史料判読能力養成講座011 明治天皇崩御(『原敬日記』明治45(1912)年7月29日より)

教授の質問に答えられなくて死亡。

  • 質問まとめ キミは答えられるか!?

問1.明治天皇大喪の日付を答えよ。

問2.明治天皇の死去は七月三十日(宮内省発表)だが、明治天皇大喪は九月十三日である。なぜこのような期間が生じるのか?

  • 殯(もがり)の儀式のため
  • 【殯】もがり (『国史大辞典』)
    • 「人間の死後、埋葬するまでの間、遺骸を棺に納めて特別に設けられた建物に安置しておく葬喪儀礼の一つ。「あがり」とも読み、また荒城(あらき)ともいう。そのための建物を喪屋(もや)といい、特に天皇・皇族の喪屋を殯宮(もがりのみや・あがりのみや・あらきのみや)という。〔……〕天皇の殯宮儀礼の場合、殯宮内には皇后・皇太后・皇女など肉親の女性が籠り、土師氏の管掌のもとに遊部が奉仕して儀礼が行われたが、一方殯庭においては誄(しのびごと)の奏上や和風諡号(しごう)の献呈など、中国の影響に基づく儀礼が行われた。また殯宮儀礼の期間も長期化し、天皇や王族の場合は一年以上に及ぶことがまれではなく、敏達・斉明のように五年を超えることさえある。しかし殯宮儀礼が行われたことを明確に示す記録があるのは文武までで、以後は埋葬までの期間も大幅に短縮されており、これには仏教に基づく葬礼や火葬の採用が大きく影響していると見られる。」

問3.なぜ明治天皇の実際の死去と宮内省の発表でズレがあるのか答えよ。

  • 実際に死去したのが七月二十九日の夜半だったので、践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったため。
  • 明治天皇崩御はいつか(『国史大辞典』における【明治天皇】の項目より)
    • 〔……〕宮内省の公式発表では七月三十日午前零時四十三分とされているが、当時、宮中に詰めていた内務大臣原敬は七月二十九日の日記の中で、「午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる」と記し、また、同じく海軍次官財部(たからべ)彪は「実際ノ崩御ハ十時四十三分」と同日の日記に記している。いずれにしても、天皇の死去が宮内省の公式発表とは異なり、実際には七月二十九日の夜半であることは確かのようである。ほぼ二時間その時間を遅らせ七月三十日としたのは、践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったためとみられる(『原敬日記』『財部彪日記』による)。
  • 践祚天皇崩御ののち直ちにおこなう(『国史大辞典』における【践祚】の項目より)
    • 〔……〕践祚皇位の連続という考え方からすれば先帝崩御の即日行われるべきものであるが、明治以前では崩御践祚との間に若干の時日を隔てる例が少なくない。そこで明治二十二年(一八八九)制定の皇室典範は「天皇スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定し、践祚天皇崩御ののち直ちに行わるべきことを明示した。この点は昭和二十二年(一九四七)制定の現行皇室典範においても同様である。

問4.では践祚とは何か?即位との違いを説明せよ。

  • 践祚】せんそ (『国史大辞典』)
    • 定義
      • 皇嗣天皇の位を承け継ぐことを意味し、その語の意義においては即位と同じで、いずれも「アマツヒツギシロシメス」と訓む。
    • かつては践祚と即位は同じだった。
      • 歴代の皇位継承において持統天皇に至るまでは践祚と即位の区別なく、践祚すなわち即位であって、その儀式は、〔……〕天神の寿詞の奏上と神璽の鏡剣の奉上を中心とし、同時にこれを群臣に示し、群臣これを拝賀することを主たる内容とするものであったことが知られる。
    • 践祚と即位の分離
    • 機能分化
      • そして践祚の儀即位の礼が分離して以後、天神の寿詞の奏上は大嘗祭において行われ、即位の旨を天下に宣示することは即位礼において行われることとなったため、践祚の儀は神器の伝承を中心とする簡素なものとなり、また宝鏡は別殿に奉安して動座せず、代りに璽が用いられ、新帝には剣と璽が上られることとなった。これを剣璽渡御の儀という。
    • 明治以後の践祚
      • 践祚皇位の連続という考え方からすれば先帝崩御の即日行われるべきものであるが、明治以前では崩御践祚との間に若干の時日を隔てる例が少なくない。そこで明治二十二年(一八八九)制定の皇室典範は「天皇スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と規定し、践祚天皇崩御ののち直ちに行わるべきことを明示した。この点は昭和二十二年(一九四七)制定の現行皇室典範においても同様である。
    • 践祚の式
      • なお、明治四十二年制定の登極令附式には践祚の式として、「賢所ノ儀」「皇霊殿神殿ニ奉告ノ儀」「剣璽渡御ノ儀」「践祚後朝見ノ儀」が規定され、大正天皇および今上天皇践祚はこれに基づいて行われたが、同令は昭和二十二年廃止され、これに代わるべき法令は制定されていない。
  • 【即位】そくい (『国史大辞典』)
    • 定義
    • 明治以前の儀礼内容
      • その儀礼は、まず式日に先立って天皇の礼服御覧のことがあり、また勅使を伊勢神宮に遣して奉幣して即位の由を奉告し、さらに勅使を山陵に遣して同じく奉告のことあり、前一日大極殿の装飾を行う。当日は親王以下文武百官礼服を着して大極殿の前庭に参列し、ついで天皇冕服を着して高御座に登る。それより宣命使版位について即位の旨を宣し、百官再拝舞踏し、武官は旗を振って万歳を唱える。その後叙位のことあり、おわって天皇大極殿の後房に還御。以上の即位礼の大要は江戸時代末まで行われた。ただ、式場は大極殿の焼亡などの理由で豊楽殿・紫宸殿または太政官庁が用いられ、中世にはもっぱら太政官庁において行われたが、後柏原天皇以後紫宸殿が用いられるのが通例となった。
    • 践祚と即位の間もタイムラグがあるし、即位の礼をせずに退位する事例もある。
    • 明治天皇即位の礼
      • 明治元年(一八六八)八月二十七日行われた明治天皇即位の礼においては、旧来の唐風を廃し、天皇は冕服にかえて束帯の装束にて紫宸殿に出御、庭上の鋪設、文武官の服装を改め、ことに庭上中央に大地球儀を置くなどして、庶政一新の時勢にふさわしい新儀が行われた。
    • 戦前の皇室典範の規定
      • 同二十二年制定の皇室典範には「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と定められ、同四十二年制定の登極令には即位の礼を行うべき時期その他詳細な規定が定められたが、両者とも昭和二十二年(一九四七)廃止された。皇室典範のみは現行のものが改めて制定されたが、前掲の箇条については触れるところがない。
  • 【登極令】とうきょくれい (『国史大辞典』)
    • 概要
      • 践祚改元ならびに即位礼・大嘗祭に関する規定を定めたもので、明治四十二年(一九〇九)二月十一日皇室令として公布された。全十八条と附式とから成っている。
      • まず第一条に「天皇践祚ノ時ハ即チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且践祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム」と規定し、第二・第三条には天皇践祚の後直ちに元号を改めること、元号詔書を以て公布することなどを定め、第四条以下は即位礼と大嘗祭に関する規定で、即位礼と大嘗祭は諒闇明けの後秋冬の間に行うこと、大礼使の設置、期日の公告、大嘗祭の斎田の勅定、即位礼と大嘗祭は附式の規定に従って行うこと、大礼後の大饗その他について定めている。
    • 附式
      • 附式は「第一編践祚ノ式」と「第二編即位礼及大嘗祭ノ式」から成る。即位礼は明治天皇即位の際古来の唐風をかなり改めたが、登極令の制定にあたり、さらに改革が行われた。すなわち、紫宸殿の儀の装飾を日本風に改めたこと、紫宸殿の儀に皇后が出御すること、大饗に洋風を加味したこと、地方饗饌の途を開いたこと、参役者以外の参列者の服装を洋装としたこと、その他である。
    • 廃止
      • 登極令は昭和二十二年(一九四七)五月二日他の皇室令とともに廃止された。
  • 皇位継承】 (『国史大辞典』)
    • 〔……〕明治時代に入り、皇室典範の制定により「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」(第一条)と定められ、以下第八条まで継承の順位を規定し、さらに第一〇条において「天皇スルトキハ皇嗣即チ践祚シ」と規定して古来の譲位の儀を廃し、天皇崩御皇位継承の唯一の原因であることを示した。昭和二十二年(一九四七)制定の現行皇室典範皇位継承についてはおおむね前典範と同じである。

問5.大正天皇践祚は1912年7月30日だが、即位の礼は1915年(大正4年)11月10日なのは何故か。

  • 登極令の規定では、即位礼と大嘗祭は諒闇明けの後秋冬の間に行う。諒闇明けとは、先代天皇の数え年で崩御後3年目。そのため、本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后崩御により1年延期された。(【要出典】諒闇の期間は1909(明治42)年制定の皇室服喪令では、大行天皇(崩御した後にその天皇追号が定められるまで、新たに即位した天皇と区別するための呼称)および皇太后のためには1年である。)