以下気になった箇所まとめ
- 太平洋空間における自由貿易から大陸空間の計画経済へ(p.5)
- 独ソ不可侵条約で冷え込んだ日独関係の改善(p.5)
- 陸軍における北進から南進の転換(p.11)
- …波多野澄雄は、南進路線による日中戦争解決案がこの時期に浮上したとみる。「処理要綱」(※引用者註:大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」)の陸軍原案を海軍に説明した臼井謀略課長は、波多野のいう南進路線の典型的論者であった。いわく、独伊によって欧州・アフリカのブロック化が進められる一方、英国はといえば印度と豪州を基軸に米国とも協力して南太平洋に後方線を確保するはずなので、数年後には、戦略的経済的に鞏固な英米ブロックが南方に形成される。好むと好まざるとにかかわらず、日本は英米依存の経済を継続できなくなる。ならば、南方を含む経済的自給圏確立のため先手を打たねばならない、と。そして自給圏確立のための南方進出を可能にするため、対ソ安全感の獲得、日中戦争の終結、独伊との政治的結束が必要なのだ、との発想になる。この場合、極東英領と蘭印二地域へ武力行使は辞さないとされる。
- 日本の南進に対するアメリカの各勢力における対日態度の温度差(p.12)
- …米国は39年7月26日の段階で、11年に締結された日米通商航海条約の約半年後の廃棄を通告していた(40年1月26日失効)。廃棄通告1年後の40年7月26日、石油・屑鉄を輸出許可制適用品中に加えるといったんは発表した上で、同月31日、禁輸の対象を航空機用ガソリンと潤滑油に限定する旨の追加発表を行った。
- 禁輸に踏み切った米国側の動機として、宗主国敗北後の仏印・蘭印への日本による南進を牽制する意図があったのは確実だろう(仏印領土の日本通過と飛行場確保のための北部仏印進駐は40年9月22日)。
- だが牽制の方法をめぐっては米政府内において硬軟両派の対立があった。アトリーによれば、ローズヴェルト大統領は航空機動力燃料のみの禁輸に止めたかった。だが、経済的な強圧が日本の南進を止めうると考えた財務長官モーゲンソーは、より広範な禁輸、具体的には石油製品全般・屑鉄・鉄鋼の禁輸を発動しようと画策していた。しかし広範な禁輸は、「極東における自国の行動を正当化する口実」を日本に与えてしまうとの考えに立つ国務省の反対により、結果として7月31日の妥協的な決定が選択された。国務省は、日本に対して禁輸する航空機ガソリンのオクタン価を87以上と指定し(日本の航空機は86オクタン価を使用)、日本の実質的ダメージが極力少なくなるよう配慮していた。
- 近衛と革新派(p.14)
- …後に大政翼賛会東亜部副部長となる杉原正巳は、「革新」派が多数寄稿していた雑誌『解剖時代』を武藤章軍務局長の資金援助により刊行していた人物だったが……資本主義と共産主義を「近代の生んだ双生児」と呼び、「支那事変は、東亜の世界(国際資本主義及び国際共産主義的支配)に対する革命」だとし、「東亜共同体とは19世紀の旧い国際金融資本秩序、国際共産主義秩序の支配・被支配の関係に代わる第三秩序」だと謳った。中国へ影響力を持つ英ソ二国をともに批判し、返す刀で日本の現状を憂いて改革を迫る論調は、対外的危機意識に基づき国内改造要求を行った北一輝以来の伝統といい得る。
- 三国同盟調印の翌日、40年9月28日、近衛首相は「重大時局に直面して」と題しラジオ放送を行ったが、そこで展開された論理は「革新」派と同じものだった。いわく、「日支の紛争は、世界旧体制の重圧の下に起れる東亜の変態的内乱であった、これが解決は世界旧秩序の根底に横たわる矛盾に、一大斧鉞を加うることによってのみ、達成せらる」……近衛あるいは近衛放送の草稿起草者が「革新」派に寄せる共感は紛れもないものだった。
- 革新右翼と精神右翼の対立(p.16)
- …麻生ら革新右翼は、日独伊軍事同盟やソ連との抱合を支持し、経済面では利潤統制、資本と経営の分離を主張していたが、井田ら精神右翼は、「赤の排撃、ソ連の警戒を根本的主張」とし、「支那事変の急速処理、南方進出の危険性、英米との開戦不可」を主張していた…
- …革新官僚の主導によって制定された会社経理統制令に対し、財界は、資本主義の根幹を揺るがすものとして強く反対し、40年秋から新体制「赤」論という、わかりやすい方法で反撃を始めた。内務省もまた、国民組織における地方組織支部長を知事とするように圧力をかけ、町内会・部落会を末端組織として組み込むよう強く要請した。このような状況下に、精神右翼や財界など、「革新」派の政策に反対する勢力が多数派形成に動いた。
- 東南アジアにおけるドイツ封じのための三国同盟締結(pp.18-19)
- 河西晃祐は、外務省が同年(引用者註:1940年)七月、戦争が独伊の勝利で終わるのを予期し、講和会議に備えるため「戦時対策及平和対策委員会」設置に動いていたことに注目する。
- 仏印・蘭印が戦勝国ドイツに占領されてしまうことを恐れた外務省の見方は軍にも共有されていた。7月12日と16日、陸海外三省間の係官会議において、外務省欧亜局第一課長安東義良が「独逸ハ「蘭印」ノ東ヲ日本ニ提供スル意ガアルト言フテヰルガ、之ヲ逆ニ言ヘバ爪哇〔ジャワ〕、「スマトラ」等ハ独逸ガトルコトヲ意味スル」と警戒すれば、陸軍省軍務局軍務課外交班長高山彦一もまた「今ノ所日本トシテハ独逸ガ仏印蘭印ヲモ政治的ニトラントスル意向ノモノトシテ考ヘ、之ニ対処シナケレバナラヌ」と応じていた。
- 日本は、戦勝の勢いに乗るドイツの影響力を東南アジアから排除するため対独接近を図ったといえる。同盟締結が「ドイツ封じ」の意味を持っていたことについてはすでに義井博、細谷千博、井上寿一、森茂樹らの研究によって明らかにされてきたが、河西はそれを一歩進め、この時期多用された「大東亜共栄圏」の意味を「植民地宗主国を抑えたドイツによる東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるためのステートメント」と見た点に面白さがある。
- 松岡外交の楽観論と現実(p.21)
- …松岡は次のような楽観論を展開していた。いわく、「独領委任統治をタダで、旧独領南洋諸島を無償とは言わぬが日本に貰ふ」。石油はソ連やルーマニアが供給してくれるはずであり、北樺太の石油についても日本に供給するようドイツがソ連に斡旋してくれるだろう、というのだ。
- だが二ヵ月後、松岡の期待は崩れ去る。ドイツ外相リッベントロップは11月13日(※引用者註:1940年)、ソ連外務人民委員モロトフに対し、三国同盟にソ連も加わるように、四国協商案を提示した。しかしソ連は、四国協商案への加入条件としてドイツの許容範囲を大きく超える要求をして、ヒトラーを激怒させたが、その中には、北樺太における日本の石炭・石油利権の放棄が要求項目として含まれていたのである。
- 日独伊ソ四国構想=ユーラシア大陸ブロック構想+中国蔣介石政権(p.24)
- …ヒトラー自身も、同月(※引用者註:1940年11月)12日と13日、ソ連外務人民委員モロトフに対し、「日中関係の調整に配慮するのはロシアとドイツの任務」と語り、日独伊ソ四国構想=ユーラシア大陸ブロック構想に中国も加えうることを示唆していた。
- ドイツの抱く四国構想が空虚なものではなく、中国側もまたその可能性を真剣に考慮していたことについては鹿錫俊による研究がある。それによれば、11月15日、蔣は「今日の外交政策には英米路線、独日路線、ソ連路線という三つがある」と日記に書き、独日路線に着手するための方策として、張季鸞を香港に派遣し、外務省東亜局が進めていた銭永銘(浙江財閥重鎮)工作に応じさせる命令を下した。和平交渉に入る前提として蔣が提示した、日本軍の撤兵と汪政権承認延期の二条件を日本側は了承した。日本側が了承した背景には、一旦は撤兵を約して交渉に入り、日中攻守同盟条約を締結して条約駐兵として身を取れるとの考えがあった。同月27日の日記において蔣は、日本がこれまで蓄積してきた対中侵略の果実を簡単に手放すはずはないとの疑惑にとらわれるが、一方、「かつて山東を返還し、現在ソ連に譲歩した日本」であれば、戦争継続の困難を自覚して妥協するのではないか、との楽観的な判断を下していた。蔣が日本との講和を真剣に考えていたことは、11月4日、中国共産党の毛沢東がコミンテルン書記長のディミトロフに宛てた至急電で、蔣介石が日本に投降しようとしているとの危惧を述べていたことからも裏付けられる。だが、独日路線を選択しかけた蔣の希望を絶ったのは日本側だった。11月28日の大本営政府連絡会議の席で松岡は、本工作を打ち切り、汪政権を承認する旨を宣言したのである。
- この時期、日独伊の三国は総じて、「破産したイギリスの総資産」を山分けすることを前提に勢力圏分割構想を抱いており、10月3日に日本外務省が作成した「日ソ国交調整要綱案」もそのような発想で書かれている。ただ、ドイツの対ソ勧誘は、11月26日のモロトフの、法外な対独要求によって頓挫した。12月18日、ヒトラーは対ソ戦争準備命令を出し、ここに、日独伊ソ四国構想=ユーラシア大陸ブロック構想は潰えたのである。
- 南部仏印進駐と米国の対日禁輸(pp.27-28)
- …9月6日の御前会議決定「帝国国策遂行要領」は、日本による南部仏印進駐(7月23日、飛行場・海軍基地確保、軍隊と艦艇の派遣に関する日仏合意妥結)に対してアメリカが取った7月25日の在米日本資産凍結、8月1日の石油全面禁輸措置に対処するため、海軍側が8月16日に提示した新国策案を基礎として成立した。米国に加え英・蘭印が全面禁輸に加わったことは、かねてからの海軍側の武力発動要件に照らせば、「自存自衛」を脅かす外的条件が揃ってしまったことを意味した。
- 日本軍の南部仏印進駐に対し、アメリカが石油の全面禁輸で応ずることを、軍部は予想していなかった。戦争指導班は7月25日、「当班全面禁輸トハ見ズ。米ハセザルベシト判断ス」と書いていたが、上欄に後日記入されたと思われる赤字での書き込みには「本件第二十班ノ判断ハ誤算アリ。参謀本部亦然リシナリ」と、予想が間違っていたことを認める記述を残している。
- 石油の全面禁輸を行うことは日本内部の強硬派にアメリカ非難の絶好の口実を与えてしまうと警戒していたハル国務長官や、「禁輸は日本のマラヤ、蘭印攻撃を早めアメリカを太平洋で参戦させる。アメリカは太平洋で参戦するにしても日本が対ソ戦をはじめるまで待つべきである」と考えていたスターク海軍作戦部長の反対を押し切って、アメリカが全面禁輸の挙に出たのはなぜなのか。グルー駐日大使の伝記の著者として知られるハインリックスは、このアメリカの行動の裏面にソ連支援の緊急性をみている。アメリカは、日本を南に牽制しておくことで北進の気運をそごうとしたのであろう。事実、参謀本部は41年8月9日、年内の対ソ開戦を断念していた。大統領は7月26日、特使をソ連に派遣した上で対ソ経済援助開始を決定し、10月1日、米ソはソ連への武器貸与を決定するとともに「アメリカの援助の代償は、ロシアの防衛が提供するアメリカの安全保障への貢献」と位置付けた。
- 防共駐兵問題に固執したがゆえの日米交渉の決裂(pp.30-31)
- …大統領は、日本が基礎的要件に同意すると声明すれば、停戦交渉の席に着くよう中国政府に慫慂する。その要件としては、日中間で早期に締結される協定による撤兵、非併合、無賠償、「満洲国に関する友誼的交渉」が掲げられており、防共駐兵については今後協議したいとの旨が記されていた……日本側は9月6日の御前会議決定「帝国国策遂行要領」に付随する、別紙「対米(英)交渉二於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項」の一項として、「支那事変二関スル事項」を入れ、次のような決定を行った。いわく、「米英ハ帝国ノ支那事変処理二容喙シ又ハ之ヲ妨害セサルコト」とした上で、(注)として「右ハN工作〔野村駐米大使による日米交渉を指す〕二於ケル支那事変処理二関スル帝国従来ノ主張ヲ妨クルモノニアラス。而して特二日支新取極二依ル帝国軍隊ノ駐屯二関シテハ之ヲ固守スルモノトス」…と書いた…9月6日の御前会議決定で、防共駐兵問題が固守すべき条件と書かれてしまったことは、日中関係打開を図るために米国に仲介を依頼すべく始まった、日米交渉の命脈が、ここに尽きたことを意味している。