長岡新吉「北大における満蒙研究」(『北大百年史』通説、1982、746-761頁)

満蒙研究において東大、京大の農学部とは異なる北大の独自性を指摘している。

  • 1932(昭和7)1月 関東軍統治部主催「満蒙における法制及経済政策諮問会議」in奉天
    • 4つの部会 (1)法制、(2)幣制・金融、(3)関税・税制・専売制、(4)産業
    • 北大教授の参加 
      • 上記産業部会に農学部から上原轍三郎、宍戸乙熊、渡辺侃の三名が参加
    • 会議の目的
      • 満州事変による中国東北地方(満州)の軍事的制圧の後を承けて、関東軍が、来るべき新国家の法と経済の基本的枠組みを構築することを狙いとして開いた」
    • 現存する審議記録
      • 産業諮問委員会議 移民に関する諮問 (1)移民の招来及設定、(2)移民の保護及助成
  • 産業諮問委員会議 移民に関する諮問 における那須皓(東大農学部)&橋本伝左衛門(京大農学部)と橋本轍三郎(北大農学部)の対立
    • 満州農業移民に関して
      • 那須・橋本 → 満州農業移民を「大和民族」の「民族運動」・「民族膨張」と位置づける。入植地を早急に獲得し集団移民を早急に実現すべき。集団移民の自給自足主義
      • 上原 → 集団移民のメリットを機械その他の農業用品の共同購入・農産物の共同販売に見出す。
    • 移民機関の形態に関して
      • 那須 → 新国家・省政府の出資では移民会社は新国家の統制下に入り日本人移民に不利になるので土地だけを新国家に提供させ資金は日本政府が出し「日本ノ新国家ニ対スル勢力トイフモノヲ利用」し「日本ガ実質的ニ之ヲ統制」すべきだ、と主張
      • 上原 → 入植地を自然的・社会的条件が共通する数ブロックに分け、それぞれに新国家・関係省政府の出資になる半官半民の会社を移民機関として設立すべきことを提言
    • 中国人移民の統制方法
      • 高柳松一郎(大阪商工会議所書記長)・那須 → 日本人移民と競合する中国人移民に全面的禁止措置を講ぜよとする
      • 上原 → 移民会社による間接的統制はありえても地理的・民族的繋がりからいって全面禁止は実行困難であり、門戸開放を宣告している日本の立場からしても「極力禁止或ハ表面的二制限スルトイフコトハ考フヘキコトテハナイ」
    • 結局は出来レース
      • 那須・橋本は加藤完治や石黒忠篤(農林次官)と打ち合わせ済みであったとされ、関東軍首脳部の構想とも一致していたので、「試験移民期」の満州農業移民政策の大綱は、那須・橋本の意見に沿って決まる。
  • 移民送出までの流れ
    • 1932年2月 関東軍作成の「移民方策案」
    • 1932年9月 「満州に於ける移民に関する要綱案」
    • 拓務省の「一千戸移民案」
    • 1932年8月 移民500人送出案(満州試験移民費)が第63帝国議会を通過
    • 1932年10月 第一次武装移民、黒竜江省の佳木斯にむけて東京を出発
  • 排除される北大と北大農学部の満蒙研究の特質
    • 排除される北大
      • 1934年3月 土竜山事件(在満中国人農民の移民用地収奪反対の武装蜂起)
      • 1934年11月~12月 移民政策の立て直しのための「第1回移民会議」in新京 → 北大から誰も参加せず
    • 北大農学部の満蒙研究
      • 満州事変後、北大では満蒙研究の隆盛期となるが、上原轍三郎の発言の延長線上で展開していったので、東大・京大の農学部とは異なる満蒙研究の特質を形造る。

卒論にみる満蒙研究

  • 東郷実『日本植民地論』(文武堂、1906)
    • 札幌農学校卒業に当って提出した論文「農業植民地論」を改稿したもの。佐藤昌介、新渡戸稲造、高岡熊雄が校閲
    • 「自然的要素」と「人為的要素」から満州を「前途有望の植民地」とみ、「満州の経営に至っては政府は如何なる手段方法を執るかを知らずと雖、其植民地政策は農業を基礎とし百般の経営をなさざるべからず、而して之が実行と同時に本国に於ては植民教育の普及を計り、且特許を有する植民会社を組織して移民の奨励をなさざる可らす」と論じた。
  • 満州の日本植民地としての価値」(1907)
  • 南満州殖民論」(1911)
  • 駒井徳三「満州大豆論」(1911)
    • 「法学博士高岡熊雄先生の懇篤ナル指導ト校閲ヲ得タ」もの
    • 改稿後、「経済学農政学叢書」の1刷として1912年4月東北帝国大学農科大学カメラ会より出版される
    • 満州大豆問題ハ単二極東ノ一小問題二非ズシテ今ヤ関係スル所甚タ広般ナル世界ノ経済問題トナレリ」という観点
    • 生産、流通、商取引慣行、価格変動を詳細に分析しつつ満州大豆に対して日本の採るべき政策のありようを論じた
    • 満州の産業構造の植民地的再編過程を研究するにあって今日でもなお利用価値の高いもの

北大農経スタッフによる満蒙研究

  • 植民学担当者による研究成果
    • 日露戦後、満蒙問題が研究課題になっていたことは上記の卒論から推測できるが、農経の教授陣が研究成果を生み出していなかったこともまた事実。
    • 1931年の満州事変と翌32年1月の産業諮問委員会議の開催が、北大における満蒙研究にとって決定的な契機となる。
  • 渡辺侃「満蒙新国家の農業問題」(『東亜』第5巻第4号、1932年4月)
    • 満蒙を日本の過剰人口の捌け口、食料・原料の供給地と位置づけることに「多少悲観すら持つ」と書く
    • 当時の積極的な満州開発論、満洲移民論とは基調を異にする。
  • 上原轍三郎「移植民」(『満蒙事情総覧』改造社、1932年、所収)
    • 満州には215万戸の農家を収容できる1800万町歩の可耕未開地が存在する
    • 満州移民には屯田兵制が有効である
    • 中国人の満州移住を人口圧に起因する必然的現象とみ、新国家による中国人移民禁止政策や中国人移民との競争に対処するための日本人移民の自給自足主義は容易に行われがたい
    • 移民の入植・指導は満州国が担当し、そのための機関として複数の移住社会社を設立し、「此の会社の資本金は一部を満州国中央政府並に其会社の属する省政府に於て引き受けて他の一部は我国政府に於て引受け、更に他の一部は広く之を日満の民間に募集すること」を提案
    • 移民事業のすべてを日本政府が独占しては移住適地の選定や土地獲得に大きな困難をともなう
  • 上原轍三郎「満州国の農業移民と其収容力」(『外交時報』第663号、1932年7月)
    • 満州が収容しうる農家215万戸は満州国民の増殖、中国・朝鮮・日本からの移民という4つの供給源を持つ
    • 「其何れの源より最も多く、最も強く入り来るは実に満州国自体の入移民政策と給源国の出移民政策との如何による」
    • 日本の場合は日満提携によって「彼我共存共栄の目的を達成」することに移民政策の眼目がおかれるべき
  • 上原轍三郎「満州国移民政策の機構について」(『外交時報』第736号、1935年8月)
    • 移民事業の担当機関をめぐる議論を「日本単営説」と「日満協力説」に大別整理し、後者の立場から前者を批判
  • 上記上原論文の特徴
    • 関東軍につながる満州農業移民論の主流に対する、非主流の側からのある種の批判をこめた新たな移民の理念と政策の提唱
  • 高岡熊雄の満州農業移民問題に関する三論考
    • (1)「満州移民問題」(『中央公論』1932年12月号)
      • 満州国の文化を発展せしめ健全なる独立国たらしめんとするには、満州国民より更に一層文化の程度の高き民族を招来して富源を開発する必要があ」り、そこに日本からの農業移民の意義がある
      • 移民事業は「経済的観念からして〔移民が-引用者〕移住の決心をなす様に計画」されるべきで、「単に愛国的の熱情にのみ訴えた丈けでは余り多くの結果を期待し得ない」
      • 入植地は「純然たる経済的行為」によって獲得し、「自給自足の外に或る程度までは市場相手の生産をなし得る程度の面積」すわち畑地の場合一戸平均20町歩は必要
      • 移民は資質からみて東北・北海道の農民が適している
      • 移民機関は日本政府が出資する半官半民の公益会社がよく、満州国はこれには表立って関係せず土地の提供などで支援するのが望ましい
      • 「我が国民は動ともすれば偏狭なる愛国的精神に捕われ、外国に移住しても兎角其の国のものと融和しない幣がある。満蒙に移住する農民は直ちに彼の国に帰化し、先住民族と愛親しみ相提携し互に信じて善良なる満州国民となって活動しなければならない」
    • (2)「日満人口統制に就いて」(『外交時報』第674号 1933年1月)
    • (3)「日本人移住地としてのブラジルと満蒙」(『改造』1933年5月号)
    • 論考全体の骨子
      • 純経済的には農業植民地としての価値がブラジルより低い満蒙に国策によって移民を送出するからには国の確固たる移民保護政策が前提にならねばならぬ
      • その基調は日本民族の膨張運動として満州移民を位置づける移民論とは異なる

  • 北海道帝国大学満蒙研究会
    • 1933年(昭和8)3月1日北大医学部講堂において創立総会、第1回講演会開催。
      • 工学部教授小野諒兄「北満に於ける現在及将来の鉄道」、予科教授和田禎純「満州国の独立と国際聯盟」
    • 活動の中心
      • 満蒙問題にかかわる講演会の開催とその講演筆記をふくむ満蒙に関する研究報告を小冊子『満蒙研究資料』として逐次刊行すること
      • 小冊子は1933年4月の創刊第1号から1942年7月の第32号まで発行された。途中1939年8月1日研究会が「北海道帝国大学東亜研究会」と改称。小冊子は『東亜研究資料』となる。
    • 研究会の活動停止と農経の満蒙研究の新展開
      • 1941年9月20日開催の研究会における講演筆記の刊行を最後に研究会は事実上の活動停止
      • だが、農学部農業経済学科における移民問題を中心とする満蒙研究は、むしろこの間新たな展開を見せる

  • 1930年代後半以降の農経における満州農業移民問題に関する研究
    • 移民機関および中国人移民を対象とした日本学術振興会の嘱託研究
    • 農業移民入植地の実態調査
  • 移民機関および中国人移民を対象とした日本学術振興会の嘱託研究
    • 経緯
      • 1932年12月 日本学術振興会設立
      • 1933年11月 第二特別委員会設置(研究目的「満州農業移民問題の研究」) 高岡熊雄、「土地問題及移民機関」を分担
      • その後委員会のテーマに「北支及び満州資源調査」が追加 → 移民問題研究に「移民の実蹟調査」が追加 → 上原轍三郎が研究嘱託員となる(「綏棱、城子河、哈達河及び附近地方に於ける鮮人移民」を担当)
    • 業績1 満蒙移民
      • 『満蒙移民機関に関する諸家の意見』(日本学術振興会学術部第二特別委員会報告第二編、1935年4月)
      • 『満蒙農業移民機関の形態』(同上第四編、1936年2月)
      • 『満蒙農業移民機関の組織及監督』(同上第八編、1937年3月)
      • 『満蒙農業移民機関の事業及資金』(同上第九編、1938年3月)
    • 業績2 北支移民
      • 『北支移民の研究』(有斐閣、1943年2月) → 「「大東亜共栄圏」の一環として満州国の経済建設には華北から流入する中国人労働力が不可欠であるが、その流入を放置しては同じ「共栄圏」に包摂される華北経済が労働力不足に陥るばかりでなく日本人の満州移民にも悪影響をおよぼすので、それに統制を加えつつ適切な移民政策を樹立すること」
  • 高岡熊雄 満州農政に関与しその策定に参画す
    • 経緯
      • 1937年3月 「産業開発第一次五か年計画」 → 満州国の第二期経済建設の基本方向を確定
      • 1937年5月 「農業政策審議委員会」が満州国に設置される → 高岡熊雄は委員となる 
      • のち「農業政策審議委員会」は「東亜農林協議会」(1938年8月設立)と合併、「日満農政研究会」に改組される。
    • 高岡の満鉄協和会館(大連)における講演「満州農業移民と日本の農業界」(1937年8月) 
      • 帝国主義の領土拡張運動は必然的に民族の自覚運動を惹起するが「満州国」はこの二つの運動の調和の解決と所産であるとし、また農家1戸当経営面積1町5反を適正規模と仮定すると日本には110万戸550万人の過剰労働力が存在することになり、これは満州の収容可能人口を補って余りあるので満州農業移民は日本農業の「革新」にとって不可欠である

  • 「本格的移民期」
    • 1936年5月 関東軍、「満州農業移民百万戸移住計画案」作成 20カ年で100万戸500人の日本人農業移民を満州に移住させる
    • 1936年8月 日本政府、「満州農業移民百万戸送出計画」樹立 
    • 1937年 第1期(37~41年)として10万戸の移民が満州へ送られる
    • 1939年11月 日満両政府、「満州開拓政策基本要綱」を発表
      • 1930年代後半から40年代初頭は、満州農業移民事業があたかも高岡・上原らが主張した線に沿うかのように在満中国人に対する侵略的印象をやわらげつつ展開された時期
  • 1930年代後半から40年代初頭における北大満蒙研究 満州農業移民の入植地の実態調査
    • 上原轍三郎「満州農業移民の一形態-天理村-」(『法経会論叢』第五輯、1937年3月)
      • 天理村は日本政府管掌の「集団移民」とは異なる民間団体が実施した「自由移民」の初期の開拓村の一つ。
      • 上原は1936年の夏、日本学術振興会の委嘱で満州農業移民地の実績視察旅行をした際、天理村を訪問。
      • 移民を「施設型」(施設完成後に入植させる型)と「非施設型」(入植後に施設を建築させる型)に分けてその利害得失を説明し、天理村を典型的「施設型」と規定して、同村を「施設型」の長所が短所を補ってもっともよく発揮された模範的開拓村とした
    • 満州国立開拓研究所委託実態調査
      • 1940年6月20日 満州国総務局内に満州国立開拓研究所が設立される → 東大・京大・北大の農学部に夏季休暇中の学生と指導教官によって構成される4調査班に北満の開拓地(移民入植地)の総合調査を委嘱
      • 北大からは高倉新一郎を指導教官とする調査グループが1940年の夏に、荒又操を指導教官とする調査グループが1941年の夏に渡満。
      • 報告の特徴→移民入植地の農業経営に畜力や「プラウ農法」の導入の必要性を積極的に主張。機械導入による「大陸新農法」採用の方向は「満州開拓基本要綱」によってすでに国策として定着していたので、独自のものではなかったが、満州における「プラウ農法」の主唱者や支持者の多くが「北海道農法」に詳しい北大出身者によって占められ、精神主義をかざしてこれに反対したのが加藤完治や橋本伝左衛門であったことを想えば、いかにも北大調査班の報告書らしい特色が滲み出ていた
  • 北大における満蒙研究の終焉