雑録

長勢了治『シベリア抑留』(新潮選書、2015)における「まえがき」「第一章 ロシアの領土拡張およびソ連共産主義」(pp.22〜46)

  • この本の特徴
    • 日本の戦争を欧米の侵略に対する抵抗であったと正当化し、シベリア抑留がソ連の国家的犯罪であるとする論調。

1.内容の要約

まえがき
  • 本書の目的
    • シベリア抑留が少しでも多くの現代人に知られること。
  • シベリア抑留とは何か
    • 概要
      • ソ連の対日参戦時、ソ連満洲北朝鮮樺太、千島に侵攻。物資を略奪し、約70万人もの軍人と民間人を捕虜にしたうえ、60万人以上をソ連モンゴル人民共和国へ拉致・抑留。
      • 抑留者はシベリアだけでなく、ソ連全土、モンゴル人民共和国の収容所に送られ、「シベリア三重苦」と呼ばれる飢餓、重労働、酷寒の奴隷のような生活を強いられ、約10万人もの犠牲者を出した。
    • 捕虜の取り扱いについて
      • 一般:捕虜は陸軍省が管理。国際法で保護される。
      • ソ連:捕虜は内務人民委員部/内務省が管理。待遇は囚人並みの劣悪さ。国際法の規定に違反する取扱いを数多く行う。
    • 抑留者への思想教育について
      • 目的:捕虜に共産主義思想を吹き込み、共産主義戦士として祖国日本へ送り返すこと。
      • 結果:収容所内でシベリア「民主運動」が起こって、「戦犯」「反動」の追及や吊るし上げなど過激な運動が展開され、日本人同士が争う陰惨な状況が発生。
    • 抑留期間
      • 捕虜のうちソ連刑法第58条の反革命罪で裁かれた「戦争犯罪人」→25年の長期刑
      • 一般抑留者→5年以内
      • 長期抑留者→最長11年
  • 著者による章立ての説明
    • 1章
      • 「ヨーロッパとロシアがアジアに進出した500年の歴史の大きな流れの中にシベリア抑留(ソ連モンゴル抑留)を位置づけ、シベリア抑留にいたる前史としてロシアが16世紀以降、東方へ進出して満洲(ママ)、樺太、千島列島で日本と接触する経緯およびロシア革命ソ連共産主義の意味について記した」
    • 2章
      • 「日本の敗戦直前にソ連満州などに一方的に侵攻して略奪、暴行、強姦などの暴虐を働き、多大な被害がもたらされた惨状を記した」
    • 3章
      • スターリンが極秘指令を発して日本人をソ連とモンゴルに捕虜として移送するよう命じたことを国際法と絡めて論じ、ソ連の捕虜収容所(グプヴィ)の特徴と日本人の抑留者数・死亡者数を考察した」
    • 4章
      • 「抑留者が途端の苦しみを味わった飢餓、重労働、酷寒の「シベリア三重苦」を体験記とソ連側の資料を基に詳述した」
    • 5章
      • 「シベリア三重苦がもとで病気や怪我にみまわれても、医療が貧弱なため多くの犠牲者を出したことと、死者の扱いも杜撰で冒涜的なものだったことを明らかにした」
    • 6章
      • ソ連当局が抑留者に共産主義を施したため、当局の意を受けたシベリア「民主運動」が起こり、吊るし上げや密告など同胞相食む陰惨な状況が生まれたことを記した。ソ連収容所での思想教育と同じく、占領下日本でもGHQによる思想教育が行われ、熱戦(武力戦)が終わったあとは冷戦(思想戦)が続いていたことを明らかにした」
    • 7章
      • 「抑留者の切なる願いである帰国(ダモイ)をめぐる日ソ交渉および引揚げの経緯と、スパイとして日本に送り込まれた抑留者について記した」
    • 8章
      • 「「戦犯」として裁かれ最長で11年間獄窓につながれた長期抑留者が無実の囚人であった事実と、抑留者の抵抗運動としてのハバロフスク事件、そして大きく遅れたダモイについて詳しく記した。」
第一章 ロシアの領土拡張およびソ連共産主義−シベリア抑留の前史
  • 1.西力東漸化−アジアはヨーロッパの植民地だった
    • ヨーロッパのアジア進出から500年
      • ヨーロッパは13世紀にはモンゴルにより東方を塞がれ、続いてオスマン・トルコから圧迫を受けたので出口は西の海しかなかった。15世紀末、イベリア半島のスペイン、ポルトガルを筆頭にして大航海時代が始まり、教皇子午線・トルデシリャス条約・サラゴサ条約等によりスペイン、ポルトガルの進出範囲が定められた。スペイン、ポルトガルに対抗して、イギリス、フランスも北米大陸に進出し、次いでオランダとともにアジア進出を図った。アジアは19世紀までに日本とタイと中国を除いてことごとくヨーロッパ列強の植民地となった。
      • ロシアは「タタールの軛」によりモンゴルの支配下にあったが、1480年にモスクワ大公国のイヴァン3世がモンゴル支配から脱し領土の拡大を始めた。雷帝イヴァン4世は領土の東方拡大を推し進め、以後400年余りでロシアは帝国主義的領土拡大を果たした。
      • ヨーロッパとロシアは海路と陸路でアジアに進出して植民地化しようとした。これを「西力東漸」と著者は呼ぶ。
    • アメリカのアジア進出
      • アメリカは、 東から西へと膨張し、メキシコからテキサス(1845)、カリフォルニア(1848)を奪って太平洋岸に達すると、続いて日本へペリーを派遣し砲艦外交を展開(1853)。1898年にハワイを獲得すると同年米西戦争でスペインに勝利しグアムとフィリピンを入手。さらに中国へ進出するため、機会均等と門戸開放を唱え、日本の国益と対立した。著者はこれを「米力西漸」と呼ぶ。
      • ユーラシア大陸の東端と太平洋の西端に位置する日本は「東西冷戦」の熾烈な思想戦の最前線となった。シベリア抑留の日本人の悲劇は世界史的に考えると「西力東漸」「米力西漸」の力学が生み出した。
      • 戦前の日本では欧米500年の侵略史を認識していたが、GHQの政策によりそれを忘れ、祖国日本を侵略国と貶める戦勝国史観に侵されている。
      • 日清戦争以来の日本の戦争の本質は欧米勢力の侵略に対すること。大東亜戦争でも日本は植民地宗主国と戦ったのであってアジア住民とは戦っていない。
      • 戦後アジア諸国宗主国独立戦争を戦い、残留日本人が支援するなどしたが、GHQにより報道統制された。そのため多くの日本人は今でも知らないままである。アジアの多くは親日国。
      • 日本は占領を経て法的には1952年に独立国家となったが、政治的、軍事的、精神的に他者依存の保護国(半独立国)に留まったまま。
  • 2.ロシアの東征と南下−樺太、千島、満洲、朝鮮へ
    • ロシアはコサックを尖兵として、毛皮、有用鉱物(金)、不凍港を求めて東征と南下を続けた。17世紀には清国によりサハリン、アムール川で防がれるも、19世紀半ばにはアイグン条約でアムール川左岸、北京条約でウスリー川東岸を獲得し、満洲と朝鮮に接した。千島列島には18世紀に南下が始まり、1738〜39年に色丹島に上陸した。こうして18世紀末から19世紀にかけて満洲、朝鮮、樺太、千島列島で日本と接触するようになった。シベリア抑留はこの4地域から行われた。
    • 樺太と千島
      • 1768 コサックのチョールヌイ、ウルップ島に来て、アイヌにヤサーク(人頭税)を課す。
      • 1778 シャバーリン根室に来航。
      • 1779 シャバーリン、厚岸に来航。松前藩吏に交易を求める。日露の最初の公的な接触
      • 1785 徳川幕府最上徳内らを千島調査に派遣。
      • 1789 クナシリ・メナシ事件発生
      • 1792 ラクスマン、大黒屋光太夫らとともに根室に来航。幕府は国書は長崎以外では受け取れないと拒否。
      • 1798 幕府、大規模な調査隊を千島に派遣。近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。
      • 1799 東蝦夷地とともに千島を幕府直轄化。
      • 1804 ロシア帝国の正式な使節としてレザノフ来航。長崎に入港するが交易を拒否される。
      • 1806〜07 フヴォストフ事件。06年に樺太の大泊を攻撃し、07年にエトロフ島のシャナを攻撃。
      • 1811〜13 11年、ゴロヴニンが国後島に上陸するが捕縛される。副艦長リコルド、拿捕した高田屋嘉兵衛との交流により13年にゴロヴニンの釈放を実現。
      • 1853年8月 プチャーチンを長崎入港。第一次交渉は失敗。
      • 1853月9月 同年4月にサハリン島の占領命令を受けていたネヴェリスコイが9月に一時的に占拠。
      • 1854年末  第二次交渉。千島はエトロフ島とウルップ島の間を境界とし、樺太を従来通りとすることで合意。
      • 1855年 日露和親条約締結。
      • 1868年 明治維新
      • 1874年 樺太千島交換条約。樺太島占守島からウルップ島までの千島18島との交換で合意。
    • 満洲と朝鮮
    • 日露衝突
      • 日露戦争…1904年に日露戦争が勃発し、1905年のポーツマス条約で、日本は朝鮮における優越権、遼東半島(関東州)租借権、長春-旅順間の鉄道の経験、南樺太の譲渡を得る。以降、後の関東軍となる軍隊を駐留させ、満鉄を設立。1907年から16年までの4次にわたる日露協約を結び、北満洲をロシア、南満洲を日本の勢力範囲とし、日本の朝鮮支配、ロシアの外モンゴル支配を相互承認した。
      • 韓国併合…日韓議定書(1904)、第一次日韓協約(1904)、第二次日韓協約(1905)を結んで保護国化を進める。1909年、韓国統監伊藤博文が暗殺されると、翌10年日韓併合条約により朝鮮を併合。
      • シベリア出兵…1917年ロシア革命が勃発。翌18年極東への共産主義の波及を怖れ、米英などと強調し、チェコ軍団救援という名目でシベリアに出兵。アメリカなどは1920年で撤兵し始めるが、日本は同年5月の尼港事件を契機に北樺太を保障占領。最終的に1925年5月に撤兵。
      • 辛亥革命…1911年に辛亥革命が起こり、翌12年に中華民国臨時政府が成立して清朝は滅亡。孫文のあと袁世凱中華民国大総統に就任したが、帝政の復活を図って専制君主化し、その死後は軍閥割拠状態となる。
      • 満洲国建国…満洲には軍閥張作霖がいたが、蔣介石北伐を開始すると劣勢となり、1928年に奉天郊外で爆殺される。1931年、関東軍は柳条湖で満鉄路線を爆破させ、それを中国軍の仕業として攻撃を開始し、全満洲を占領。1932年に満洲国建国。1933年、国際連盟満洲国不承認を決議したため、日本は連盟を脱退。1934年、満洲帝国成立。
      • 満蒙開拓団とシベリア抑留…第一満蒙開拓計画に基づき、1932年から試験移民が5次にわたって行われる。1936年、100万戸移住20カ年計画が策定され、日本全国から満蒙開拓団が募集された。満洲では1945年6月から15万人が「根こそぎ動員」とされ、そのうち5万人がシベリアに抑留されるなど多くの犠牲者を出した。

2.著者の主張、見解の抽出

まえがき
  • 著者の主張
    • シベリア抑留を日本人の悲劇としてとらえ、この出来事が多くの現代人に知られることを望む。
  • 著者の見解
    • ソ連の対日参戦を、火事場泥棒的な侵攻と捉える。(p.22)
    • 日本の敗戦を8月15日とし、シベリア抑留が敗戦後に起った戦争悲劇であると点線まで打って強調。(p.23)
    • 日本の復興を奇跡的なものであると認識(p.26)
第一章 1節
  • 著者の主張
    • 15世紀末の大航海時代以後、ヨーロッパ及びロシアがアジアを侵略し、植民地化した。第二次世界大戦後、日本は侵略国として非難されるが、もともと先に侵略したのはヨーロッパとロシアとアメリカである。
    • 戦勝国史観によって日本は侵略国とされているが、大東亜戦争は欧米の植民地支配から東南アジアを解放したし、東南アジア諸国はそれに感謝しており親日である。
  • 著者の見解
    • 大航海時代のスペインとポルトガルから、領域を囲い込もうとする思想が生まれ、その後アジア・アフリカの植民地支配に引き継がれたと認識する。(p.28)
    • 米西戦争後にアメリカはシナと満洲の権益を求め、日本に対して機会均等と門戸開放を唱えたため、両国の国益が対立して、太平洋戦争へと突き進んだとする。(p.30)
    • アメリカの「明白なる天明」はナチスドイツの人種主義と同じであると認識している。(p.31)
    • アジアで唯一近代化を成し遂げて植民地化をまぬがれた国として日本を捉えている。(p.31)
    • 1940年の地図なのにバルカン半島ユーゴスラヴィアではなく解体された後の国境線。インドも第二次世界大戦後にパキスタンバングラデュと分離したのにもう既に国境線引かれている。1940年なのに現代の国境線とごちゃまぜに認識している(pp.32-33)
    • 戦前の日本は欧米のアジア侵略を認識していたが、GHQ焚書政策により戦後の日本人は欧米のアジア・アフリカ侵略の歴史をほとんど忘れた。祖国日本を侵略国家と貶める戦勝国史観に侵されているとしている。(p.34)
    • 欧米勢力が地球のすべての地域を征服し支配しようとしたとき、その完成直前にひとり抵抗したのが日本であり、それが日清戦争以来の日本の戦争の本質だった、と認識している。(p.34)
    • 日本は、占領を経て、講和条約により法的には1952年に独立を果たしたものの、政治的、軍事的、精神的に他者依存の保護国(半独立国)に留まったままだとしている。(p.35)
第一章 2節
  • 著者の主張
    • ロシアが東征と南下を続けたため、満洲、朝鮮、樺太、千島列島で日本と接触することとなり、この4地域からシベリア抑留が行われた。この4地域は以下の過程を経て、日本領となった(もしくは日本の影響下に置かれた)。千島は1874年の樺太千島交換条約でロシアから獲得した。朝鮮は、日清戦争後の1895年に清国に宗主権を放棄させた後、日露戦争後の1905年に優越権を獲得して保護国化を進め、伊藤博文暗殺を契機に1910年に併合した。樺太日露戦争後の1905年に南樺太を獲得。満洲は1931年の満洲事変後、翌32年に満洲国を成立させ、34年に帝政へ移行した。
  • 著者の見解
    • 樺太千島交換条約の際、千島は占守島からウルップ島までと規定されたので北方4島は千島ではないとする。(p.40)
    • 清国は征服王朝なので、シナは満洲族の植民地となったとする。(p.41)
    • 日露戦争を日本の「歴史的勝利」と認識。フィンランドやバルト諸国も日本の勝利に喝采を送ったとする。(p.43)
    • 朝鮮(韓国)が日本に併合されたのは、朝鮮が事大主義を取り自立しようとしなかったからとする。(p.44)
    • 張作霖爆殺事件の首謀者に関して、関東軍参謀河本大作による謀略という定説に対し、コミンテルンや張学良による謀殺説(※出典なし)が提起されているとしている。(p.45)
    • 満洲事変の背景にシナによる激しい排日侮蔑があったといわれている(※出典なし)としている。(p.45)
    • 満洲国における人口増加について漢人は毎年100万人増加していたと述べ(※出典なし)、その理由として軍閥が割拠し内戦が続くシナよりも治安が良く経済が大きく発展していた満洲を選んだと分析している。(p.46)

3.語句説明

  • 共産主義(p.23)
    • マルクス-レーニン主義をさすことが多い。広くは財産の共有制をさす。プラトンや初期キリスト教徒の考えた理想郷、近世ではトマス・モアの『ユートピア』などの世界も共産制である。階級差別がなく、生産設備は個人ではなしに社会が所有し、生産と分配は社会が行う。各人はその能力に応じて働き、好きなだけ消費してよい。国家権力が消滅して各人の自由な協同がこれに代わる。これがマルクス主義者や共産党の描く理想郷である。20世紀に出現した現実の共産国家においては共産党の指導統制が中心で、人民に十分な自由はなく、あらゆる面で国家権力が強まる一方であった」(『世界史小辞典 改訂新版』2004、山川出版社、p.180)
  • 満洲」 (p.24ほか)
    • 「1945年以前に日本が満洲と呼んでいました地域には…ジュルチンという民族が住んでおりました。この民族は、マンジュ菩薩を信仰していましたので、漢字を用いるようになってから、このマンジュに同音の満洲…の字を宛てました。そして17世紀の初めに建州女直の太祖ヌルハチ(姓は愛新覚羅)は…女真(女直)属全体を統合して建てた国家をマンジュ=グルン(Manju Gurun 満洲国・満殊国)と称することと…しました…1636年に太宗ホンタイジ(皇太極)が国号を大清と改めたことによって、マンジュは国号ではなくなり、以後は…民族名として用いられることになりました。…「さんずい」が付けられたのは王朝としての正統性弁証ともかかわって重要な意味をもっていたことを考える必要があります。中国の王朝は自らの正統性を「木、火、土、金、水」の五行によって示しますが、清の王朝の前である明は「火」をシンボルとして「火徳」の王朝でした。これを倒して建てた清王朝は、火に勝る水をシンボルとして「水徳」の王朝としましたから、王朝名もさんずいの清、民族名もさんずいの満洲としました。…地理的名称として満洲と呼ぶようになった経緯は…『華夷変態』…における記述の変遷のなかに窺い知ることができ…1687年には「康煕帝の本国満洲」あるいは「大清の本国満洲」となって韃靼の代わりに地域名としての満洲が使われ、以後この用法が定着していったようです」(山室信一『キメラ−満洲国の肖像 増補版』2004、中央公論新社、pp.318-322)
  • クナシリ・メナシ事件(p.38)
    • 「1789年5月、クナシリ(国後)・メナシ(目梨)地方で起きたアイヌの蜂起。この地域は飛騨屋九兵衛の請負場所であったが、蜂起の原因は過酷な漁場労働や出稼ぎ番人たちによる慣習を無視した横暴であった。アイヌ130人が参加し、場所の支配人・番人・稼方の者、飛騨屋手船の船頭・水主、および松前藩上乗役人の計71人を襲って殺害した。松前藩は鎮圧体を根室半島のノッカマップに陣取らせ、クナシリのツキノエ、ノッカマップのションコ、厚岸のイコトイらの協力をえて蜂起参加者を投降させた。この蜂起はロシアの南下を危惧する幕府に衝撃を与え、蝦夷地幕僚化への契機となった」(『日本史小辞典 改訂新版』山川出版社、2016、p.271)
  • 小中華
    • 「朝鮮は17世紀前半に清朝に服属を強いられ、朝貢国となったが、漢人と異なる風俗を持つ「夷狄」の満州人に対する反感は強く、朝鮮こそ明を受け継ぐ正統な中国文化の後継者であるという「小中華」の意識が強まった。儒学の教養は両班の権威とも深くかかわっており、そのため朝鮮では儒教儀礼が中国以上に厳格に守られた。」(木村靖二・岸本美緒・小松久男編『詳説世界史研究』山川出版社、2018、p.241)
  • 河本大作(p.45)
    • 「1833.1.24〜1915.8.25 大正・昭和期の軍人。陸軍大佐。兵庫県出身。陸軍士官学校(第15期)・陸軍大学校卒。北京公使館付武官補佐官・参謀本部支那班長などをへて、1926年関東軍高級参謀。この間永田鉄山らと交わる。28年張作霖爆殺事件を計画して実行の指揮にあたった。翌々年予備役編入。以後、満鉄理事・満州炭鉱理事長・山西産業社長を務めるが、第二次大戦後、戦犯として中国で収監され病死。」(『日本史小辞典 改訂新版』山川出版社、2016、p.334)
  • コミンテルン(p.45)
    • 共産主義インターナショナル(Communist International)の略称。第3インターナショナルともいう。1919年3月レーニンが創設し、中央集権体制のもとに各国共産党に直接に指導した。20年末までは世界革命をめざす急進的政策をとったが、ドイツ革命が挫折すると、21〜28年には社会民主主義政党との統一戦線による革命の道が模索された。また、植民地や従属地域における民族解放運動を革命運動に発展させることがめざされ、この観点から中国革命に介入した。29年以降、社会民主主義政党とファシズム政党を同列において攻撃する極左戦術をとったが失敗し、34年以降は一転して人民戦線戦術を採用して、フランスとスペインで政権樹立に成功した。第二次世界大戦中の43年5月にソ連の政策転換によって解散した。」(『世界史小辞典』山川出版社、2004、p.251)

4.考察 (筆者の主張・見解の妥当性)

筆者の見解の妥当性
  • ソ連の対日参戦を、火事場泥棒的な侵攻と捉える。(p.22)
    • ソ連の対日参戦は、日ソ中立条約に反するが、アメリカやイギリスとのヤルタ協定に基づくものである。「三大国即チ「ソヴィエト」聯邦,「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ」(http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19450211.T1J.html、日本外交主要文書・年表(1),56‐57頁.条約集第24集第4巻.)
  • 日本の敗戦を8月15日とし、シベリア抑留が敗戦後に起った戦争悲劇であると強調。(p.23)
  • 日本の復興を奇跡的なものであると認識(p.26)
    • 冷戦体制を考慮に入れる必要あり。中華人民共和国の成立(1949年)と朝鮮戦争(1950〜51)による逆コースと戦後不況からの朝鮮特需による好景気など。米欧の技術導入・技術革新と過剰で安価な労働力があったためであることを考慮に入れる必要があるのではないか。
  • 大航海時代のスペインとポルトガルから、領域を囲い込もうとする思想が生まれ、その後アジア・アフリカの植民地支配に引き継がれたと認識する。(p.28)
    • 16世紀の大航海時代におけるアジア情勢については、ムスリムの海洋ネットワークにヨーロッパが参加しただけであり、貿易拠点は置かれたが領域支配は行われていない。19世紀になり金融資本が成立し、商品輸出に加えて資本輸出(外国政府の借款供与や鉄道建設への投資)などが活発化してから、帝国主義列強による世界分割が行われた。そもそもヨーロッパでは教皇権や皇帝権という王権の上位概念が失墜した後に、明確な領域を有する主権国家が登場したのであり(1648年ウェストファリア体制)、大航海時代に領域支配による世界分割の思想が生まれたとするのは妥当ではないのでないか。
  • 米西戦争後にアメリカはシナと満洲の権益を求め、日本に対して機会均等と門戸開放を唱えたため、両国の国益が対立して、太平洋戦争へと突き進んだとする。(p.30)
    • 日清戦争後に帝国主義列強による中国分割が進んだが、アメリカがフィリピンを領有してアジアに進出した際には、中国分割に遅れをとっていた。そのためジョン=ヘイによる門戸開放宣言が出されたのであり、日本のみをターゲットにしたものではない。日露戦争ではポーツマス条約の仲介を担い、桂=タフト協定では日本の朝鮮半島アメリカのフィリピン領有を相互承認している。アメリカの対日外交が変化するのは日本が満洲に進出するようになってからであり、第一次世界大戦後にワシントン体制で封じ込めが図られてからである。よって門戸開放宣言でいきなり日米対立が起こり太平洋戦争に直結というのはいささか早急ではないか。
  • アメリカの「明白なる天明」はナチスドイツの人種主義と同じであると認識している。(p.31)
    • 「明白なる天明(マニフェストデスティニー)」はアメリカの領土拡大を倫理的に正当化しようとするもの。ナチスドイツの人種主義は人種主義を優生学や民族衛生学と結合させ、ユダヤ人大量虐殺を正当化するもの。同一視するのはいきすぎなのでは?
  • アジアで唯一近代化を成し遂げて植民地化をまぬがれた国として日本を捉えている。(p.31)
    • タイのラーマ5世(チュラロンコン)は、英仏植民地主義勢力と対峙しつつチャクリ改革と称される一連の近代化改革を行っており、1904年の英仏協商で英領インドと仏領インドシナの緩衝地帯となったこともあり、独立を維持している。中国もアヘン戦争後には洋務運動、日清戦争後には変法運動、義和団事件後には光緒新政、辛亥革命後には文学革命と近代化政策を行っており、列強に中国分割されたり軍閥割拠状態になりながらも植民地下はされていない。
  • 戦前の日本は欧米のアジア侵略を認識していたが、GHQ焚書政策により戦後の日本人は欧米のアジア・アフリカ侵略の歴史をほとんど忘れた。祖国日本を侵略国家と貶める戦勝国史観に侵されているとしている。(p.34)
  • 樺太千島交換条約の際、千島は占守島からウルップ島までと規定されたので北方4島は千島ではないとする。(p.40)
    • ヤルタ協定におけるソ連の対日参戦の条件として千島列島の引き渡しが認められており、サンフランシスコ条約でも日本は千島列島を放棄している。日本政府は放棄した千島列島に北方4島は入っていないので日本の領土であるというロジックなので、この本の著者は樺太千島交換条約を根拠に千島列島に北方4島が含まれないのだと強調しているのだと思われる。
    • しかし連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号では、千島列島、歯舞群島色丹島は日本の行政範囲から省かれている。日ソ共同宣言では、平和条約締結の際に、歯舞と色丹を日本に引き渡すことになっている。よって平和条約締結以前に歯舞群島及び色丹島ソ連が支配することは日本とソ連の間の了解事項と判断できる。
    • 千島列島の範囲として、樺太千島交換条約第二款を引用し、クリル列島とは占守島から得撫島とされていることを根拠とすることがある。しかし、この文言解釈による主張は、条約として効力の無い日本語訳文をもとにしており、フランス語正文とは解釈に齟齬がある。
    • そもそも東アジアの伝統的な国際秩序は冊封体制であり、主権国家体制ではなかったので、明確な領域を囲い込むという概念自体がなかった。だからこそ明治新政府が国境確定事業をおこなっている。
  • 朝鮮(韓国)が日本に併合されたのは、朝鮮が事大主義を取り自立しようとしなかったからとする。(p.44)
    • 日清戦争後、清が宗主権を放棄すると、朝鮮は大韓帝国として国家の自立を図る。日露戦争中に日本により保護国化が進むが、第二次日韓協約の後、オランダのハーグで開催中の第2回バンコク平和会議に密使を派遣し、韓国の窮状を訴えている(ハーグ密使事件)。この事件に衝撃を受けた日本により高宗は退位させられ、第三次日韓協約により韓国の軍隊も派遣されたが、反日義兵闘争が展開されている。韓国併合を朝鮮が自立しなかったからと正当化するのは適切なのだろうか。
  • 張作霖爆殺事件の首謀者に関して、関東軍参謀河本大作による謀略という定説に対し、コミンテルンや張学良による謀殺説(※出典なし)が提起されているとしている。(p.45)
    • 清朝選書版の『シベリア抑留』には張作霖爆殺事件の陰謀説に関する出典は記載されていなかったが、同著者の『シベリア抑留全史』(原書房、2013)には出典があった。
    • 同著者の『シベリア抑留全史』(原書房、2013)の出典で、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ(土屋京子訳)『マオ : 誰も知らなかった毛沢東(上・下)』(講談社、2005)と加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』(PHP新書、2011)が挙げられていたので参照したが、下記の通りであり、これを根拠とするのは不適当ではないか。
      • 上記『マオ(上)』ではp.300の脚注に「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」と出典もなく記してあるだけである。『マオ』では奥付に注釈、参考文献一覧および翻訳引用文献はインターネットの専用サイトから無料でダウンロードできますとあり、URLとしてhttp://shop.kodansha/bc/books/topics/mao/が記載されているが、このURLはリンク切れとなっている(2016年4月16日19時58分現在)。
      • 上記『謎解き「張作霖爆殺事件」』では、p.243に「…一連のコミンテルン(正確にはソ連軍諜報部)謀略説(張学良謀略説も含まれる)を最終的に確定するためには、第一次史料に欠ける…今後のさらなる新史料発掘まで、最終結論は保留されなければならない」として、保留されている。
  • 満洲事変の背景にシナによる激しい排日侮蔑があったといわれている(※出典なし)としている。(p.45)
    • 満州事変は石原莞爾らの独断専行。では石原らが何を考えていたかというと総力戦体制の構築。
      • 「奉ソ紛争のさなかの1929年7月3日から12日間、石原莞爾板垣征四郎関東軍の参謀たちは「北満洲」の長春ハルビン満州里などを視察した。後の満洲事変につながる作戦計画の詳細を石原が披露したのはこの時である。さらに石原は奉ソ紛争におけるソ連の行動を分析して、その軍事的脅威が復活しつつあると判断し、ソ連に対抗するためにも、中国東北の全土を日本の支配下に置こうと計画した。そのことで、対ソ国防上有利な態勢を築き、また豊富な資源を確保して、日本と中国東北を一体化した自給自足圏を構築することができる、と考えた。」(麻田雅文『満蒙 日露中の「最前線」』講談社選書メチエ、2014、p.207)
  • 満洲国における人口増加について漢人は毎年100万人増加していたと述べ(※出典なし)、その理由として軍閥が割拠し内戦が続くシナよりも治安が良く経済が大きく発展していた満洲を選んだと分析している。(p.46)
    • 満洲国における漢人の人口増加は治安の良さと経済発展のためか?日本の満蒙開拓団季節労働者小作人を必要としたからでは?
      • 「開拓民が農業技術をほとんど持たない……農業経験も乏しく、技術も持たない開拓民は、畑作を行うに際して、近隣の中国人農家のやり方を見よう見まねで模倣するしかなかった。結果として、満洲在来農法が開拓団員のなかに普及していたのである。在来農法を身につけて自作ができたものはまだよかった。在来農法では除草労働などに多数の日工を雇うことを余儀なくされたが、日本人開拓民の経営管理の下に農業労働者を雇用するのは、当初、満洲開拓政策が意図した家族経営には合致しないものの、自作には違いなかった。ところが、経営そのものを中国人に委ねる貸付(小作に出す)も広範に行われていた…これが…開拓民の地主化という現象である。」(白木沢旭児「満洲開拓における北海道農業の役割」(寺林伸明・劉含発・白木沢旭児編『日中両国からみた「満洲開拓」ー体験・記憶証言ー』、御茶の水書房、2014、pp.65-88)