山中恒「「少国民」たちの植民地」(『岩波講座 近代日本と植民地7』岩波書店、1993年、pp.57-79)

  • 本稿の趣旨
    • 少国民世代に付与された植民地教材(教科書や児童書)は、植民地が内包する様々な問題を見て見ぬ振りさせる効果を持つものであった。

以下本文より

  • 1930年代の少年向け娯楽小説及び漫画事情(pp.67-69)
    • …1930年代というのは、大日本雄弁会講談社の少年向け娯楽雑誌少年倶楽部』が黄金期を迎えた時期でもあった。満州事変に刺激されたかのように、連載の山中峯太郎平田普策の愛国軍事小説が子どもたちの人気をよんだ。これらの小説の仮想敵国はソビエトであったり、アメリカであったりした。子どもばかりではなく、大人も愛読したといわれている。また田河水泡のマンガの主人公『のらくろ』が猛犬連隊に入隊して子どもたちの人気を集めはじめたのもこの時期である……1930年代半ばになると低廉なマンガ本が、夜店や祭礼の露店で売られるようになった。いわゆる「赤本マンガ」である。そのうちの春江堂・中村書店・富永興文堂・金井信生堂などの発行のものは一般書店でも売られた。これらのものは今ではマンガ・マニアのコレクターとターゲットになっているが、これは子どもたちのお祭りのお小遣いやお年玉によって買われた一種の印刷玩具のようなものであった。先に名前をあげたのは、マンガ出版の大手であるが、そのほか、出版者や作者の名前も印刷していないような露店商向きの出所不明のきわめて怪しげなものも数多く出回った。その中には日清戦争当時の『支那征伐呆痴陀羅経』まがいの、悪ふざけのはなはだしい戦争マンガもあった。
  • 内務省警保局図書課「児童読物改善二関スル指示要綱」(1938年10月)の影響(pp.70-71,p.74)
    • …子ども向け出版物にブレーキをかけたのが、内務省警保局図書課の「児童読物改善二関スル指示要綱」(1938年10月)であった。これは「廃止スベキ事項」、「編集上ノ注意事項」の二項目からなっていたが……すべての児童向け出版物を国策にそった教育資材に仕立てるということであった。…これにより児童書の様相は次第に、娯楽性のうすい、生真面目なものへ移っていった。
    • …思わぬ隆盛を迎えたのが、文芸派の児童文学で、次第に娯楽的児童読み物やマンガを駆逐し始めた…子ども向けの出版物の傾向は変わりはじめていた。これまで『少年倶楽部』などによって娯楽的読み物を発表し続けてきた作家たちは、もともと成人向けの読み物を書いていた作家たちなので、次第に子ども向けの雑誌や図書から撤退を始め、成人向けへ移行していった。編集傾向も強力に「指示要綱」にそい始めたのである。その結果、大衆的娯楽読み物の作家に代わって、きわめて国策的な訓育臭の強い文芸派の児童文学作家の登場となった。当時、満州ものの第一人者といわれた石森延男であるとか、帰還軍人作家の西田稔、もとセツルメント・アクチブだった松永健哉、あるいは二反長半といった作家たちである。
    • 国策色の強くなった子ども向け雑誌や図書は「東亜新秩序」をうたい、これを妨害しているものは、アメリカやイギリスであると書き始める。
  • 少国民」の誕生(pp.74-75)
    • 1941年4月、初等教育学校の臨時体制といわれた国民学校制度が布かれる。教科書も一挙に軍事色の濃厚なものとなった。またマスコミなどでは、これまでの「児童」という名称を「少国民」とし始める。この年の12月、日本軍はそのアメリカ・イギリスを敵に回して新しい戦争を開始する。当時、日本側では「大東亜戦争」と呼称された太平洋戦争の勃発である。
    • それから二月後の1942年2月、内務省・文部省・情報局・大政翼賛会のきもいりで日本少国民文化協会が設立された。この組織は、その定款第三条に「本会は皇国の道に則り、国民文化の基礎たる日本少国民文化を設立し、もって皇国民の錬成に資するを目的とす」とあるように、これまで児童文化の名称でよばれていたもののすべてを皇国民の錬磨育成の資材とすることにしたのである。
    • 皇国民というのは、単純に天皇の臣民という意味ばかりではなく、積極的には、八紘一宇の皇謨(世界じゅうを天皇の威光のもとにひれふせさせるという天皇の計りごと)を実現するために命を投げ出して働く臣民という意味である…