山室信一『キメラ ―満洲国の肖像 増補版』(中公新書、2004年)

  • この本の趣旨(p.15)
    • いったい、なぜ、中国東北部満洲国という国家がこの時期、日本人の主導によって作られなければならなかったのか。その国家形成の過程はいかなるものであり、それに日本人や中国人はどうかかわったのか。また、形成された国家は、いかなる統治構造や国家理念をもち、その実態はどうであったのか。さらに、満洲国と中国と日本との間には、国制や法制、政策や政治思想などにおいていかなる相互交渉が生じていたのか、総じて、その国家としての特性はどこにあり、近代世界史のうえでいかなる地位を占めていたのか、――こうした問題の検討を通して満洲国という国家の肖像を描くこと。
  • 理想国家〜満洲国に対する肯定的な評価群〜(pp.10-11)
    • 岸信介(満洲国務総長次長を務め、戦後の総理大臣となる)
      • 「民族協和、王道楽土の理想が輝き、科学的にも、良心的にも、果敢な実践が行われた。それは正しくユニークな近代的国作りであった。直接これに参加した人々が大きな希望のもとに、至純な情熱を傾注しただけでなく、日満両国民は強くこれを支持し、インドの聖雄ガンヂーも遥かに声援を送った。当時、満洲国は東亜のホープであった」(満洲回顧集刊行会編『あゝ満洲』)
    • 古海忠之(満洲国の終焉に総務庁次長として立ち会う)
      • 満洲国の建国育成は、歴史上前例のない一つのトライアルであった。……侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満洲の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りであり、当時の日本青年が名利を超越して理想に邁進努力したことは日本青年の誇りでもある」(「満洲国の夢は消えない」『挫折した理想国』)
    • 片倉衷(満洲国建国を推進した関東軍参謀)
      • 満洲国を王道楽土と民族協和の高き理想を掲げたヒューマニズムの発露として、「何れも東亜の安定への礎石として、実りある開花でもあった」(『回想の満洲国』)と断言…
    • 星野直樹(総務長官を務める)
      • 満洲国建国を「ひとり主導的地位に立った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力をあわせて開発・発展せしめ、その恵福をひろく等しく各民族の間に分かち、ここに新たなる楽天地を作りあげよう」(『見果てぬ夢―満洲国外史―』)としたものとして讃えてやまなかった。
  • 石原莞爾が満蒙領有を不可欠と考えた理由(p.31)
    • その一つとして挙げられるのが総力戦遂行のための自給自足圏の確立という課題であり、これは当然に日本の国家改造と連動していた。
    • そして第二に挙げうるのが、国防、戦略上の拠点の確保という課題であり、これはまた朝鮮統治と防共というイデオロギー上の問題とからんでいた。
  • 自給自足圏と長期戦争(pp.34-35)
    • 要するに満蒙を領有して日本の自給自足圏に収め、もしそれが新たな対外戦争を誘発すれば中国本部をも領有することで長期戦遂行を可能ならしめるというのが石原の総力戦構想であった……総力戦遂行のためには資源供給地として確保とともに国内における産業構造の再編、国民動員体制の形成など国家のすべての要素を戦争遂行に直結させるための総動員体制の確立が必要となる。そして総動員体制を確立していくためには、強力なリーダーシップをもった政府の出現が要請される。……政治腐敗を露呈していた政党政治の統治能力に対する不満や不信感は次第に昂まっており、政党内閣を打倒して軍部政権を樹立する国家改造の必要性が叫ばれることとなった。満蒙領有と国家改造とは、総力戦遂行体制構築にとって表裏一体をなす課題として捉えられ、その解決が急務とみなされたのである。
  • 満蒙問題の世界史的意義づけ(pp.51-53)
    • 石原は世界の戦争史を跡づけて持久戦争(消耗戦争)と決戦戦争(殲滅戦争)が交互に繰り返されてきたとし、持久戦争であった第一次大戦以後の将来の戦争は決戦戦争となるとみた。しかも、一都市を一挙に破壊する大量殺戮兵器とそれを運搬する飛行機が出現したことにより、次に来るべき決戦戦争こそ世界最終戦争となるであろう、と考えていたのである……長期的かつ最終戦争としての日米決戦戦争があり、その準備過程であり中期的課題としての日米持久戦争がある。そして、この持久戦争の一環として、かつ決戦戦争の大前提として実行されるべき課題として満蒙領有計画がある――このように、長い時間の幅をもった三段階にわたる課題の連鎖として満蒙領有を位置づけたところに、石原の満蒙問題解決策の特異性が見出せるのである。……日米開戦をも射程に入れた石原の満蒙領有論は、それまで局地的で孤絶した案件と捉えられてきた満蒙問題にひとつの転換点をもたらした。すなわち、アメリカを仮想敵国とする国防方針と連結させたことにより、ここに満蒙領有を日本のとるべき進路の一環に組み込み、その長期的見通しと世界史的意義づけを与えることとなったのである。それが既得権益の擁護という防禦的立場で満蒙問題武力解決を期していた関東軍にはじめて積極的で攻守所を替えた明確な指針を与え、満蒙領有に大きな弾みをつけたことは否定できないであろう。
  • 板垣征四郎の中国民衆観(p.56)
    • 中国人にとっては「安居楽業が理想」であり、国家意識はまったくといっていいほど欠如しており、「何人が政権を執り、何人が軍県を執り治安の維持を担任したとてなんら差支えない」といった中国民衆観があった。軍事行動にさえ成功すれば満蒙領有そのものに対する反抗や混乱は生じないというのが板垣が長年の中国観察から導き出した確信であった。
  • 満蒙領有論から独立国家論へ転換してもその思想的背景は変わらないというはなし(p.60)
    • ……石原らが唱えた満蒙領有正当化の根拠となったのは、日本人の指導によってのみ在満蒙諸民族の幸福が保護され、推進されるという考えであり、この幸福後見主義が満洲国の理想と日本人がみなしたもの―すなわち日本民族を指導民族とする「民族協和」と、それによってもたらされる「王道楽土」――と最も緊密に結びついていくこととなった。ただ、東三省人の自発的意思に基づく独立という形式を前面に打ち出した満洲国では、満蒙領有論が明確に示さねばならなかった目的論を正面切って主張することは憚られ、正当化論は建国理念という形に転化して噴出してくるのである。しかし、それは関東軍の満蒙支配の目的が変わったといういうことをいささかも意味しない。満蒙領有論で挙げられた目的とそのめざした射程、それらが満洲国が関東軍の指導下にあるかぎり払拭されるはずはなく、満洲国経営の基軸となり指針となっていったのである。
  • 「民族協和」のスローガンが生まれた背景(p.93)
    • 在満日本人の活動の活発化はかえって遼寧省国民外交協会などの中国側の排日気運を煽り立てることでもあり、満洲青年連盟としてはこの排日攻勢に対して防禦・拮抗していくための理論ないしスローガンが必須のものとなった。そこで1931年の6月に打ち出されたのが「満蒙における原住諸民族の協和を期す」という要求であった。この「現住諸民族の協和」とは在満三千万人のうち1%にも達せず、しかも排撃にさらされていた弱小民族日本人が満蒙における生存権と平等な取り扱いとを求める防禦的性格をもっていた。……「諸民族の協和」が打ち出される段階では頽勢に傾いた日本民族が満蒙にとどまるための正当化が主眼となっていた。まさしく……「民族協和」とは、生存の危機に瀕した「満洲在住の日本人、殊に中小企業従事者が民族主義による支那人の排日運動に対応するために唱道したスローガン」…だったのである。
  • 日本の興亜主義の特質〜被圧迫への過剰意識と圧迫への無自覚〜(pp.101-103)
    • 笠木(引用者:笠木良明)は1926年、行他社を脱退して自ら東興連盟を組織し、「東興連盟は、全世界に散在する被圧迫有色民族の正当なる要求の具現に努力す」の綱領を掲げている。ここにも明らかなように、笠木の興亜主義は、たんにアジアの復興に限らず全世界の被圧迫有色民族の解放に向けられており、この点、種族偏見、民族偏見を否定し、人類相愛を主張した満洲青年連盟の山口重次らと一脈相通ずるものがあった。しかしながら、笠木においては欧米によって有色人種が世界中いたるところで圧迫にさらされている、日本民族もまた圧迫される人種の側にあり、同じく圧迫されている有色民族の先頭に立って解放へと導かなければならないという救済者としての使命感が脈打っているものの、日本が台湾や朝鮮で圧迫する側に立っているという事実についての自覚はまったくない。……生命を賭して危地に身を投ずるに足る情熱を掻き立て、自らを鼓舞し、苦境にあって心身の支えとなるより高遠な理念や使命観が必要とされる。それは論理的であるよりは、むしろ宗教的信仰に近い質の信条体系となるであろう。
  • 満洲国における建国理念・国制の喧伝(p.125)
    • なぜ満洲国は生まれなければならなかったのか。満洲国が国家としてもつ生存理由とは何でありうるのか。そのことの正当な論証をなしえないかぎり、独立国家として認証されることもなければ、「国民」の支持を調達していくことも不可能である。なにより、その正統性の根拠なしには「傀儡国家」「偽国」という国際的な非難に抗弁することさえできないであろう。そこに満洲国が中国や世界の政治思潮をにらみつつ、異例ともいえるほどに自らの建国理念や国制が既存のものをはるかに凌駕し、比類なきものであると喧伝した理由がある。
  • 中国国民党との関係からの満洲国の建国理念の必要性(p.130)
    • 満洲国が自らの国家としての正当性と存立の意義を認知させうるためには、三民主義やそれに立脚した国民党義を駆逐し、凌駕するだけの衝迫力と中国諸民族の新国家への疑団を解くだけの説得力をもった政治理念の提起がぜひとも必要とされたのである。それが順天安民、民本主義、民族協和、王道主義などの建国理念であった。
  • 溥儀・本庄秘密協定と表面的立憲制(pp.165-167)
    • ……あらかじめ日本人の満洲国への受け入れを承認させておく必要がある。それを実現させたのが、実は1932年3月6日に溥儀が署名した本庄関東軍司令官宛書簡だったのである。この書簡は1932年9月15日に締結された「日満議定書」の付属文書とされたが、戦後になるまで公表されることはなく、溥儀・本庄秘密協定と称されているものである。
    • ……満洲国が存在している間は、いっさい表面にでることのなかった秘密協定によって満洲国の統治形態は実質的に決定されたが、それはもちろん公式に発表された政府組織法で定められた国制を空洞化するためのものであった。関東軍は1932年1月27日、「満蒙問題善後処理要綱」をまとめていたが、そこでは「新国家は復辟の色彩を避け、溥儀を首脳とする表面的立憲共和的国家とするも内面は我帝国の政治的威力を嵌入せる中央独裁主義」とする国家像が描かれていた。この国家像をそのまま新国家で具現させたものこそ、3月6日の本庄関東軍司令官宛溥儀書簡他ならなかったのである。
    • 国民政府の一党専制を厳しく非難し、政治は必ず真正の民意に徇うことを建国理念として掲げた満洲国――その国の政治とは住民の意思になんら顧慮することなく、また立法機関になんら掣肘を受けることのない強力で独裁的な執行機関による日本人の統治をめざすものとして現実には出発したのである。そこでは国制の面においても法制上の主体と実際上の担い手の双面性が存在し、それが満洲国の法と政治の特質を形作ることとなったのである。このように満洲国が建国とともに採った立憲共和制とは、中華民国の影のもと、表面上は立憲主義の形態をとるかにみえて、その実、立憲主義を否定する表面的立憲制(Scheinkonstitutionalisumus)にすぎなかった。そしてそれは立憲制への懐疑と共和制への反感、そして民意への不信に裏打ちされたものだったのである。
  • 見せかけの民族自決(p.168/p.181)
    • ……中国人の自主的発意に基づいて政治的決定がなされているかのごとき形式を採りながら、関東軍の統制のもとで日本人が統治の実権を掌握する、という要請に応えるべく案出された満洲国の特異な統治形態については、これを四つの鍵概念によって捉えることができるであろう。四つの鍵概念とは何か。日満定位、日満比率、総務庁中心主義、内面指導――がそれである。
    • ……満洲国の政治の態様を決定したのは、傀儡国家、保護国化という国際世論の非難を避けるため、表面上は現地中国人の自主的発意によって政治的決定がなされている形式をとりながら、内面において関東軍の指導のもと日系官吏によって日本の統治意思をいかに効率的に実現していくかという、要請であった。日満定位にしろ、日満比率にしろ、総務庁中心主義にしろ、内面指導にしろ、すべて国法上の権限と事実上の権限との双面性を表徴するとともに、そのズレを糊塗するための弥縫策であり、権略にすぎなかった。
  • イデオロギー操作に嵌った人々の帰結(p.194-195) 
    • ……人はあるいは幸福でないために、かえって夢に憧れ、イデオロギーや「観念の遊戯」にあえて身を委ねようとするのかもしれない。満洲国の建設こそが汚濁に満ちた世界に王道楽土の理想社会の模範を提示するための光栄ある実践である――との夢はその後も大きな吸引力をもって、日本の青年たちを海を越えて魅きつけていったことはやはり事実として認めざるをえない。……"理想主義の夢"の温床となった大同学院からは満洲国解体まで19期、約四千人にのぼる卒業生が輩出した。彼らは大同学院のモットーとされた「無我至純」「挺身赴難」を信条として、「五族協和」「王道楽土」建設のために極寒僻遠の地に分け入り、反満抗日軍と銃火を交えて大地を血で染めることも少なくなかったのである。
  • 陸軍中央の関東軍に対する統制力の回復(pp.203-204)
    • ……満洲国建国までは関東軍が日本の省部や日本政府をリードしたことは事実ではあったものの、建国以後その位相は急激に変化していた。すでに五・一五事件を契機として政党内閣が崩壊し、挙国一致内閣の成立とともに軍部は官僚、政党と並ぶ統治主体として日本政治の前面に進み出てきていた。そうした陸軍中央にとって満洲事変の過程で醸成された下克上の風気を刷新し、「中央は出先機関の処断しえざる点のみを指示すの要あるべし」(「片倉日記」)と嘯く関東軍に対してその統制力を回復することは焦眉の課題となっていた。しかし、同時に関東軍を含めた陸軍総体としては外務省、大蔵省、拓務省、商工省などの意向をなるべく排除しながら、関東軍の軍事行動による成果としての満洲国の統治において絶対的優位を獲得していくことが求められていた。1932年8月、本庄繁、石原莞爾、片倉衷、和知鷹二、竹下義晴ら板垣征四郎を除く建国を主導した幕僚たちの関東軍からの転出は、こうした陸軍中央の統制回復の必要に出たものであった。この陣容一新は「中央統制力の伸長を意味し、群雄割拠的創業時代の満洲人事を整頓すること」(佐々弘雄満洲政策の切断面」『改造』1932年9月号)となったのである。
  • 傀儡であった溥儀が自己の権威・実力強化のために見出した方法(p.230/p.232)
    • ……日系官吏や関東軍に実質的に統治される満洲帝国において溥儀は皇帝としての権威と実力を求めた。そして、その方策を溥儀は1935年の第1回訪日の際に発見した。それは「天皇の日本における地位は、私の満洲国における地位と同じであり、日本人は私に対して、天皇に対するのと同じようにすべきだ」(『私の前半生』)という論理によって天皇の権威に自らを同化し、一体化することであった。……"天皇陛下の御精神と一体であらせられる以上、両帝国はすべてにおいて一体であり、日満は一徳一心一体である"といった論調があふれ出ることとなった。そして、この日満一徳一心、精神一体の強調は日本側の強制という以上に、溥儀自身の発意…だった…
    • そして、ついに溥儀は自らの生きている証しであったはずの清朝の祖先を祀ることをやめ、天皇の祖神である天照大神を建国の神とし、日本の神道を国教とすることによって現人神天皇と同様の神格と権威を得るという道を選ぶにいたる。
  • 自ら批判した西欧帝国主義の植民地支配を行う日本(p.254)
    • 順天安民、仁愛、王道や協和といったさまざまなアジア的な言辞、そして西洋諸国の帝国主義的支配への反発とそれからの解放という満洲国建国の理念にもかかわらず、満洲国統治の正当性根拠は西洋近代が生み出した法による支配に結局は求められ、それがまた満洲国の文明化であり近代国家としての表徴であるとされたのである。すなわち、「文明を普及させる使命(misson civilisatrice)」が支配の正当化根拠とされたという点で日本もまた自らが批判したはずの当の西欧帝国主義の植民地支配と異ならなかったのである。いや、法規の適用に対して日本人がきわめて厳密であった分だけ現地の人々にとって災厄は大きかったかもしれない。
  • 産業開発重視時代へ(p.256)
    • ……大蔵、内務、逓信、司法の各省からの日系官吏の投入によって1937年までに独立国家としての体裁を整えた満洲国は、次なる政策課題として産業開発を掲げた。もとより満蒙の各種資源を開発して日本の総合国防力を増強することは、関東軍が満蒙支配をめざした最も大きな要因であり、生産力拡充は満洲国全期を通じて一貫して追求されたものであった。しかし、建国から1936年ごろまでは最大時三十数万人にもおよぶといわれた反満抗日運動の鎮圧に追われており、ようやく36年に満洲産業開発が政策の中心課題としてクローズ・アップされるにいたったのである。かくて、37年から41年にかけての産業開発重視時代に入る。この時代を象徴するのが産業開発五カ年計画であった。そして、これに要する資金調達のため関東軍鮎川義介日産コンツェルン満洲国に移駐させ、満洲重工業開発株式会社を設立させたのである。そして、この政策推進を担うために招請されたのが商工省、農林省、拓務省などの官僚であった。
  • 満洲国三大国策(p.257)
    • ……1936年には岸信介が渡満、以後岸のもとで統制経済が推し進められることになる。そして、この時期、産業開発五ヵ年計画および39年からの北辺振興三ヵ年計画につぐ重要国策として推進されたのが百万戸移住二〇ヵ年計画に基づく開拓政策(以上の三つが満洲国三大国策といわれた)であり、二十年間で100万戸500万人の移住が目標として設定された……しかし、日中戦争の拡大そして1939年のドイツの開戦などの影響を受け、さらに労働力や資材の欠乏、統制経済における資材配給の凝滞などにより、これら産業開発に係わる政策課題の多くは所期の目標どおりの成果をあげることなく終わった。
  • 建国理念の変容(p.264)
    • ……「八紘為宇の皇謨に光破され……天照大神の御神威によって始めて出現しえたもの」(『満洲建国十年史』)と王道立国の建国理念を否定された満洲国では、もう一つの建国理念である民族協和もまた大きな変質を余儀なくされることとなっていった。従来、民族協和の意義は「単に諸民族が闘争を止めて和合することなりとの理解に止まったのであるが、いまや『民族協和』とは、建国理想実現に向かって諸民族がひたむきに精進するための必要条件であり、それは平面的な融和関係ではなくて、指導的先達的民族すなわち日本人の建国理想実現への奉仕精神を中心として、他の民族が追従努力することである」(同前)とされるに至ったのである。民族協和もまた平面的で平等的な共存を意味するのではなく、指導民族たる日本人に奉仕し追従するという垂直的で階統な指導―追従関係へと転化した。もはやそれはいかなる意味でも民族協和とはいえないものとなっていたのである。
  • 植民地を持つ国家の国民は、植民地支配原理によりいずれ自らが支配されるようになる(p.270)
    • ……同時代において満洲国における実験的試行の日本への流入として最もセンセーショナルに取り上げられたのは、議会政治を否定し一国一党制を採る協和会とそのイデオロギーであった。1936年9月、植田謙吉関東軍司令官は「民主的、唯物的、西洋的政治に堕し易き虞大なる議会政治は満洲国の本質上これを採用すべきものに非ず」(「満洲国の根本理念と協和会の本質」)と議会政治を排斥し、協和会を政治的実践組織体とすることを声明した。
  • 満洲国における民族協和が孕んでいた最大の問題性(pp.283-284)
    • …日本人がもっていた自民族中心主義ではなかったろうか。「実にわが大和民族は内に優秀なる資質と卓越せる実力とを包蔵しつつ、外に寛仁もって他民族を指導誘掖し、その足らざるを補い努めざるを鞭打ち、まつろはざるをまつろはせ(服従しないものを服従させ)もって道義世界の完成に偕行せしむべき天与の使命を有す。(関東軍指令部「満洲国の根本理念と協和会の本質」1936年9月) ここには……独善的で自意識過剰な日本民族観があることは否めない。こうした意識から離れられない人々によっては、政治的、経済的、文化的に侵し、侵されることのない関係としての協和が達成されることはないであろう。そして、事実、「民族の坩堝」であった満洲国で、日本人はほとんど他の民族と交わり合うことなく、棲み分けて生活していたのである。
    • ……複合民族国家満洲国での歴史的体験は、日本人が初めて大規模に関わった人種、言語、習俗、価値観の異なる人たちと共存していくという多民族社会形成の試みであった。しかし、そこで現実に行われたことは、異質なものの共存をめざすのではなく、同質性への服従をもって協和の達成された社会とみなすことであった。そのため指導と追従による一枚岩的統合がめざされた。それは反面で異質なものを「まつろはざる」ものとして排除していくという形で現われ…たのである。
    • 日本人による民族協和について「協とは協和、和とは大和」のこと、すなわち民族協和とは「大和民族の中国侵略を協助すること」――そう中国東北の人々は揶揄していたという。
  • 土地収奪と経済的な矛盾の押し付け(p.287)
    • ……数十年の歳月をかけて中国人、朝鮮人農民によって切り拓かれ、そこから強制的に追い立てられた人々の怨嗟の念のこもった土地、それこそが日本の農民や中小商工業の整理統合による転業者、満蒙開拓青少年義勇隊などに提供された「希望の大地」「新天地」に他ならなかったのである。そして、その日本の開拓移民たちも、日本国内における経済の矛盾を背負わされ、しかも「一朝有事の際においては、現地後方兵站の万全に資する」(「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」1937年11月)という国防の一環を担わされていた人たちであった。しかし、もちろんこうした開拓移民政策によって矛盾が解決されるはずもなく、それは矛盾を輸出して中国人・朝鮮人農民たちと日本人開拓移民たちとの間の矛盾を増幅させたにすぎなかったのである。あるいは日本の開拓移民の人びともまた、国策によって加害者となるべく運命づけられた……
  • 満洲国における言語政策(p.299)
    • 1937年、満洲国は学制を公布したが、そこで定められた言語教育の基本方針は、「日本語は日満一徳一心の精神に基づき国語の一つとして重視す」というものであった。こうして日本語が満州語(満洲国では中国語、中国人という用法は禁句であり、中国語は満洲語と呼ばれた)、モンゴル語と並んで満洲国の国語、しかも満洲国のすべての地域で修得を課される第一国語と定められ、「日本語の修得は如何なる学校に於ても必須とされ、将来の満洲国に於ける共通語は日本語たるべく約束されている」(満洲日日新聞社『昭和十五年版・満洲年鑑』)といわれるにいたった。満洲国総人口に占める日本人の割合は最大でも三%に満たなかったにもかかわらず、である。
  • キメラの実像(pp.306-307) 満洲国は傀儡であるし「善意」による正当化はなしえない。
    • 満洲国の傀儡性
      • 駒井徳三に初代総務長官への就任を促した本庄繁関東軍司令官は、駒井に対し「いわゆるパペット・ガーバメントを作って置いて、そのまま逃げて仕舞うということは甚だ卑怯ではないか?」(駒井『大満洲建設録』)と説得したという。満洲国を作った当事者たる二人にとって、それが傀儡政権であったことは、あまりにも自明のことだったのである。そして、この文章を含む『大満洲国建設録』は、1933年中央公論社から公刊されており、当時の日本人にとってもまた自明のこととして受け取られていたに違いないのである。
    • 満洲国統治における日本人の「善意」
      • ……満洲国の理想に共感したにせよ、しないにせよ、満洲国を存続させようと努力した日本人が、そもそも「悪意」をもってそれにかかわったとは私には思えない。それは日本人である私の僻目に違いないであろうが、人々はみな、それぞれの場で、それぞれの仕方で満洲国に対して自分なりに「善意」を抱いていたように思われる。そして、その「善意」と「現実」のズレに対して、まったく無自覚でいられたわけでもなかったのである……悪政であり、失敗であることが認識されながら、しかしそれは「善意」であるがゆえに、そしてまた日本の行政が満洲のそれに優越したものであるとの確信のもとに、結局、是正されることはなかったのである。そして、こうした「善意」を表に出すことによって満洲国統治を正当化しようとする言説は、戦後になってもなお根強く……いる。

補章 満洲そして満洲国の歴史的意味とは何であったのか

  • 日本が満洲に拘り続けた理由(p.333-334)
    • ……日本が存続していく満洲の保持が不可欠だと思わせる重要な契機となったのは第一次世界大戦であり、この大戦によって従来の戦争形態が一変したことが日本に与えた衝撃の大きさを考慮する必要があるでしょう。この戦争ではじめて人類は、総力戦という戦争形態を体験しました。戦争研究の第一人者を自負していた石原莞爾は将来の戦争が「全国民の全力」を駆使した殲滅・持久戦争になると確信し、それを戦い抜くだけの生産力の確保を重視していきます。そのなかでも当時の武器を生産するのに最も重要な資源である石炭と鉄の確保が絶対条件となりますが、それは日本にきわめて乏しく、安定的に供給できるのは満洲だけであり、そのためには満洲を排他的に確保しておく必要があると考えられるに至りました。そういう意味で総力戦体制が与えた衝撃は甚大であり、満洲の日本にとってもつ意義は、そこから異なる段階に入ったのではないかと思います。
  • 壮大な実験場としての満洲国(pp.349-350)
    • 満洲で統治実験を行なったうえで日本陸軍は日本の総動員体制、国防国家体制の構築に利用したということですが、この体制を造り出すにあたっては陸軍のみならず満洲国統治を体験した岸信介椎名悦三郎、美濃部洋次などの多数の革新官僚が担当しましたから、この観点は満洲国と日本との相互連関性を見るうえで不可欠のものといえるでしょう。また、その後の大東亜共栄圏形成においても関東軍参謀は指揮官やブレーンとして各地に派遣されていきます。満洲事変で石原莞爾を支えた和知鷹二はフィリピンの軍政監という最高ポストに就きましたし、岩畔豪雄はスマトラの総務部を管轄し、磯谷廉介は香港占領地の総督に、また今村均はジャワそしてラバウル方面軍の司令官になるなど、関東軍参謀として植民地統治体験を経たことは大東亜共栄圏各地で重要な意味を持ったことは否定できません。なお、総務庁長であった大達茂雄シンガポール占領後に作られた昭南市の市長となるなど、大東亜共栄圏各地に赴いた満洲国日本人官吏であった人も少なくありません。また関東軍内蒙古統治のために徳王に作らせた蒙古連盟自治政府においては、間島省長であった金井章次、外交部次長であった大橋忠一、総務庁長であった神吉正一が相次いで総務庁長・最高顧問に就いており、自治政府が「第二の満洲国」そのものであったことがわかります。
  • 日本の敗戦処理(pp.369-370)
    • ……連合国軍総司令官D・マッカーサー将軍の本部所在地であったマニラに停戦協定作成にむけて河辺虎史郎中将らを全権委員として派遣し、1945年の8月20日に降伏文書を受領しています。その時、総司令部からソ連軍に関しては連合軍の指揮下にはない、との通告を受けたにもかかわらず、日本は対ソ交渉を現地の関東軍に委ね、ついにソ連極東軍総司令官マリノフスキー将軍のもとに全権代表を送りませんでした。この当然行うべき停戦交渉を行わなかったために、関東軍を日本政府の公式の代表と認めないソ連軍の軍事行動は続き、旧満洲国のみならず、朝鮮、樺太、千島に在留していた日本人や朝鮮人は苦難を強いられることになりました……日本政府が交渉を関東軍に委ねて明確な意志表示をしなかったことは、ソ連に絶好の口実を与え、旧満洲では8月20日樺太では8月26日、千島では9月5日まで作戦上の侵攻が続き、死傷者や抑留者の増大を招くことになりました。
  • 満洲国により発生した東アジア世界における新しい国際秩序(pp.372-373)
    • 中国共産党の正当性は、中国が満洲事変以来、一貫して日本の侵略に対抗し、その主権性を否認してきた「偽国家」としての満洲国を壊滅させ、1931年から45年に及んだ抗日戦争に勝利したという点に重点があります。その意味で日本人が満洲国を「偽国家」ではなく、正統性をもっていたと主張することは、中国共産党の正統性あるいは新中国の成立根拠そのものを否定することにつながりかねないということを考慮する必要があります。
    • 大韓民国では、朴正煕大統領以外にも、崔圭夏大統領などの大同学院出身者、姜英勲首相や閔機植陸軍参謀総長などの建国大学出身者など、満洲国で育成された人材が戦後韓国政界の主要なアクターとなっていた時期があることは否定できません。
    • 朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成政権の正統性は、なによりも満洲におけるパルチザンによる反満抗日戦争を指導して勝利したことにその根拠がありますし、そもそも金日成という名そのものが間島地方の朝鮮人社会に伝わる伝説上の民族英雄の名前でもあったように、満洲とのつながりは民族的心性に深く根差してる側面があります。
  • 満洲国と戦後日本の関連性(pp.373-374)
    • 吉田茂(戦後総理大臣)
      • 外交官時代には天津や奉天の総領事を務める。
    • 重光葵(ミズーリー号での降伏文書全権として調印し戦後外務大臣として活躍)
    • 福田赳夫(戦後総理大臣)
      • 外務書記官の兼任として、また中華民国の経済顧問として二年あまり南京。1977年「福田ドクトリン」
    • 大平正芳(戦後総理大臣)
      • 張家口の興亜院蒙疆連絡部に一年半勤務して内蒙古で戸口調査などに携わる。1980年「全国日語教師培訓班」設立。後進の「北京日本語学研究中心」とともに「知日家」育成に多大な成果。
    • 岸信介(戦後総理大臣)
      • 満洲国で3年間勤務。人脈と資金力を築く。人脈としては椎名悦三郎根本龍太郎、平島敏夫、始関伊平。経済界としては星野直樹、松田令輔、古海忠之、鮎川義介。「金というものは、濾過して使えばいい」という考えで戦後金権的政治体質をつくる。日本をアジアの盟主とする「大アジア主義」を唱える。
  • これからの満洲国研究について(p.376)
    • ……中国東北部という時空間のなかで展開した歴史的文脈においてとらえる…
    • ……植民帝国・日本という統治体制総体の中での主要な構成要因として満洲国を位置づけなければならない…
    • ……満洲国がもっていた定点的な意味をとらえ、そこに先行した台湾、朝鮮における統治様式や統治人材が流れ込み、そして満洲国からその統治様式と人材が大東亜共栄圏内の諸地域に流れ出ていったことによって、植民帝国としての日本がアジアとつながるシステムを形成してきたという視点からとらえ直す必要がある……
    • ……満洲国研究が提起する問題として「空間」という視点をいかに取り込んでいくのかが、今後は重要になってくる……
  • ポストコロニアリズム研究との関連性(pp.377-378)
    • ……あなたと私は対等であり、私こそあなたのために犠牲となって尽くしているのだと広言し自ら信じて疑わない人が、実は相手の意志や希望を踏みにじっているにもかかわらず、それに気づこうとさえしないことほど相手に苦痛を与える背信的行為はないのではないでしょうか。それはまさに「御為ごかし」の詭弁としてしか相手の耳には届かないはずです。それよりも、利害が一致しないということを認識したうえで、どこまで共存できるのかを論理的に推し測っていくほうが情緒的に共感を押しつけるよりは、むしろ憤激を招かなかったのではないでしょうか。
  • その時代を生きたということは必ずしも、その時代を総体として知っていたということを毫も意味しない〜個人の「善意」について〜(p.381)
    • ……満洲国関係の史料や論説を読み進めながら、常に違和感を禁じえなかったのは、自分だけは民族協和という理念を信じて疑うことなく実践したという、その信念の中に潜んでいる「善意的惑溺」あるいは「自己への意識過剰」と一対となった「他者への無意識過剰」というべきものの存在でした。そしてそれを意識しつづけることは、その論者への違和感という以上に、私自身が海外の研究者や留学生と交流するなかで、そうした「他者への無意識過剰」が自分のなかにも潜んでいないかということを見つめていくための鏡としてもあったのです。
  • 満洲国研究が持つ重要な課題(p.381)
    • ……思想や理念というものが、いかなるレトリックにおいて自己欺瞞を生むメカニズムとなっていくのか
    • ……満洲国の実態のなかから世界史を貫く道義性や倫理性をいかに見出していけるのか
  • 国家と個人の関係。国籍を超えた多民族の共存(p.383)
    • ……満洲国とは何であったのかを考えることは、最終的に国家と人間、国家と個人の関係とは何か、という私たちの「いま」を考える問題に行きつく……安倍公房に『けものたちは故郷をめざす』という小説があります……この小説では満洲国というものが崩壊したなかでの体験から、何よりも国家というものはいつでも壊滅するものだという「壊れものとしての国家」の実相がつきつけられております。しかし、それにとどまらず、国家や民族や階級から切り離されて裸になってしまった人間が自らの戻るべき空間を求めて彷徨した果てに、結局はどこにも行きつく場所はないという救いのない存在についての実存主義省察を突き出してみせた小説であるように私は思います。
    • ……私たち日本人にとって国家や社会は常にすでにあって与えられるだけのものとしてしか観念されませんが、しかし、それらは本来、「創られる」という契機を孕んでいるはずなのです。そして、まさにそのように満洲国は創られ、崩壊していったのです。私が満洲国の人工性、人為性という局面にこだわりつづけているのも、その問題にかかわっているからなのです。
    • ……満洲国というのは、国家や軍隊が個人をどういうふうに扱うのか、あるいは個人は国家にどうかかわるのかという問題にとどまらず、その異民族による人為的な建国からはじまって、大量の移民が流入し、そしてまた異なった民族の軍隊によって消滅させられたという意味で、国家というものをめぐる人類史において稀有な歴史実験でもあったのではないでしょうか。
    • ……二〇世紀の人類のなかにおいて国家というものがもった意味、そしてそこにおける個人のありかたとはいかなるものとしてありうるべきなのかという問題も含めて、二一世紀において国籍を超えた人々との多民族の共存という私たちが直面している課題を考えていく思想的な糧として、満洲ないし満洲国をとらえていく必要があるのではないかと思います。