【シベリア】日ソ中立条約・関特演・ソ連の南樺太統治

松岡外交とか関特演本当にナゾ。

日ソ中立条約

  • 日ソ中立条約と援蒋ルート
    • 【問い】日ソ中立条約の日本側のねらいとして援蔣ルートの遮断が挙げられているが、実際に意図は満たされたのか?
      • 【お答え】援蔣の抑止力にはなった。中国側はソ連に不信を抱いた。

日ソ中立条約【『国史大辞典』より】

  • 概要
    • 昭和十六年(一九四一)四月十三日、モスクワにおいて日本の松岡洋右外相・建川美次駐ソ大使とソビエト連邦モロトフ外相との間で調印され、日ソ両国のいずれか一方が、第三国の軍事行動の対象となる場合、他の締約国はその紛争の期間中、中立を守ることを約束した条約。
  • 草案は援蔣ルート遮断目的
    • この日ソ中立条約の構想は、すでに前年の昭和十五年春、ソビエトによる援蒋(重慶政権援助)行為の中止を狙う日本陸軍参謀本部の内部で検討され、外務省事務当局側との間で草案が作成されていた。
  • ドイツの電撃戦
    • その後ドイツの西部戦線での電撃作戦による勝利の結果、日本国内で南進ムードが高まり、日ソ中立条約には新しい政治的意味が付着されることとなる。
    • かくして十五年七月二日、東郷茂徳駐ソ大使はモロトフ外相に中立条約締結についての最初の提案を行う。これに対するソビエトの回答(八月十四日)は原則的受諾をいう一方、北樺太の石油・石炭利権の解消その他の条件を付するものであった。
  • 松岡外交
    • 第二次近衛内閣の成立(十五年七月二十二日)と松岡洋右の外相就任で、日ソ中立条約問題は新しい角度から見直される。松岡はまず独伊との間に三国軍事同盟を締結すべく、交渉を積極的に進め、ついにその締結に漕ぎつける(日独伊三国同盟、十五年九月二十七日)。ついで、この枢軸結束強化を足場に、日ソ不可侵条約を結び、日独伊ソ間に「四国協商」体制を形成、英米仏を中心とする国際旧政治秩序を覆滅して、国際新秩序を樹立することを意図する。これが松岡が抱いていた「大構想」であった。
  • 条約締結(松岡は「四国協商」は幻想と知ったのに何故中立条約を締結したのか)
    • かくして松岡はその「大構想」実現に向けて十六年三月独伊ソ訪問の旅に出る。しかし、独ソ関係は松岡の予想に反して、すでに険悪化しており、「四国協商」体制はもはや幻想にしかすぎないことを知った松岡は、ベルリンからの帰路、モスクワで「電撃外交」を展開、スターリンとの間で中立条約についての合意に達し、急遽調印式を行なった。同時に松岡・モロトフ間では往復書翰(半公信)が交わされ、その中で日本側は、「北樺太利権の整理(解消)に関する問題を数ヵ月内に解決するよう」努力する旨を約束していた。
  • 南進論の進展
    • 日ソ中立条約の成立は、「北方での静謐(せいひつ)」を確保し、日本が南進政策を積極化する上で有利な外交的布石であった。
  • 援蔣ルートへの打撃
    • 重慶政権に与えた精神的打撃も見逃しえない。
  • 対ソ戦の抑制
    • 十六年六月下旬突如勃発した独ソ戦争に際して、参謀本部その他に擡頭した対ソ開戦論を牽制する上にも何らかの効果があった。
  • 中立が維持されたのは独ソ戦やってたからなのでは?
    • その上、太平洋戦争が開始されてから敗戦直前まで、曲がりなりにも日ソ間には中立関係が維持されたのは、この条約の存在ゆえということもできるであろう。
  • 日ソ中立条約の最後
    • しかし、昭和二十年四月五日、条約の有効期間(十六年四月二十四日より五年間)をまだ一年残して、ソビエト政府は中立条約の不延長を日本側に通告し、八月九日、条約に違反して対日宣戦に踏みきったのである。

関特演

  • 松岡外交の破綻と関特演
    • 【問い1】松岡外交では日独伊ソの四国ブロック作って南進論という方針であったが、なぜ独ソ戦が勃発すると松岡は掌を返してイキナリ対ソ戦を主張したのか?
      • 【お答え1】松岡の前提として独ソは対立しないという考えがあったから、独ソ戦が勃発するとソ連を攻撃することにした。
    • 【問い2】対ソ戦を主張する松岡を外すために第二次近衛内閣総辞職して、第三次近衛内閣を組閣したのに、対ソ戦の準備である関特演やってるのか?
      • 【教授のご意見】関特演については極東蘇連史の講義で解説するとのこと。

関特演(『国史大辞典』より)

  • 概要
    • …一般には「関東軍特別演習」と呼ばれ、「関特演」と略称されたが、参謀本部の文書では「関東軍特種演習」とする。
  • 陸軍参謀本部の画策と天皇・政府・海軍・陸軍省の反対
    • この計画を終始強く主張したのは陸軍の中でもことに参謀本部であった。彼らは六月開始の独ソ戦の結果、極東ソ連軍の地上兵団は大量に西送されて、八月にはおそらく半減されると見込み、九月はじめの関東軍の行動開始を目論んでいた。しかし期待に反し、ソ連軍の移動はきわめて不活溌であった。そのうえ、緒戦では日本と同盟下のドイツ軍が優勢であった独ソ戦も七月には戦線が膠着した。こうした見込み違いの上に、国内でもまず天皇や政府がこの計画にかなりの難色を示し、南進を唱える海軍も反対し、陸軍部内でも形勢観望主義の陸軍省が激しく異論を唱えた。
  • 機は熟した!・・・かに見えた
    • しかし作戦部長田中新一少将を中心にこの計画に執念を燃やす参謀本部は、七月には天皇の許可のもとに、なし崩し的に在満鮮部隊や内地二個師団などの第一次・第二次動員とその集中輸送を開始し、同月末、田中はついに二十四個師団案の最終的承認を東条英機陸相から得た。それは実に人百二十万・馬三十万を必要とする厖大極まる計画であった。さらに八月に入り大本営・政府連絡会議は、予想されるソ連航空部隊の先制攻撃が実施された場合には、関東軍航空部隊が応戦のためソ連領内に進攻することを認めた。こうして戦機は熟したかにみえた。
  • 豊田貞次郎外相(海軍大将)の巧妙な計らい
    • しかし同じ会議はこれと前後して「対ソ外交交渉要綱」を決定し、そのなかには豊田貞次郎外相(海軍大将)の巧妙な計らいにより、ソ連が日ソ中立条約に違反しない限り、日本もこれを守ることが明記されていた。しかも豊田はときを移さず、この方針をソ連側にも通告した。これで参謀本部の企図は完全に封じられた。八月九日同部は、独ソ戦の推移がどうあろうと、昭和十六年度内の北方武力進出を断念し、南方問題に専念するという、いわば陸軍省側の方針をとりあげざるを得なくなった。かくて「関特演」は中止となった…

ソ連南樺太統治

  • 日本敗戦後の南樺太統治
    • 【問い】ソ連樺太庁を存続させたので、民政局が設置されると一種の二重統治?のようになったが、樺太からの引揚げ期の統治はどのようなものであったのか?
      • 【お答え】昭和20年9月23日〜25日の会議で日本の行政機関の相続が決まる。同年12月30日に樺太長官大津敏夫は逮捕され、昭和21年初めに樺太庁の施政権はなくなる。豊原市役所は昭和21年2月まで存続。米ソ協定に基づく正式引揚げは昭和21年12月〜昭和24年7月まで。この樺太庁や市役所がない期間に民政局が統治した。
      • 【教授のご意見】樺太庁や市役所が解散されてから昭和24年7月までは民政局の統治が行われるが、この期間を「樺太抑留」と捉えられるかどうかを考えなさい。