満蒙研究において東大、京大の農学部とは異なる北大の独自性を指摘している。
一
- 産業諮問委員会議 移民に関する諮問 における那須皓(東大農学部)&橋本伝左衛門(京大農学部)と橋本轍三郎(北大農学部)の対立
- 移民送出までの流れ
二
北大農経スタッフによる満蒙研究
- 植民学担当者による研究成果
- 日露戦後、満蒙問題が研究課題になっていたことは上記の卒論から推測できるが、農経の教授陣が研究成果を生み出していなかったこともまた事実。
- 1931年の満州事変と翌32年1月の産業諮問委員会議の開催が、北大における満蒙研究にとって決定的な契機となる。
- 渡辺侃「満蒙新国家の農業問題」(『東亜』第5巻第4号、1932年4月)
- 上原轍三郎「移植民」(『満蒙事情総覧』改造社、1932年、所収)
- 満州には215万戸の農家を収容できる1800万町歩の可耕未開地が存在する
- 満州移民には屯田兵制が有効である
- 中国人の満州移住を人口圧に起因する必然的現象とみ、新国家による中国人移民禁止政策や中国人移民との競争に対処するための日本人移民の自給自足主義は容易に行われがたい
- 移民の入植・指導は満州国が担当し、そのための機関として複数の移住社会社を設立し、「此の会社の資本金は一部を満州国中央政府並に其会社の属する省政府に於て引き受けて他の一部は我国政府に於て引受け、更に他の一部は広く之を日満の民間に募集すること」を提案
- 移民事業のすべてを日本政府が独占しては移住適地の選定や土地獲得に大きな困難をともなう
- 高岡熊雄の満州農業移民問題に関する三論考
- (1)「満州移民問題」(『中央公論』1932年12月号)
- 「満州国の文化を発展せしめ健全なる独立国たらしめんとするには、満州国民より更に一層文化の程度の高き民族を招来して富源を開発する必要があ」り、そこに日本からの農業移民の意義がある
- 移民事業は「経済的観念からして〔移民が-引用者〕移住の決心をなす様に計画」されるべきで、「単に愛国的の熱情にのみ訴えた丈けでは余り多くの結果を期待し得ない」
- 入植地は「純然たる経済的行為」によって獲得し、「自給自足の外に或る程度までは市場相手の生産をなし得る程度の面積」すわち畑地の場合一戸平均20町歩は必要
- 移民は資質からみて東北・北海道の農民が適している
- 移民機関は日本政府が出資する半官半民の公益会社がよく、満州国はこれには表立って関係せず土地の提供などで支援するのが望ましい
- 「我が国民は動ともすれば偏狭なる愛国的精神に捕われ、外国に移住しても兎角其の国のものと融和しない幣がある。満蒙に移住する農民は直ちに彼の国に帰化し、先住民族と愛親しみ相提携し互に信じて善良なる満州国民となって活動しなければならない」
- (2)「日満人口統制に就いて」(『外交時報』第674号 1933年1月)
- (3)「日本人移住地としてのブラジルと満蒙」(『改造』1933年5月号)
- 論考全体の骨子
- (1)「満州移民問題」(『中央公論』1932年12月号)
三
四
- 移民機関および中国人移民を対象とした日本学術振興会の嘱託研究
- 経緯
- 業績1 満蒙移民
- 『満蒙移民機関に関する諸家の意見』(日本学術振興会学術部第二特別委員会報告第二編、1935年4月)
- 『満蒙農業移民機関の形態』(同上第四編、1936年2月)
- 『満蒙農業移民機関の組織及監督』(同上第八編、1937年3月)
- 『満蒙農業移民機関の事業及資金』(同上第九編、1938年3月)
- 業績2 北支移民
五
- 「本格的移民期」
- 1930年代後半から40年代初頭における北大満蒙研究 満州農業移民の入植地の実態調査
- 上原轍三郎「満州農業移民の一形態-天理村-」(『法経会論叢』第五輯、1937年3月)
- 満州国立開拓研究所委託実態調査
- 1940年6月20日 満州国総務局内に満州国立開拓研究所が設立される → 東大・京大・北大の農学部に夏季休暇中の学生と指導教官によって構成される4調査班に北満の開拓地(移民入植地)の総合調査を委嘱
- 北大からは高倉新一郎を指導教官とする調査グループが1940年の夏に、荒又操を指導教官とする調査グループが1941年の夏に渡満。
- 報告の特徴→移民入植地の農業経営に畜力や「プラウ農法」の導入の必要性を積極的に主張。機械導入による「大陸新農法」採用の方向は「満州開拓基本要綱」によってすでに国策として定着していたので、独自のものではなかったが、満州における「プラウ農法」の主唱者や支持者の多くが「北海道農法」に詳しい北大出身者によって占められ、精神主義をかざしてこれに反対したのが加藤完治や橋本伝左衛門であったことを想えば、いかにも北大調査班の報告書らしい特色が滲み出ていた