大きな影響を受けた。平和を前提とした国力増強計画は後方に追いやられ、当面の戦時における物資調達が重要課題として前面に登場した。名称も「重要産業五カ年計画」は「生産力拡充計画」へ、「満洲産業開発五カ年計画」は「修正五カ年計画」と変更され、10月、資源局と企画庁が合体して作られた企画院が立案する物資動員計画の下で物資調達の一環として計画が推進された…
    • 日満一体化は、日本産業への原料・中間財供給基地としての性格を強めながら進められた。それは計画が修正されると同時に、鉄鋼、鋼塊、石炭、揮発油、重油などの中間財や原料の対日供給量が設定され義務付けられたなかにも表れていた。満州そのものを重工業化するよりは日本経済の一部に組み込む構想が、いっそう進行した…(pp.174-176)
  • 二キ三スケ
    • 一方に経営不振のなかで満洲国に活路を見出さんとする日産があり、他方に満鉄に代わる重工業関連付属事業の経営主体を探していた関東軍がある。この両者を具体的に結び付けるのに先鞭を付けたのは、満洲国官僚で総務庁長官の星野直樹であり、それを実現させたのは、同じ総務庁で次長だった岸信介だった。岸は極秘で日満をひんぱんに行き来して折衝を繰り返し、日産の満洲移住を完成させたのである。
    • 当時満洲の実力者を表す「二キ三スケ」という言葉が流行った。「二キ」とは時の関東軍司令官の東条英機満洲国総務長官の星野直樹、「三スケ」とは満鉄総裁の松岡洋右、日産社長の鮎川義介満洲総務庁次長の岸信介である。このなかで松岡と岸は叔父甥の関係で、松岡、岸と鮎川は遠縁に当たる。三人とも同じ山口県出身である。簡単にいえば、岸を仲介に松岡の満鉄を鮎川の日産が買うという話である……(pp.179-180)
  • 満洲農業移民不可能論」
    • …1930年代初頭までは、「満洲農業移民不可能論」が一般的な常識であった…これを理論的に整理したのが矢内原忠雄だった。彼は、『満洲問題』(1934年)のなかで、満洲移民問題を取り上げ、満洲農業移民の成否の鍵は「経済的条件」いかんにあるとした。彼は、「自給自足的経営」を行えば、満洲移民は成功すると主張する「満洲農業移民可能論」に対して、「農家は自給自足的と言っても、貨幣経済を無視して一切の商品に就き自給自足の原則を固執する如きは勿論不可能である」と述べ、貨幣経済を前提とした場合、生活水準が高い日本人農業移民が生産する農産物の生産価格は、それより相対的に低い在満中国人農民のそれと市場で競合することはできない、したがって高度の技術と膨大な資本投下なくして、満洲農業移民を実施しても成功しない、と論じ、「不可能論」を展開したのである。(pp.186-187)
  • 開拓団の農業技術
    • 入植者が当初から採用した農法は、犂丈による高畦農法という満洲在来農法だった…この農法を採用すると、中耕、除草、刈取過程で能率的な畜力改良農具の使用が困難となり、特に除草に多大な労働力が必要となり、労賃支出が増加する可能性があった…在来農法模倣がもたらした影響は大きかった。第一に移民団は、満洲農家と真っ向から競争する関係に入ったことである…満洲農家と競争することはきわめて困難であった。第二は、この農法を使うには大量の雇農と家畜の使用が前提となる…移民団もこの理想を追求せざるを得なかったので…その追求は、自作農主義の否定となり、さらに労賃部分の増加は自給自足主義の否定となり、さらには移民団員間の競争を生むなかで共同経営主義の原則をも破壊していくこととなる。(pp.197-198)
  • 農業経営難と脱農、小作化
    • 移民団の営農技術水準が低位にとどまるかぎり、また在来北満農業技術を踏襲するかぎり、移民団が大量の雇農を使用せざるを得なくなるのは避けられなかった。試験移民期にすでに部分的に見られたこの現象は本格的移民期に入るとより拡大し、より一般化したのである……経営の困難度の上昇は、彼らに脱農による農業外収入の追求と、移民団内での小作関係の形成を促進することとなる…(pp.204-206)
  • 北海道農法の導入と失敗
    • 気候や風土が類似していた北海道の農法を北満に移植させるという動きは、1939年頃から徐々に具体化しはじめていた。1940年段階に入ると北海道農法を用いた開拓農場実験場が北満各地に設立され、その普及活動が展開された(『満洲開拓史』『満洲開拓と北海道農法』)……しかし、こうした成果は北海道農法に習熟した農家であればこそ可能だったことで、北海道入植の新人でこれに慣れるには約二年の年月を必要としたと言われるのに、牛馬さえ十分に使いこなせない開拓民にとっては、よりいっそうの時間が必要であったであろう……北海道農法の普及や改良の遅れは、結局耕地面積の減少を生み出していった。(pp.206-207)
  • 開拓団の人員不足と青少年義勇軍
    • …39年11月には、満洲移民政策の「最高の宝典」と称された「満洲開拓政策基本要綱」が決定された。「基本要綱」では「未利用地開発」の考え方をとり、満洲国政府の開拓総局が中心になって移民用地の取得を行い「満蒙開拓青少年義勇軍」を活用するしていた。日中戦争の拡大とともに軍需景気が農村にも広がり、「農村経済更生運動」と連動した満洲移民政策は後景に退き、移民団の補充が必要なとき、未来の「開拓戦士」としての青少年の重要性が浮き上がったのである。こうして、38年から「満蒙開拓青少年義勇軍」の満洲送出が開始される。(p.201)
  • 移民計画の達成実績
    • 1932年から42年までの累積実行計画移民戸数は9万8767戸、それに対する実績は5万6998戸で、達成率は57.7%であった。もっともその中身を見ると、一般開拓団の比率は下がり、義勇軍開拓団の比率が上昇を続け、農民というよりは青少年により国策は維持されてきたのである(『近代民衆の記録』6満洲移民)(p.208)
  • 五族協和
    • 満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族住み分けていた、というのが実情に近かった。(p.210)
  • 中国人官吏養成課程
    • 満洲国の官吏養成課程が整備されるにともない、次第にその養成課程から選出された官吏が要職を占めはじめた。建国当初は日本留学組が要職を占めていたが、やがて建国大学や大同学院出身者が、県長から満洲中央政府の処長、科長、次長へと昇格を開始し、敗戦直前では、中央政府の次長クラスへと昇格したものが現れはじめた。日本の大学を卒業し、帰国して中央政府入りを果たし、出世街道を進みはじめるものも現れはじめた。(p.229)
  • 満洲国と戦後の連続性1 農業移民編
    • 海外からの引揚者は…日本で開拓地に入るか、南米移民に再度出るというケースも希ではなかった。この満洲移民と南米開拓移民の連鎖は、これを推進した日本海外協会連合会幹部の顔ぶれを見るといっそう鮮明になる。幹部には満蒙開拓を担当した元満洲拓殖公社総裁坪上貞二、元力行会会長で戦前南米移民や満蒙移民に携わった永田稠、元東京大学教授、農学者で満洲移民政策の立案にかかわった小平権一の名前が挙がっており、移民政策の戦前と戦後の連続した人脈がうかがい知れる。(pp.252-253)
  • 満洲国と戦後の連続性2 統制経済
    • …移民政策の戦前と戦後の連続同様、戦前の満洲での五カ年計画は、戦中そして戦後の高度経済成長政策に人的に連動していく。満洲で五カ年計画を担当したのは総務庁次長の岸信介であり、その部下の産業部の椎名悦三郎らであった。彼らは1940年代に入ると星野直樹らを筆頭に岸、椎名を含めて日本国内に帰還し、近衛内閣のもとで自由経済を主張する小林一三商工大臣らと対立しつつ統制経済を推進し、東條内閣のもとで岸は商工大臣、星野は内閣書記官長として官僚主導の高度経済成長を推進することとなる。満洲での産業開発五カ年計画は、日本では企画院主導の物資動員計画として、統制経済が組み立てられていくこととなる。
    • 敗戦後、日本は戦後復興に着手するが、そのとき採用した方策が、経済安定本部(安本)を中心とした傾斜生産方式だった。これは46年11月の第一次吉田内閣のもとで採用された政策で、アメリカからの援助で獲得した重油と無煙炭を鉄鋼業に重点的に投入し、そこで生産された鉄鋼材を石炭産業に集中的に投入し、さらなる石炭の増産を図る。再び増産された石炭を鉄鋼業に投入する。これを繰り返すことで鉄鋼と石炭の拡大再生産を図る。一定の段階に達したら石炭と鉄鋼を他の部門に回し、全体的な産業復興を図るというものであった。その材の配分の中心にいたのが安本だった。
    • これは戦前の満洲国での総務庁中心の五カ年計画と、戦時中の日本での企画院中心の物動計画と、なんら変わるものではなかったということである。しかも、戦後満洲から引揚げてきた満鉄や満州国の多くの統制経済担当者が、安本職員として活動した。後に野村総研の社長、会長となる佐伯喜一、第二次大平内閣の79年に通産大臣となった佐々木義武や山中四郎、吉植悟など、いずれも満鉄調査部出身だった。
    • この官僚主導で金融、物流、生産を重点部門に集中し、経済を活性化させる「日本型生産システム」ともいうべきものは、1957年に岸が総理大臣に、60年に椎名が池田内閣の通産大臣に就任するに及んで高度経済成長策として本格的に開花する。
    • 満洲で戦前高度経済成長を担った岸信介椎名悦三郎らは、1940年代初頭に満洲から日本に戻り、日本での戦時高度成長を主導する。そして戦後は戦犯容疑と公職追放で一時政財界から離れるが、サンフランシスコ講和条約以降は役職に復帰し、再び日本の政治経済を指導し、高度成長に重要な役割を担うこととなる。
    • 典型は岸信介である。彼は戦犯容疑、公職追放を経て52年から政界に復帰して、55年の保守合同をリードし、自由民主党幹事長を経て、外相、57年以降は総理として日本の高度成長を指導することとなる。椎名悦三郎も岸を補佐して政界に復帰し、60年以降は通商産業省にあって戦後の産業育成政策の責任者となるのである。ここにも農業移民政策同様工業政策の日満の連続性を見ることができる。