- 「開拓」とは何か
- しばしば北海道開拓のように「未開の原野を開拓した」というイメージで語られることもあるが、中国における「満洲開拓」の実態を知れば知るほど、「開拓」に文字がいかに空虚なものであったのかを実感することができる……中国において農民が耕作している既墾地を強制的に買収した(p.3)
- 本書の目的
- 「開拓」の名の下に、中国東北地方では何が起きていたのか?このことを明らかにする(p.3)
- 北海道と「満洲開拓」との関わりを明らかにする(p.4)
- 残留帰国者および養父母の姿を正しく認識し、現在直面している問題を明らかにし、その解決に少しでも資すること(p.4)
白木沢旭児「満洲拓殖公社の事業展開」(pp.35-64)
- 本稿の趣旨
- なぜ、満拓は短時日のうちに巨大な面積を確保することが可能だったのか、という問題について、満拓の資金調達および土地取得の具体的な活動の分析を通して実態を明らかにすることを課題としている。(p.35)
- 満洲拓殖公社の資金調達
- 土地買収の方法
- 本稿の結論
- …満拓の急成長を支えたのは、内地の遊休資本であること、満拓の現地における土地買収事業は、既墾地・熟地を狙っていることに特徴があり、満拓小作人になることをも含めて、中国人農民の生活向上、経済的上昇だと考えられていたことを明らかにした。しかし、自作農よりも小作農の方が経済的に有利だという理論は、中国人には通じなかったであろうし、論理的破綻も見せていた。また、実際の満拓および開拓総局による土地買収の過程は実に多様であった……(p.61)
白木沢旭児「満洲開拓における北海道農業の役割」(pp.65-88)
- 本稿の趣旨
- 農業労働者の雇用と開拓民の地主化
- 開拓民が農業技術をほとんど持たない……農業経験も乏しく、技術も持たない開拓民は、畑作を行うに際して、近隣の中国人農家のやり方を見よう見まねで模倣するしかなかった。結果として、満洲在来農法が開拓団員のなかに普及していたのである。在来農法を身につけて自作ができたものはまだよかった。在来農法では除草労働などに多数の日工を雇うことを余儀なくされたが、日本人開拓民の経営管理の下に農業労働者を雇用するのは、当初、満洲開拓政策が意図した家族経営には合致しないものの、自作には違いなかった。ところが、経営そのものを中国人に委ねる貸付(小作に出す)も広範に行われていた…これが…開拓民の地主化という現象である。(pp.68-69)
- 開拓団は開墾してない
- …開拓団の作付面積となる以前は、その土地はどのような状態だったのだろうか。満洲開拓で土地買収を行ったのは満洲拓殖公社と満洲国開拓総局である。両者は1941年末頃には満洲国全土で約2000万ヘクタールの土地(このうち既墾地は351万ヘクタール)を獲得(買収)していた。このなかから開拓団が入植する場所が決まると、順次開拓団に分譲され、開拓団は順次開拓民に分譲する。既墾地の場合、開拓団が入植するまでの間、満洲開拓公社が地元の中国人に小作させるケースが多かった。したがって開拓団の作付面積が増えたのは、満拓小作地→開拓団所有地に変わったからである。非耕地が耕地になった(開墾)したわけではないことを確認しておきたい。(pp.75-76)
- 増産か開発か
- …42年頃からの増産に重きを置く政策(これを本稿では「増産至上主義」と呼ぶことにする)…従来の満洲開拓政策(これを「開発第一主義」とよぶことにしよう)とはどのよな違いがあったのだろうか…内藤技正は…従来の満洲開拓政策を増産至上主義の線で是正することを次のように説明していた。「第一は開拓民の労働の強化或は農法の改善によつて…増産を強行していくこと」、第二に、「補充植民の確保」に努め、補充された開拓民の労力を増産に振り向けること。この二点は、開拓民による増産という方策である。そして第三には「従来は開拓そのものに重きを置いて来たため」与えられた面積が過大であっても「労力の雇傭は極力避ける方針」であったが「来年度辺りからは或程度雇傭労力を使用しても増産を行ふ」という方針である。そして、労力雇傭の見込みがないときは「止むを得ませんから団内の余剰面積は之を団内の原住民に耕作せしめて増産に協力せしむる」こと、これが第四の方策であり、「第五には、団内に相当の余剰面積がある場合には団外から或程度の集団原住民を移住せしめ増産に協力せしめる」というのである。従来の北海道農法導入過程の議論からするならば、雇傭労力および貸付(小作に出すこと)をも許容した根本的な方針転換なのである。内藤の説明した増産方策の第一、第二までは従来の開拓政策の延長であったが、第三以降は従来好ましくない、と言われてきたことを推奨するものであった(pp.77-78)
- 「原住在満」の扱いの変化
- 日本人開拓団による家族労作経営、自作経営を第一義とする開発第一主義においては、「原住満農」は不必要な存在であり、強制移住の方策もとられていた。ところが、増産至上主義のもとでは「原住満濃」こそが基幹労働力であり、日本人開拓団の作付面積=収穫面積となるか否かは彼らの働きにかかっていた、と言っても過言ではない。(p.80)
- 満洲農民の捉え方の変化
- 満洲の多様な農業労働者に対して農業労働者という単一の集団として認識するのは不十分であるならば、すべて苦力と表現することも間違いである。『満洲在来農法ニ関スル研究』では、村落の住民構成にも目が向けられ、満洲農村には農家(農業経営者)世帯と農業労働者世帯が存在すること、農家(農業経営者)は、とりわけ中農層以上であれば労働台帳を作成し、多数のしかも職分・職能が異なる労働者を最も能率的に組織・編成し使用していることを明らかにした。もはや、農家(農業経営者)は、ヨーロッパ大農場制の農場主のような位置づけで見られていたのである。ここにおいて、地主と苦力から成る満洲農村というイメージは、見事に塗り替えられている(p.82)
- 北海道農法普及の限界