今回
- 指摘されたことまとめ
- 制度の枠組みについて
- そもそも当時の観光制度は如何なるものであったのか。例えば戦後は1964年まで海外旅行は自由化されていなかった。戦前における観光制度について触れる必要あり。観光を許されていた人々、観光をすることができた階層、観光地の選定などなど。観光制度の歴史を調べよ。
- 人口移動の定義について
- 人口移動と人の移動は異なる。都市労働者、開拓民(農業移民)、出稼ぎ労働者などと、観光や旅行は異なるのでは?人口移動の定義づけを述べよ。
- 日本近代史にもたらす意義づけ
- 時代の射程の問題
- 制度の枠組みについて
- 指摘を受けて
- 対満洲認識の形成について
- 「〔……〕この間、柳条湖事件の真相は太平洋戦争敗戦後まで秘匿されたうえ、軍部の発表を鵜呑みにした新聞・ラジオなどマスコミのセンセーショナルな報道や、軍部が在郷軍人会の組織を全国的に動員して展開した国防思想普及運動などによって、国民の大多数は「十万の生霊、二十億の国帑」の犠牲を払って獲得したとされる満蒙への執着心を刺激され、反中国・反連盟・反欧米の排外主義と軍国主義が急激に形成された。全国にわたって、日本軍への慰問、国防献金、集会・決議、従軍志願が続出し、政府の不拡大方針を掘り崩す役割を演じた。また戦争の負担が限定されていた半面、事変下に好景気が到来したことも、国民に事変を支持させる要因となった。一方、全国労農大衆党や日本共産党の反戦闘争は散発的なものに終り、ジャーナリズムでは石橋湛山の率いる『東洋経済新報』が満蒙放棄論を主張したが、大勢に抗することはできなかった。」(『国史大辞典』【満洲事変】の項目より)
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- 他にも新聞記事文庫 : 満州日報 1931.10.12-1931.10.17など。
- 満洲事変における「十万の生霊、二十億の国帑」を挙げたが、観光と対満洲認識形成の関係が指摘されているものもある。
- 「満洲事変後、戦争美談の人気に伴うラジオ加入数の激増や、「満蒙国運進展記念」協賛広告の出現、満洲関係の博覧会、展覧会ブームなど、一種の「満洲特需」現象が起こっている。日本中の関心と視線が「満洲」に集中されているなか、従来にも増す修学旅行団に加え、新聞社や、鉄道省各地方都市運輸事務所、ビューロー、日本旅行会などの諸団体も、こぞって「新満洲国視察団」の一般募集に乗り出した。一例を挙げると、満洲国建国宣言が発表された1932年3月、夕刊大阪新聞が「満蒙大博覧会」を主催するかたわら、「景気は満蒙から 大満洲国視察」と題するポスターを出し、満鉄や、朝鮮総督府鉄道局及び鉄道省大阪運輸事務所の後援のもとに、特別臨時列車を仕立てて大規模な「満蒙視察団」を募集した。このように、新聞社、博覧会、鉄道省などさまざまな文化装置のコラボレーションは、満洲への旅立ちを駆り立て、満洲という「野外劇場」への夢を膨らませているのである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、222頁)
改善点
- リサーチクエスチョンの再設定
参考になりそうなものメモ
満蒙問題 (『国史大辞典』)より
- 日露戦争と満蒙進出の始まり
- 満蒙問題の発生
- 二十一箇条要求
- 満蒙独立運動とその失敗
- 欧米列強、中国双方からの日本の満蒙権益への抵抗
- 加藤高明内閣と幣原外交
- 張作霖爆殺事件
- 満洲事変
- こうした情勢に危機感を深めた満鉄の中堅社員は昭和三年に満洲青年連盟を組織し、満洲と日本内地で満蒙問題の宣伝活動を行い、関東軍では板垣征四郎高級参謀と石原莞爾参謀が中心となって昭和四年から満蒙問題を解決するための満蒙領有計画の策定にとりかかった。おりから世界恐慌と重なって満鉄が創業以来の営業不振に陥り、土地商租その他の問題で日中間の紛争が続発すると、日本国内では「生命線満蒙の危機」が叫ばれ、陸海軍の急進的青年将校らによって満蒙問題の武力解決とそのための軍事クーデターの謀略が秘かに企てられた。かくて昭和六年九月、関東軍の謀略による柳条湖事件を合図として、日本は中国東北への軍事侵略(満洲事変)を開始した。
- [参考文献]
- 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』一