山本有造「「満洲国論」―日本植民地帝国と「満州」―」(山本有造『「満洲国経済史研究」』名古屋大学出版会、2003、pp.3-25)

  • 本稿の趣旨
    • 日本植民地帝国50年の歴史における「満洲」の役割とその意味を概観…する。

「満蒙問題」とその展開 ―満蒙は日本の生命線―

  • 日本植民地史、日本帝国史の課題
    • 日本植民地帝国の構造を総括しこれを西洋列強の経験と比較すること
    • 日本植民地帝国の世界史的特質を指摘すること
  • 日本の植民地帝国のパターン
    • 日本の場合は、プロシアあるいはロシアに類似して、本国を中心に円環的に拡大した「大陸型」帝国と規定することができよう。
  • 日本の「植民地問題」は結局のところ「中国問題」
    • 東アジアに位置して「遅れてきた帝国」を展開した日本にとって、その意味するところは、対外膨張の対象が近隣の東アジアであったこと、つまりは自らの文明の母胎である中国圏を対外侵略の場としなければならなかったということ…
    • 日中関係の近代史は、「天下国家」としての旧中華帝国秩序に対する「国民国家」形成過程の日本の挑戦にはじまり、「国民国家」形成過程の中国に対する日本からのさまざまな干渉・侵害の時期を経て、日中両国の全面対決に移行し、ついにはアジア太平洋戦争における日本に敗北に終わった。
  • 流通利潤の上澄みを掬う状態からさらなる進出へ
    • 満鉄線と大連港を基軸とする満洲経営は、大豆輸出にかかわる流通利潤を吸収するかぎりにおいては効率の良いシステムであった。しかしこれに満足せず、経済的および国防的理由から満洲経営を全面的に展開しようとすれば、日露関係の調整とともに、満洲経済内部への日本人・日本資本の大量浸透が必要であり、またそれを防護するシステムが必要となるはずであった。
  • 民族自決時代における新たな中国侵略の方法
    • 日本の対中要求を親日政権の樹立をとおして実現するという新しい中国政策の構想は、(大隈内閣を引き継いだ)寺内内閣における援段政策(国務総理・段祺瑞を援助し親日化させる政策)を導き、そこから派生して満洲における張作霖支配を導くことになった。日本は、中国における南北対立・軍閥抗争という分裂状態に積極的に関与し、資金と武器と謀略によって親日派を養成し、コントロールしようとしたのである。
  • 中国の国民国家形成と日本の対中政策の失敗
    • 1928年、国民党による北伐の完了と南京国民政府の成立は、中国の国民統合における大きな転換点になった。西欧列強は、中国の民族自決権に理解を示しながら自らの中国利権は守るというワシントン体制の二重性を解消し、国民政府を正統中央政府として承認すると同時に、中国の国権回復運動に譲歩を示す姿勢をとった。
    • この事態は日本を重大なジレンマに陥れた。国民政府が満洲=東三省を中国の一部として統合を目指す以上、満蒙における日本の「特殊な地位」が近日崩壊することは火を見るよりも明らかであった。いまや対中政策に障害となった張作霖を爆殺排除し、武力によってでも満蒙分離を強行しようとする関東軍の謀略は、田中義一内閣の崩壊、そして張作霖の跡目を相続した張学良による「易幟」により完全に失敗に終わる。この事態は、満蒙問題を梃子として成長をとげた関東軍にとってもその存在意義を問われかねない危機を意味した。
  • 石原莞爾の「満蒙領有論」
    • 来るべき世界総力戦を想定した高度国防国家の建設、その前提としての軍事・経済拠点たる満蒙全域の安定的支配の達成、と要約することができる。
    • …その目的達成のためには満蒙自治政権の樹立といった間接的方法ではなく、日本による領有=植民地化という直接的方法こそが必要であり、かつ「漢民族は自身政治能力を有せざるが故に日本の満蒙領有は日本の存立上の必要のみならず中国人自身の幸福である」(石原莞爾満洲国前夜の心境」角田順編『石原莞爾―国防論策―』90頁)と主張することにより、満蒙問題解決の正当性と方法を明快に提示したところに特徴があった。

満洲国」成立とその歴史的意義 ―ある歴史の終わり、そして新たな始まり―

  • 満洲国」成立が日本近代史に刻した歴史的意義
    • 第1、いわゆる満蒙全域を実質的に帝国支配下編入することにより懸案の「満蒙問題」を解決し、日本植民地帝国に一定の「完成」をもたらしたこと
    • 第2に、そうした帝国の拡大を直接的領有という旧来の方式ではなく、独立国家の樹立とその傀儡化という新しい方式で行ったこと
    • 第3に、満洲国における「成功」を通して、蚕食的分離処理方式とも呼ぶべき新しい侵略の方式を日本の軍事膨張主義に準備したこと
  • 「満蒙領有案」から「独立国家建国案」への転換
    • 国際的要因
      • 第一次世界大戦後の世界理論と「遅れてきた」日本帝国主義との妥協の産物として見る観点である……「非公式帝国」の新しい形は、西欧列強が「民族自決権」を誓約していることを考慮にいれたものであった…
    • 国内的要因
      • 満蒙問題解決の究極の目的が「高度国防国家体制」の構築にあるとすれば………体制革新の独立拠点をまず外に構築し、革新運動を外から内へ流し込むことが意図されたのである。「こうして満洲国国家体制は同時代の日本の政治体制の延長ではなく、逆に対立するアンチテーゼとして構想される。満洲が領土化されず、名目的にもせよ独立国家化されたことがそのことを可能にする」…「満洲国」において獲得されたこの「非公式帝国」の新しい形が、その後における日本の侵略拡大の基本形をなした…
  • 満洲から華北へ」欲望の肥大化をもたらした経済的要因
    • 満洲」経済の非自立性
      • 大豆輸出の主要部分はやがて日露外国人資本に担われるが、しかし生産・国内流通・消費の場面における中国人ネットワーク・システムに基本的な変更はなかった……日本による「満洲国」の創設は、このネットワークを人為的に切断するものであった。満洲農村経済を維持するにせよ、鉱工業開発を図るにせよ、華北労働者の流入ないし季節移動を禁止しては円滑な労働力供給を行いえない。そして彼らの生活必需品の供給と配給をすべて日本が負担しえない以上、人為的に切断されたネットワークは法の網を潜ってでも再生する。「満洲国」の創設、すなわち面としての満洲の支配は、点と線による満洲支配の時代には見えなかった満洲経済の非自立性を明らかにしたのである。
    • 満洲」資源の不完全性
      • 満洲が、必ずしも期待通りの資源潜在力を持たないことが、少しずつ明らかになった……満洲だけでは十分でない資源を確保したいという動きが生まれてくる。
  • 侵略の新方式〜「なしくずし的侵略」〜
    • その要点は、国際条約ないし協定を結びうるだけの形式的「独立性」の確保と統治者の「傀儡化」の達成、その結節点としての軍による「内面指導」方式の確立ということになろう。軍の統治石を伝達する「内面的指導」あるいは「内面指導」の回路は、主には軍に任命権を握られた顧問および(あるいは)日本人官吏を通じて行われた。

帝国の肥大と「満洲国」 ―満洲の日本化―

  • 民族自決という形式をとらざるを得ないが故の独立性の強調、建国理念の喧伝
    • 満洲国」建国が、関東軍武力行使と日本各層の打算の上に進められたことは誰の目にも明らかであった。しかしその際、内外事情を勘案して満蒙三千万民衆の総意による中華民国からの離脱=独立という形式をとらなければならなかった以上、建国の理念や国制に中華民国からの一定の継承性を示す一方で、露骨な日本色の押し付けにはある程度の自制をはかる必要に迫られた。「順天安民・五族協和・王道楽土」をスローガンとする道義立国の建国理念、あるいは「王道主義・民族協和の建国精神」が必要以上に喧伝されねばならなかった所以である。
  • 満洲国の日本化
    • …「満洲建国」が一種の革命段階から具体的な組織段階に入ると、ヒト・モノ・カネがあらゆる面にわたる日本内地との協力同心が不可欠であり、「満洲国」の独自性・独立性はその内実においても形式においても急速に色あせていく。
    • …「要するに外国を排除して満洲国を日本にとって日本国内と同一化したのが治外法権撤廃であり、これによって日本と満洲国の行政の一体化がはかられたのである」
    • 教育・学制における日本化もまた、1937年の学制改革(1938年1月より実施)がひとつの転機になった。
      • この改革においてここで注意すべきは、「学制要綱」において「日本語ハ日満一徳一心ノ精神に基キ国語ノ一ツとして重視ス」とされて、日本語が明確に満洲国「国語」と(しかも満語および蒙古語の上位語と)規定された…
      • 歴史教育では「我国及日本史実之大要」を教えるとして中国史および「建国以前」の満洲史はほぼ削除された…
    • 「国本奠定に関する詔書
      • …国民生活・国民意識における日本(人)化政策(外地=朝鮮・台湾におけるいわゆる「皇民化」政策の「満洲国」版)の上で決定的な転機をなす
      • 建国から8年、ここに満洲国の存立が天照大神の庇護と昭和天皇の援助によるものであることを認識し、日満「一徳一心」一体不可分の精神を確認すること、満洲国の建国元神を天照大神と定め、したがって政教の淵源が「惟神ノ道」(かんながらのみち)にあることが宣言された…

大東亜共栄圏」と「満洲国」 ―大東亜共栄圏の長子―

  • 大東亜共栄圏満洲
    • 日本帝国と有機一体となる満・蒙・北支を「中核体」ないし「自存圏」とし、その南方外延に広がる南支・南方圏を「外郭体」ないし「資源圏」とする構想は、「外郭体」の資源を開発利用する時間的余裕を持ち得ないまま潰え去った。そして結局のところは、「中核体」の内部がさらに「自存圏」と「資源圏」に分割・再編され、満洲国はその資源圏の「長子」として母国・日本に孝養を尽くすことを強く求められた。

むすび

  • 「公式植民地」の支配原理と「大東亜共栄圏」の支配原理の狭間で「満洲国」の歴史が示すもの
    • 近代日本は、多民族支配の環を次々と拡大しながら、その経験から多民族複合国家の原理を学びとることに失敗したという事実