前回は日ソ戦の全体構造と実際に戦った事例を扱いました。
今回は日ソ戦で戦わなかった事例をご紹介します、とのこと。
(1)-1 東部国境陣地から内線陣地へ
- 五味川純平(本名、栗田茂)
- 1916年 大正5年 大連生れ 東京商科大学入学するも中退し東京外大卒業 満洲鞍山昭和製鋼所に入社
- 1943年に召集 満洲東部国境各地を転々とする 45年8月の満洲侵攻時には所属部隊は全滅 生存者は五味川以下数名 2年近く訓練を受けており射撃はうまい
- 1945年に虎頭からムーリン、伊林地区に移動(初年兵の教育係)
- 『人間の条件』が代表作
- 【資料1】五味川純平「関東軍の終末」
- ソ連軍が通過した タコ壺に入っていたら横を戦車が通過した
- 綏芬河→コウガイコ→東安→虎頭→ムーリン(国境線ではなく明らかに内部の陣地)
(1)-2.戦闘
- 8月12日 戦闘
- 8月13日 158名中の中隊、生存者は伍長1名、上等兵1名、二等兵2名、離脱?名
- ○○群 中隊・小隊が崩れているので群れができる → 五味川(栗田)群
- 初年兵たちはまともな訓練を受けていない 根こそぎ動員の移民たち
- ソ連軍と日本軍の対比
- ソ連軍は軍備が整備され人命を節約
- 日本軍は軍便が無くて人命を浪費
- しかし一般的とは言えない。【千島の場合】→ソ連軍の場合も・・・揚陸艇が足りないので兵士を甲板から落として泳いでいけ!
- 五味川純平は日本軍の体制への不満が強い 関東軍のために戦おうなどということはない
(1)-3.敗残兵
- 五味川純平の文章では、本人の意識の変化が良く描かれている
- 離脱・脱出はどういう状況なのか!?
- 五味川「私たちの存在はすでに形骸化している。そう思った時から、私は一等兵としてではなく、自主的な意志を持った人間として行動することを考え始めていた。」
- 「敗残兵」の「逃避行」→中国軍に対して用いていた
- 日本兵に対しては「敗残兵」とは使っていないかった 五味川の表現 一般的な表現ではない が、事実は当っている
- 防衛省の文章だと離脱とか脱出という
- 所属原隊を失ったらもよりの部隊に合流しなければならないが五味川はそれを避ける
- 戦わなかった師団は半分 実際に戦った兵士は関東軍70万の半数以下
- この後の五味川の運命 鏡泊湖付近で敗残兵の集団に遭遇(8/14〜15?) ※山間に宿泊している
- 五味川は戦う気がないので、ぬけ出す 当初のメンバーとは異なる約10名の集団へ → 五味川群(栗田群)は離脱 山間にいた兵はソ連軍に見つかり死亡
- 逃避行50日目で、敦化近くで遭遇した民兵・赤軍に投降(逃避行終わる) → 敦化の収容所に入れられ抑留されて帰ってくる
(2)命令と実態
(2)-1 命令
- 馬鹿正直に戦ったら全部が玉砕になってしまう
- →第一方面軍命令する「第一方面軍は敦化周辺の地区を複郭として長期持久を策す。第五軍はなるべく長く牡丹江以東の陣地を確保することに努め、やむを得ざるに至ればなし得る限り多くの兵力をまとめ敦化付近又は横道河子付近に後退すべし」
- →撤退することを認めている
- 8/16 16:00 大陸命第1382号「即時戦闘行動ヲ停止…自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ケス」
- しかし日ソ戦争は終わらない
- 日本軍→関東軍指揮下の抗戦部隊はソ連軍から攻撃を受けていたので、自衛上応戦を続けていたので、本命令は現任続行と変わることがなかった
- ソ連軍→日本軍が武装蜂起してはじめて停戦
- その後同日8/16 (関東軍に対して)「武器の引渡等を実施することを得」(大陸指第2544号)
- 8/19 第5方面軍に対しては武装解除を8/19に出した。この3日間の差が分からない
- 樺太では3日間戦闘が引きのばされた 大陸指第2546号 → 8/21まで戦闘
(2)-2.体験
- 根こそぎ動員で徴収された満蒙開拓団の人々は逃げたケースが多い