- この本の特徴
- 日本の戦争を欧米の侵略に対する抵抗であったと正当化し、シベリア抑留がソ連の国家的犯罪であるとする論調。
1.内容の要約
まえがき
- 本書の目的
- シベリア抑留が少しでも多くの現代人に知られること。
- シベリア抑留とは何か
- 概要
- 捕虜の取り扱いについて
- 抑留者への思想教育について
- 抑留期間
- 著者による章立ての説明
- 1章
- 2章
- 3章
- 4章
- 「抑留者が途端の苦しみを味わった飢餓、重労働、酷寒の「シベリア三重苦」を体験記とソ連側の資料を基に詳述した」
- 5章
- 「シベリア三重苦がもとで病気や怪我にみまわれても、医療が貧弱なため多くの犠牲者を出したことと、死者の扱いも杜撰で冒涜的なものだったことを明らかにした」
- 6章
- 7章
- 「抑留者の切なる願いである帰国(ダモイ)をめぐる日ソ交渉および引揚げの経緯と、スパイとして日本に送り込まれた抑留者について記した」
- 8章
- 「「戦犯」として裁かれ最長で11年間獄窓につながれた長期抑留者が無実の囚人であった事実と、抑留者の抵抗運動としてのハバロフスク事件、そして大きく遅れたダモイについて詳しく記した。」
第一章 ロシアの領土拡張およびソ連共産主義−シベリア抑留の前史
- 1.西力東漸化−アジアはヨーロッパの植民地だった
- ヨーロッパのアジア進出から500年
- ヨーロッパは13世紀にはモンゴルにより東方を塞がれ、続いてオスマン・トルコから圧迫を受けたので出口は西の海しかなかった。15世紀末、イベリア半島のスペイン、ポルトガルを筆頭にして大航海時代が始まり、教皇子午線・トルデシリャス条約・サラゴサ条約等によりスペイン、ポルトガルの進出範囲が定められた。スペイン、ポルトガルに対抗して、イギリス、フランスも北米大陸に進出し、次いでオランダとともにアジア進出を図った。アジアは19世紀までに日本とタイと中国を除いてことごとくヨーロッパ列強の植民地となった。
- ロシアは「タタールの軛」によりモンゴルの支配下にあったが、1480年にモスクワ大公国のイヴァン3世がモンゴル支配から脱し領土の拡大を始めた。雷帝イヴァン4世は領土の東方拡大を推し進め、以後400年余りでロシアは帝国主義的領土拡大を果たした。
- ヨーロッパとロシアは海路と陸路でアジアに進出して植民地化しようとした。これを「西力東漸」と著者は呼ぶ。
- アメリカのアジア進出
- アメリカは、 東から西へと膨張し、メキシコからテキサス(1845)、カリフォルニア(1848)を奪って太平洋岸に達すると、続いて日本へペリーを派遣し砲艦外交を展開(1853)。1898年にハワイを獲得すると同年米西戦争でスペインに勝利しグアムとフィリピンを入手。さらに中国へ進出するため、機会均等と門戸開放を唱え、日本の国益と対立した。著者はこれを「米力西漸」と呼ぶ。
- ユーラシア大陸の東端と太平洋の西端に位置する日本は「東西冷戦」の熾烈な思想戦の最前線となった。シベリア抑留の日本人の悲劇は世界史的に考えると「西力東漸」「米力西漸」の力学が生み出した。
- 戦前の日本では欧米500年の侵略史を認識していたが、GHQの政策によりそれを忘れ、祖国日本を侵略国と貶める戦勝国史観に侵されている。
- 日清戦争以来の日本の戦争の本質は欧米勢力の侵略に対すること。大東亜戦争でも日本は植民地宗主国と戦ったのであってアジア住民とは戦っていない。
- 戦後アジア諸国は宗主国と独立戦争を戦い、残留日本人が支援するなどしたが、GHQにより報道統制された。そのため多くの日本人は今でも知らないままである。アジアの多くは親日国。
- 日本は占領を経て法的には1952年に独立国家となったが、政治的、軍事的、精神的に他者依存の保護国(半独立国)に留まったまま。
- ヨーロッパのアジア進出から500年
- 2.ロシアの東征と南下−樺太、千島、満洲、朝鮮へ
- ロシアはコサックを尖兵として、毛皮、有用鉱物(金)、不凍港を求めて東征と南下を続けた。17世紀には清国によりサハリン、アムール川で防がれるも、19世紀半ばにはアイグン条約でアムール川左岸、北京条約でウスリー川東岸を獲得し、満洲と朝鮮に接した。千島列島には18世紀に南下が始まり、1738〜39年に色丹島に上陸した。こうして18世紀末から19世紀にかけて満洲、朝鮮、樺太、千島列島で日本と接触するようになった。シベリア抑留はこの4地域から行われた。
- 樺太と千島
- 1768 コサックのチョールヌイ、ウルップ島に来て、アイヌにヤサーク(人頭税)を課す。
- 1778 シャバーリン、根室に来航。
- 1779 シャバーリン、厚岸に来航。松前藩吏に交易を求める。日露の最初の公的な接触。
- 1785 徳川幕府、最上徳内らを千島調査に派遣。
- 1789 クナシリ・メナシ事件発生
- 1792 ラクスマン、大黒屋光太夫らとともに根室に来航。幕府は国書は長崎以外では受け取れないと拒否。
- 1798 幕府、大規模な調査隊を千島に派遣。近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。
- 1799 東蝦夷地とともに千島を幕府直轄化。
- 1804 ロシア帝国の正式な使節としてレザノフ来航。長崎に入港するが交易を拒否される。
- 1806〜07 フヴォストフ事件。06年に樺太の大泊を攻撃し、07年にエトロフ島のシャナを攻撃。
- 1811〜13 11年、ゴロヴニンが国後島に上陸するが捕縛される。副艦長リコルド、拿捕した高田屋嘉兵衛との交流により13年にゴロヴニンの釈放を実現。
- 1853年8月 プチャーチンを長崎入港。第一次交渉は失敗。
- 1853月9月 同年4月にサハリン島の占領命令を受けていたネヴェリスコイが9月に一時的に占拠。
- 1854年末 第二次交渉。千島はエトロフ島とウルップ島の間を境界とし、樺太を従来通りとすることで合意。
- 1855年 日露和親条約締結。
- 1868年 明治維新
- 1874年 樺太千島交換条約。樺太島と占守島からウルップ島までの千島18島との交換で合意。
- 満洲と朝鮮
- 満洲について…満洲、万里の長城以北は「夷狄」の住む化外の地。原住民はツングース系ジェシェン族。「遼」「元」「金」「女直」「後金国」「大清」が興亡。清国はジュシェン族の征服王朝。1740年には漢人の満洲への移住を禁ずる「封禁令」を出したが、ロシアの南下に対抗して1900年に漢人の移住を許可。
- 日清関係について…1871年日清修好条規を結び、両国は国交を開く。日本は朝鮮半島をめぐって、華夷秩序のもとで東アジアに冊封を敷く清と対立。1894年、東学党の乱を契機に日清戦争勃発。下関講和条約で朝鮮を独立させ、清から遼東半島、台湾、澎湖諸島を手に入れた。
- 日露関係について…ロシアは三国干渉により日本に遼東半島を放棄させると、満州、朝鮮への進出を加速させる。1896年の露清同盟密約で東清鉄道敷設権を獲得、1898年には旅順・大連の租借権を得て、ハルビン-旅順間の南部支線敷設権を獲得。義和団事件を契機に1900年末には満洲を制圧し占領下に置く。
- 英露対立について…ロシアの満洲進出に脅威を覚えた日本とロシアは1902年に日英同盟を結ぶが、日露戦争は英露対立の代理戦争。19世紀はイギリスとロシアが対立する「グレート・ゲーム」の時代。ロシアは不凍港を求めてオスマン・トルコ、ペルシャ、アフガニスタン、清国、朝鮮に南下を試みイギリスと対立していた。グレート・ゲームは1907年に英露協商が成立するまで続く。
- 日露衝突
- 日露戦争…1904年に日露戦争が勃発し、1905年のポーツマス条約で、日本は朝鮮における優越権、遼東半島(関東州)租借権、長春-旅順間の鉄道の経験、南樺太の譲渡を得る。以降、後の関東軍となる軍隊を駐留させ、満鉄を設立。1907年から16年までの4次にわたる日露協約を結び、北満洲をロシア、南満洲を日本の勢力範囲とし、日本の朝鮮支配、ロシアの外モンゴル支配を相互承認した。
- 韓国併合…日韓議定書(1904)、第一次日韓協約(1904)、第二次日韓協約(1905)を結んで保護国化を進める。1909年、韓国統監伊藤博文が暗殺されると、翌10年日韓併合条約により朝鮮を併合。
- シベリア出兵…1917年ロシア革命が勃発。翌18年極東への共産主義の波及を怖れ、米英などと強調し、チェコ軍団救援という名目でシベリアに出兵。アメリカなどは1920年で撤兵し始めるが、日本は同年5月の尼港事件を契機に北樺太を保障占領。最終的に1925年5月に撤兵。
- 辛亥革命…1911年に辛亥革命が起こり、翌12年に中華民国臨時政府が成立して清朝は滅亡。孫文のあと袁世凱が中華民国大総統に就任したが、帝政の復活を図って専制君主化し、その死後は軍閥割拠状態となる。
- 満洲国建国…満洲には軍閥の張作霖がいたが、蔣介石北伐を開始すると劣勢となり、1928年に奉天郊外で爆殺される。1931年、関東軍は柳条湖で満鉄路線を爆破させ、それを中国軍の仕業として攻撃を開始し、全満洲を占領。1932年に満洲国建国。1933年、国際連盟は満洲国不承認を決議したため、日本は連盟を脱退。1934年、満洲帝国成立。
- 満蒙開拓団とシベリア抑留…第一満蒙開拓計画に基づき、1932年から試験移民が5次にわたって行われる。1936年、100万戸移住20カ年計画が策定され、日本全国から満蒙開拓団が募集された。満洲では1945年6月から15万人が「根こそぎ動員」とされ、そのうち5万人がシベリアに抑留されるなど多くの犠牲者を出した。
2.著者の主張、見解の抽出
まえがき
- 著者の主張
- シベリア抑留を日本人の悲劇としてとらえ、この出来事が多くの現代人に知られることを望む。
- 著者の見解
- ソ連の対日参戦を、火事場泥棒的な侵攻と捉える。(p.22)
- 日本の敗戦を8月15日とし、シベリア抑留が敗戦後に起った戦争悲劇であると点線まで打って強調。(p.23)
- 日本の復興を奇跡的なものであると認識(p.26)
第一章 1節
- 著者の主張
- 著者の見解
- 大航海時代のスペインとポルトガルから、領域を囲い込もうとする思想が生まれ、その後アジア・アフリカの植民地支配に引き継がれたと認識する。(p.28)
- 米西戦争後にアメリカはシナと満洲の権益を求め、日本に対して機会均等と門戸開放を唱えたため、両国の国益が対立して、太平洋戦争へと突き進んだとする。(p.30)
- アメリカの「明白なる天明」はナチスドイツの人種主義と同じであると認識している。(p.31)
- アジアで唯一近代化を成し遂げて植民地化をまぬがれた国として日本を捉えている。(p.31)
- 1940年の地図なのにバルカン半島がユーゴスラヴィアではなく解体された後の国境線。インドも第二次世界大戦後にパキスタン、バングラデュと分離したのにもう既に国境線引かれている。1940年なのに現代の国境線とごちゃまぜに認識している(pp.32-33)
- 戦前の日本は欧米のアジア侵略を認識していたが、GHQの焚書政策により戦後の日本人は欧米のアジア・アフリカ侵略の歴史をほとんど忘れた。祖国日本を侵略国家と貶める戦勝国史観に侵されているとしている。(p.34)
- 欧米勢力が地球のすべての地域を征服し支配しようとしたとき、その完成直前にひとり抵抗したのが日本であり、それが日清戦争以来の日本の戦争の本質だった、と認識している。(p.34)
- 日本は、占領を経て、講和条約により法的には1952年に独立を果たしたものの、政治的、軍事的、精神的に他者依存の保護国(半独立国)に留まったままだとしている。(p.35)
第一章 2節
- 著者の主張
- 著者の見解
- 樺太千島交換条約の際、千島は占守島からウルップ島までと規定されたので北方4島は千島ではないとする。(p.40)
- 清国は征服王朝なので、シナは満洲族の植民地となったとする。(p.41)
- 日露戦争を日本の「歴史的勝利」と認識。フィンランドやバルト諸国も日本の勝利に喝采を送ったとする。(p.43)
- 朝鮮(韓国)が日本に併合されたのは、朝鮮が事大主義を取り自立しようとしなかったからとする。(p.44)
- 張作霖爆殺事件の首謀者に関して、関東軍参謀河本大作による謀略という定説に対し、コミンテルンや張学良による謀殺説(※出典なし)が提起されているとしている。(p.45)
- 満洲事変の背景にシナによる激しい排日侮蔑があったといわれている(※出典なし)としている。(p.45)
- 満洲国における人口増加について漢人は毎年100万人増加していたと述べ(※出典なし)、その理由として軍閥が割拠し内戦が続くシナよりも治安が良く経済が大きく発展していた満洲を選んだと分析している。(p.46)
3.語句説明
- 社会主義(p.23)
- 「この言葉はオーウェンに始まるといわれるが、社会的不平等の根源を私有財産に求め、それを廃止ないし制限して全体の福祉を図ろうとする思想をいう。古くはプラトンやモアが思想的先駆者とされるが、実際の運動として発展するのは産業革命で労働者階級が発生してからである。オーウェン、サン=シモン、フーリエが代表者で、のちマルクスの思想が主流となった。これと並んでプルードン、バクーニン、クロポトキンのアナーキズムもあり、19世紀末にはベルンシュタインの修正主義が現れ、今日の西ヨーロッパの社会民主主義に発展した。20世紀にはロシアでレーニンによって共産主義となって、世界に拡大した」(『世界史小辞典 改訂新版』2004、山川出版社、p.301)
- 共産主義(p.23)
- 社会主義と共産主義の違い
- 「…マルクス主義において,社会主義という用語は狭義には生産手段の共有がみられるものの,なおも一定の社会的不平等の残存する段階をさして,共産主義の前段階を社会主義と位置づけることもある…」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 https://ord.yahoo.co.jp/o/dic/RV=1/RE=1523758080/RH=b3JkLnlhaG9vLmNvLmpw/RB=/RU=aHR0cHM6Ly9rb3RvYmFuay5qcC93b3JkLyVFNyVBNCVCRSVFNCVCQyU5QSVFNCVCOCVCQiVFNyVCRSVBOT9kaWM9YnJpdGFubmljYQ--/RS=%5EADBDyNzkVxIIpPsG0LnE0O1ijFX.rU-;_ylt=A2RCKw1_YtFacnIAsABUmfd7)
- 社会主義は「資本主義から共産主義へと続く第一段階としての社会体制。各人は能力に応じて働き、働きに応じて分配を受ける」、共産主義は「プロレタリア革命によって実現される人類史の発展の最終段階としての社会体制。そこでは階級は消滅し、生産力が高度に発達して、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるとされる」(デジタル大辞泉 https://ord.yahoo.co.jp/o/dic/RV=1/RE=1523758167/RH=b3JkLnlhaG9vLmNvLmpw/RB=/RU=aHR0cHM6Ly9rb3RvYmFuay5qcC93b3JkLyVFNyVBNCVCRSVFNCVCQyU5QSVFNCVCOCVCQiVFNyVCRSVBOT9kaWM9ZGFpamlzZW4-/RS=%5EADBaLEsS_QORtD.gYu7LHg_l98u_zU-;_ylt=A2RCCzHWYtFahk8A0AZUmfd7)
- 「満洲」 (p.24ほか)
- 「1945年以前に日本が満洲と呼んでいました地域には…ジュルチンという民族が住んでおりました。この民族は、マンジュ菩薩を信仰していましたので、漢字を用いるようになってから、このマンジュに同音の満洲…の字を宛てました。そして17世紀の初めに建州女直の太祖ヌルハチ(姓は愛新覚羅)は…女真(女直)属全体を統合して建てた国家をマンジュ=グルン(Manju Gurun 満洲国・満殊国)と称することと…しました…1636年に太宗ホンタイジ(皇太極)が国号を大清と改めたことによって、マンジュは国号ではなくなり、以後は…民族名として用いられることになりました。…「さんずい」が付けられたのは王朝としての正統性弁証ともかかわって重要な意味をもっていたことを考える必要があります。中国の王朝は自らの正統性を「木、火、土、金、水」の五行によって示しますが、清の王朝の前である明は「火」をシンボルとして「火徳」の王朝でした。これを倒して建てた清王朝は、火に勝る水をシンボルとして「水徳」の王朝としましたから、王朝名もさんずいの清、民族名もさんずいの満洲としました。…地理的名称として満洲と呼ぶようになった経緯は…『華夷変態』…における記述の変遷のなかに窺い知ることができ…1687年には「康煕帝の本国満洲」あるいは「大清の本国満洲」となって韃靼の代わりに地域名としての満洲が使われ、以後この用法が定着していったようです」(山室信一『キメラ−満洲国の肖像 増補版』2004、中央公論新社、pp.318-322)
- 日本の外務省が2014年3月、外部の調査会社に委嘱して実施したアセアン七カ国の意識調査(p.36)
- 「外務省は,IPSOS香港社に委託して,本年3月に,ASEAN7ヵ国(インドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポール,タイ,ベトナム,ミャンマー)において対日世論調査(各国において18歳以上の識字層約300名を対象にオンライン方式で実施)を行ったところ,結果概要は以下のとおりです。」(外務省の公式webサイトよりhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press23_000019.html)
- 「IPSOS」とは「世界第3位のグローバル・マーケティング・リサーチ会社です。パリに本社を構え、世界88カ国でリサーチ・サービスを提供しています」(イプソス株式会社公式webサイトより https://www.ipsos.com/ja-jp/management)
- クナシリ・メナシ事件(p.38)
- 「1789年5月、クナシリ(国後)・メナシ(目梨)地方で起きたアイヌの蜂起。この地域は飛騨屋九兵衛の請負場所であったが、蜂起の原因は過酷な漁場労働や出稼ぎ番人たちによる慣習を無視した横暴であった。アイヌ130人が参加し、場所の支配人・番人・稼方の者、飛騨屋手船の船頭・水主、および松前藩上乗役人の計71人を襲って殺害した。松前藩は鎮圧体を根室半島のノッカマップに陣取らせ、クナシリのツキノエ、ノッカマップのションコ、厚岸のイコトイらの協力をえて蜂起参加者を投降させた。この蜂起はロシアの南下を危惧する幕府に衝撃を与え、蝦夷地幕僚化への契機となった」(『日本史小辞典 改訂新版』山川出版社、2016、p.271)
- 事大主義(p.41)
- 小中華
- 河本大作(p.45)
- コミンテルン(p.45)
- 「共産主義インターナショナル(Communist International)の略称。第3インターナショナルともいう。1919年3月レーニンが創設し、中央集権体制のもとに各国共産党に直接に指導した。20年末までは世界革命をめざす急進的政策をとったが、ドイツ革命が挫折すると、21〜28年には社会民主主義政党との統一戦線による革命の道が模索された。また、植民地や従属地域における民族解放運動を革命運動に発展させることがめざされ、この観点から中国革命に介入した。29年以降、社会民主主義政党とファシズム政党を同列において攻撃する極左戦術をとったが失敗し、34年以降は一転して人民戦線戦術を採用して、フランスとスペインで政権樹立に成功した。第二次世界大戦中の43年5月にソ連の政策転換によって解散した。」(『世界史小辞典』山川出版社、2004、p.251)
4.考察 (筆者の主張・見解の妥当性)
筆者の見解の妥当性
- ソ連の対日参戦を、火事場泥棒的な侵攻と捉える。(p.22)
- 日本の復興を奇跡的なものであると認識(p.26)
- アジアで唯一近代化を成し遂げて植民地化をまぬがれた国として日本を捉えている。(p.31)
- 1940年の地図なのにバルカン半島がユーゴスラヴィアではなく解体された後の国境線。インドも第二次世界大戦後にパキスタン、バングラデュと分離したのにもう既に国境線引かれている。1940年なのに現代の国境線とごちゃまぜに認識している(pp.32-33)
- 戦前の日本は欧米のアジア侵略を認識していたが、GHQの焚書政策により戦後の日本人は欧米のアジア・アフリカ侵略の歴史をほとんど忘れた。祖国日本を侵略国家と貶める戦勝国史観に侵されているとしている。(p.34)
- 欧米勢力が地球のすべての地域を征服し支配しようとしたとき、その完成直前にひとり抵抗したのが日本であり、それが日清戦争以来の日本の戦争の本質だった、と認識している。(p.34)
- 樺太千島交換条約の際、千島は占守島からウルップ島までと規定されたので北方4島は千島ではないとする。(p.40)
- ヤルタ協定におけるソ連の対日参戦の条件として千島列島の引き渡しが認められており、サンフランシスコ条約でも日本は千島列島を放棄している。日本政府は放棄した千島列島に北方4島は入っていないので日本の領土であるというロジックなので、この本の著者は樺太千島交換条約を根拠に千島列島に北方4島が含まれないのだと強調しているのだと思われる。
- しかし連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号では、千島列島、歯舞群島、色丹島は日本の行政範囲から省かれている。日ソ共同宣言では、平和条約締結の際に、歯舞と色丹を日本に引き渡すことになっている。よって平和条約締結以前に歯舞群島及び色丹島をソ連が支配することは日本とソ連の間の了解事項と判断できる。
- 千島列島の範囲として、樺太千島交換条約第二款を引用し、クリル列島とは占守島から得撫島とされていることを根拠とすることがある。しかし、この文言解釈による主張は、条約として効力の無い日本語訳文をもとにしており、フランス語正文とは解釈に齟齬がある。
- そもそも東アジアの伝統的な国際秩序は冊封体制であり、主権国家体制ではなかったので、明確な領域を囲い込むという概念自体がなかった。だからこそ明治新政府が国境確定事業をおこなっている。
- 朝鮮(韓国)が日本に併合されたのは、朝鮮が事大主義を取り自立しようとしなかったからとする。(p.44)
- 張作霖爆殺事件の首謀者に関して、関東軍参謀河本大作による謀略という定説に対し、コミンテルンや張学良による謀殺説(※出典なし)が提起されているとしている。(p.45)
- 清朝選書版の『シベリア抑留』には張作霖爆殺事件の陰謀説に関する出典は記載されていなかったが、同著者の『シベリア抑留全史』(原書房、2013)には出典があった。
- 同著者の『シベリア抑留全史』(原書房、2013)の出典で、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ(土屋京子訳)『マオ : 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』(講談社、2005)と加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書、2011)が挙げられていたので参照したが、下記の通りであり、これを根拠とするのは不適当ではないか。
- 上記『マオ(上)』ではp.300の脚注に「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」と出典もなく記してあるだけである。『マオ』では奥付に注釈、参考文献一覧および翻訳引用文献はインターネットの専用サイトから無料でダウンロードできますとあり、URLとしてhttp://shop.kodansha/bc/books/topics/mao/が記載されているが、このURLはリンク切れとなっている(2016年4月16日19時58分現在)。
- 満洲国における人口増加について漢人は毎年100万人増加していたと述べ(※出典なし)、その理由として軍閥が割拠し内戦が続くシナよりも治安が良く経済が大きく発展していた満洲を選んだと分析している。(p.46)
- 満洲国における漢人の人口増加は治安の良さと経済発展のためか?日本の満蒙開拓団が季節労働者や小作人を必要としたからでは?
- 「開拓民が農業技術をほとんど持たない……農業経験も乏しく、技術も持たない開拓民は、畑作を行うに際して、近隣の中国人農家のやり方を見よう見まねで模倣するしかなかった。結果として、満洲在来農法が開拓団員のなかに普及していたのである。在来農法を身につけて自作ができたものはまだよかった。在来農法では除草労働などに多数の日工を雇うことを余儀なくされたが、日本人開拓民の経営管理の下に農業労働者を雇用するのは、当初、満洲開拓政策が意図した家族経営には合致しないものの、自作には違いなかった。ところが、経営そのものを中国人に委ねる貸付(小作に出す)も広範に行われていた…これが…開拓民の地主化という現象である。」(白木沢旭児「満洲開拓における北海道農業の役割」(寺林伸明・劉含発・白木沢旭児編『日中両国からみた「満洲開拓」ー体験・記憶証言ー』、御茶の水書房、2014、pp.65-88)
- 満洲国における漢人の人口増加は治安の良さと経済発展のためか?日本の満蒙開拓団が季節労働者や小作人を必要としたからでは?