資料編 人々に観光への欲望を喚起させる装置

【資料1】植民地研究における観光研究の始まり

「植民地における資本主義の様態を、経済史研究とは異なる関心から問題にする動向がある。植民地という条件下では、資本主義が生み出す不可逆的変化が、人々の感覚や情動にいかに作用するのか。この問いかけは、表象分析にとどまりがちなポストコロニアル研究を内在的に批判し、経済史的な研究との交流の可能性を示唆する。その徴候は、例えば観光をめぐる諸研究の高まりにうかがえる。〔……〕植民地の観光開発や日本国内の植民地表象(博覧会など)は文化的支配の代名詞となったが、近年では観光の基盤整備の実証的な分析に加えて、被植民者を含めた具体的な観光行動が検証され、現地社会の変容や抵抗の可能性についても論じられるようになった。他方、観光開発の欲求は、日本「内地」の周辺部を巻き込んだ開発競争を誘発するなど、帝国内の地域間関係を変化させる」

日本植民地研究会編『植民地研究の現状と課題』アテネ社、2008、67頁

【資料2】日本で初めての海外団体旅行

「[……]1906(明治39)年6月22日、『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』両紙に、「空前の壮挙(満韓巡遊船に発行)」と題する見出しをつけ、第一面の約半分を使った大型の社告が掲載された。朝日新聞社が、ろせった丸という3800トンの汽船をまるごと借り切って、満洲(中国東北部)・韓国を巡遊観光する旅行団を組織するので、参加者を募集するというのである。[……]明治末期には、まだ日本には旅行業者などというものは存在しなかった。最初の旅行業者ともいうべきジャパン・トラベル・ビューロー(現在の株式会社JTB)〔もと日本交通社〕の前身)の創立総会が開催されたのは、1912年(明治45年)3月12日のことで、それももっぱら外国人観光客の誘致と便宜を主たる業務とすることになっていた[……]日本人の側が海外まで大挙して観光に出かけるといったことは、ほとんど考えられもしなかったのである。そんな時期に、満洲韓国という海外への団体観光旅行を呼びかけた[……]しかも、それを言論報道活動をおこなう新聞社が企画したところが特異である。朝日新聞社は、当然のことながらそれまで満洲韓国の団体旅行の経験はまったくなかったから、かなりの冒険である」

有山輝雄『海外観光旅行の誕生』(吉川弘文館、2002年、1-2頁)

【資料3】「満韓ところどころ」

夏目漱石満洲紀行文。1909年に50日間かけて旅をし、『朝日新聞』に同年10月から12月に連載された。この旅は、東京帝国大学時代の同級生であり、当時の満鉄総裁であった中村是公の依頼で実現した。[……]「満韓ところどころ」とはいうものの、大連、旅順、熊岳城、営口、奉天、撫順など満鉄沿線での見聞や交遊について書かれており、韓国については「二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした」として筆を擱き、これを語ってはいない。作中での漱石の視点は、日露戦争後の在満日本人に共通するものであり、満洲と「支那」とを区別することなく、現地の人びとやその営みを蔑視と偏見の対象として捉えている。」

『二〇世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館、2012年、192頁)

【資料4】『満鮮の行楽』

「大正一二年に大阪屋号書店から出版された田山花袋の『満鮮の行楽』であり、大連から、旅順、奉天、ハルピン、長春、北京、そして朝鮮の旅情を描いたこの紀行文は、漱石よりもしっかりとした筆致で道中の風物を紹介していて、満洲旅行に心を奪われた読者はきっと深い感慨を覚えたに違いない。」

山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』(風響社、2008年、174頁)

【資料5】『ハルピン夜話』

白系ロシア人バスガイドに代表されるハルピンの昼の顔とは逆転的な存在に、「奔放なエロティシズム」を放つロシア人ダンサーが彩る夜のハルピンがある。ロシア人女性が一種の複合的な欲望の対象として浮上してきたのは、満洲旅行ブームが始まる前夜の1923年頃のことであった。満鉄の姉妹機関である満蒙文化協会の招きで渡満した作家奥野他見男は、ハルピンまで足を伸ばし、キャバレーでのロシア娘の裸踊りを観賞した。その様子が詳細に描かれた彼の著書『ハルピン夜話』は、1923年1月に発売されてからわずか4ヶ月で130版を重ね、また1929年と39年にそれぞれ異なる出版社から再版されている。裸踊りのバイブルともいわれるこの本には、ロシア人女性のセクシュアリティへの日本男性の欲望が、ロシア/日本の転倒する国力と、日本人男性/白人女性の転倒する人種の性的消費構造が絡み合うものとして、現れている。」

高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」
(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、242頁)

【資料6-A】戦跡 日露戦争追体験

「旅行者たちは、あくまで、日清戦争日露戦争における日本軍の輝かしい勝利という物語によって見ているのである。歴訪した地が、史跡であり名勝であるのは、それらの地が帝国日本の拡大にとって記憶し記念すべき土地であるからである。中国、韓国の歴史にとっての史跡ではなく、帝国日本の歴史にとっての史跡なのである。[……]旅行者たちの関心は日本軍の戦跡にあり、もっぱら自らの歴史を参照した意味によって満洲韓国の各地を見ていた。したがって、現地の人々にとって重要な歴史的意味を持つ場所は、日本人旅行者からはまったく別の視点から眺められることになり、また現地の人にとって特別の意味をもたない小さな高地が、日本人旅行者のもつ物語においては日本軍激戦の二百三高地として感涙をもって見る聖地となったのである。日本人旅行者は、自らが訪れる満洲韓国の地名について、あらかじめ一定の知識をもっていたことが多かった。それを知ったのは、日清戦争日露戦争での新聞雑誌の報道によってである。[……]戦況記事や号外で満洲韓国の地名は繰りかえし繰りかえし登場していた。しかも、そこでおこなわれていた戦闘の行方に一喜一憂していただけに、その地名に特別の思い入れを抱いていたことも多かったはずである。また活字で地名を知っただけではない。日露戦争においては、写真や活動写真でそれら戦場の風景を見て、外地での戦闘に大きな想像力を働かせることも多かった。メディアの報道によって記憶し想像した土地、その場に立つだけでも、帝国日本の戦勝をあらためて感じただろうが、さらにその場で同行した海軍軍人や現地駐屯の陸軍軍人が地形を指しながら、激戦の有様を語ったのであるから、旅行者たちは、あらかじめもっていた帝国日本の拡大のイメージを現地で実感し、再確認することになったのである。」

有山輝雄『海外観光旅行の誕生』(吉川弘文館、2002年、74-75頁)

【資料6-B】大日本帝国の発展と戦跡

満洲における日本の特殊権益を獲得する原因となった日露戦争の戦跡が明治末期から大正年間にかけて各地で観光名所化され、日本人の団体旅行ツアーは聖地巡礼のごとくこれらの史跡を訪ねるものが多い[……]遠い満洲まで出かけて日露戦争の戦跡を訪ね歩くことは、単なる物見遊山ではなくて大日本帝国の発展の礎を偲ぶ有意義な社会勉強としての性格を持ち合わせていたということができる。満洲国が建国された後は、昭和6年(1931)に勃発した満洲事変の史跡も「新戦跡」として、観光客を迎え入れるようになっていった。」

小牟田哲彦大日本帝国の海外鉄道』(東京堂出版、2015年、183頁)

【資料6-C】戦跡の聖地化

「戦跡で最も有名な都市は、日本が諸帝国に仲間入りする契機となった二つの重要な戦争、日清・日露両戦役の激戦地、旅順である。満洲事変まで、旅順市には関東州内に建てられた戦跡記念碑32ヵ所のうちの27ヵ所が集中し、1929年11月からの1年間で参拝客はすでに5万人に上った。[……]満洲事変後、奉天長春(のち新京に改名)などで新たに数多くの戦跡が産み出されたが、それは「霊地旅順」の後景化をもたらすどころか、かえって満洲獲得の起源となる日露戦争の記憶を作為的に蘇らせ、旅順の「聖地化」に一層拍車をかけた。「概言すれば旅順の聖地たる、真に満洲に於ける我生命線の発芽であり、新満洲国の萌芽であり、日満両国をして融合飽和せしめた契機である」と、建国の翌年、旅順市役所から発行されたリーフレット『聖地旅順』にあるように、旅順は伊勢神宮と同じく「聖地」に祭り上げられるようになった。[……]戦跡記念地は、内地客に「国威の伸張」と「皇恩の無辺」を感激させ、「戦死者の同胞」としての一体感を共有させ、内外邦人の国民的結合と日本人の覚悟を一層強固にする「聖地」として「舞台化」されるようになった。」

高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」
(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、230-233頁)

【資料7】満洲における温泉

「戦跡以外では、温泉地のリゾート開発も日本人の手によって進められていた。満鉄本線(現・中国国鉄瀋大線)の沿線に湧く熊岳城温泉と湯崗子温泉、それに満鉄安奉線(現・中国国鉄瀋丹線)の安東(現・丹東)から近い五龍背温泉は満洲三大温泉と称され、保養施設が整えられ、満鉄は最寄り駅に急行列車を停車させたり旅館を直営したり割引切符を発売したりして、集客に一役買っていた。」

小牟田哲彦大日本帝国の海外鉄道』(東京堂出版、2015年、183頁)

【資料8-A】観光資源としての都市(ハルピン・奉天・新京)

「[……]満鉄その他の鉄道駅を中心とする都市そのものが観光地となっているケースが多いのは、自然探勝型の行楽地も少なくない朝鮮とは対照的だ。満洲における日本の権益があくまでもロシアから受け継いだ満鉄とその附属地に限られていて、満洲全体が日本の勢力下にあったわけではないからである。満洲国が建国されてもその事情が劇的に変化したわけではなく、都市部から遠く離れた原野や密林、山岳地帯には、馬賊と呼ばれるゲリラ集団が跳梁跋扈していて、呑気にハイキングを楽しめる環境とは程遠い地方が少なくなかった。それに、満鉄の主要駅がある街そのものが、日本人にとっては異国情緒溢れる観光地でもあった。日露戦争以前からロシア革命の頃までロシアの権益地であったハルピンはその代表例で、昭和以降も街並み全体に強いロシア情緒が感じられた。一方、清王朝時代に首都あるいは副都として重視され続けていた奉天(現・瀋陽)には、中華風の城塞都市としての風情が漂う。日本人が内地の地方都市を凌ぐ近代都市として急速に整備が進んだ満洲国建国後の新京(現・長春)も含めて、満鉄沿線の主要都市はそれぞれに、内地からの旅行者の目を見張らせる観光的魅力を持っていた。」

小牟田哲彦大日本帝国の海外鉄道』(東京堂出版、2015年、185頁)

【資料8-B】満洲の一般概念」が得られる六つの観光都市(奉天・撫順・新京・哈爾濱・旅順・大連)

「1935年3月に行われた「日満中継放送」で、満鉄旅客課の加藤郁哉が、内地人に満洲への旅行を強く勧め、「満洲の一般概念」が得られる旅程を次のように紹介している。「下関を出発地点と致しまして朝鮮の釜山、京城平壌を見、満洲に入りまして先づ清朝の古い歴史を持ち現に満洲商工業の中心地であり、満洲事変の発生地でもある奉天、次に炭の都として、露天掘で有名な撫順、次に国都として満洲国の溌剌たる心臓新京を見て哈爾濱に到着致します、北鉄接収後の同胞第一線の活動状況を具に視察致しまして、夜は皆様ご存じの異国的情緒にもふれて一路南下します。それから聖地旅順に詣でて日露熱血の戦場に先輩の霊を弔ひ、非常時日本に処する国民としての覚悟を一層強固にする、……斯くて満洲国の表玄関でありまする大連に満洲経済のバロメーターとして、今日の大をなした埠頭を視察、愈々満洲とも別れまして、大阪商船の定期船で下関に帰着するのであります。」このコースに組み込まれた六つの都市は、満洲国建国後日本語観光バスが相次いで登場した都市である。」

高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」
(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、225-226頁)

満洲への大衆的欲望の誘発

満洲事変後、戦争美談の人気に伴うラジオ加入数の激増や、「満蒙国運進展記念」協賛広告の出現、満洲関係の博覧会、展覧会ブームなど、一種の「満洲特需」現象が起こっている。日本中の関心と視線が「満洲」に集中されているなか、従来にも増す修学旅行団に加え、新聞社や、鉄道省各地方都市運輸事務所、ビューロー、日本旅行会などの諸団体も、こぞって「新満洲国視察団」の一般募集に乗り出した。一例を挙げると、満洲国建国宣言が発表された1932年3月、夕刊大阪新聞が「満蒙大博覧会」を主催するかたわら、「景気は満蒙から 大満洲国視察」と題するポスターを出し、満鉄や、朝鮮総督府鉄道局及び鉄道省大阪運輸事務所の後援のもとに、特別臨時列車を仕立てて大規模な「満蒙視察団」を募集した。このように、新聞社、博覧会、鉄道省などさまざまな文化装置のコラボレーションは、満洲への旅立ちを駆り立て満洲という「野外劇場」への夢を膨らませているのである。

高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」
(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、222頁)