演習B報告002における指摘と改善点の整理など

今回

  • 指摘されたことまとめ
    • 制度の枠組みについて
      • そもそも当時の観光制度は如何なるものであったのか。例えば戦後は1964年まで海外旅行は自由化されていなかった。戦前における観光制度について触れる必要あり。観光を許されていた人々、観光をすることができた階層、観光地の選定などなど。観光制度の歴史を調べよ。
    • 人口移動の定義について
      • 人口移動と人の移動は異なる。都市労働者、開拓民(農業移民)、出稼ぎ労働者などと、観光や旅行は異なるのでは?人口移動の定義づけを述べよ。
    • 日本近代史にもたらす意義づけ
      • 先行研究の整理と分類をしたが、自分が研究しても、その細分化された分類の一つに加わるだけではないか。全体との枠組みを考えよ。観光・旅行による満洲認識の形成だということだが、その日本人の対満認識の形成が日本近代史とどんな関係があるのか?たとえば満洲事変において大衆の満洲への執着が軍部を後押しし政府の不拡大方針の突き上げとなったことなど。意義づけを行え。
    • 時代の射程の問題
      • 今回の報告では、関東州と満鉄附属地を支配下にいれた1905年から満洲国崩壊の1945年までを述べていたが、その40年のなかにおいてもそれぞれフェイズがことなるので、区分せよ。日露戦争後と戦間期満洲事変後ではそれぞれ時代性が異なる。時代の射程を考慮せよ。
  • 指摘を受けて
    • なんか問題意識として、観光そのものよりも、まず前提として対満洲認識の形成が根本にあると改めて感じた。満洲認識を形成することになった一因となったのが観光。対満洲認識の形成といっても、観光以外に様々なプロパガンダ政策がある。と、いっても、全ての満洲認識形成を担った要素を検討するのは風呂敷を広げすぎている。そのため、まず満洲認識の形成、その検討手段としての観光と考えた方が良い。
  • 満洲認識の形成について
    • 取り上げたいのは、日本人(大衆、国民、帝国臣民)の満洲への執着心について。日露戦争での旅順戦により父祖が血を流してとったとしてイメージが作り上げられたり、満蒙の特殊権益が強調されたり、満洲を手に入れることが自明であるとの世論?エートス?が作り上げられた装置に着目したい。
    • たとえば、国史大辞典の満洲事変を引くと、帝国臣民が軍部の拡大を後押ししたことが分かる。
      • 「〔……〕この間、柳条湖事件の真相は太平洋戦争敗戦後まで秘匿されたうえ、軍部の発表を鵜呑みにした新聞・ラジオなどマスコミのセンセーショナルな報道や、軍部が在郷軍人会の組織を全国的に動員して展開した国防思想普及運動などによって、国民の大多数は「十万の生霊、二十億の国帑」の犠牲を払って獲得したとされる満蒙への執着心を刺激され、反中国・反連盟・反欧米の排外主義と軍国主義が急激に形成された。全国にわたって、日本軍への慰問、国防献金、集会・決議、従軍志願が続出し、政府の不拡大方針を掘り崩す役割を演じた。また戦争の負担が限定されていた半面、事変下に好景気が到来したことも、国民に事変を支持させる要因となった。一方、全国労農大衆党日本共産党反戦闘争は散発的なものに終り、ジャーナリズムでは石橋湛山の率いる『東洋経済新報』が満蒙放棄論を主張したが、大勢に抗することはできなかった。」(『国史大辞典』【満洲事変】の項目より)
      • 満洲事変後、戦争美談の人気に伴うラジオ加入数の激増や、「満蒙国運進展記念」協賛広告の出現、満洲関係の博覧会、展覧会ブームなど、一種の「満洲特需」現象が起こっている。日本中の関心と視線が「満洲」に集中されているなか、従来にも増す修学旅行団に加え、新聞社や、鉄道省各地方都市運輸事務所、ビューロー、日本旅行会などの諸団体も、こぞって「新満洲国視察団」の一般募集に乗り出した。一例を挙げると、満洲国建国宣言が発表された1932年3月、夕刊大阪新聞が「満蒙大博覧会」を主催するかたわら、「景気は満蒙から 大満洲国視察」と題するポスターを出し、満鉄や、朝鮮総督府鉄道局及び鉄道省大阪運輸事務所の後援のもとに、特別臨時列車を仕立てて大規模な「満蒙視察団」を募集した。このように、新聞社、博覧会、鉄道省などさまざまな文化装置のコラボレーションは、満洲への旅立ちを駆り立て満洲という「野外劇場」への夢を膨らませているのである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、222頁)

改善点

  • リサーチクエスチョンの再設定
    • 以上により、私のリサーチクエスチョンは「人の移動(満洲観光)を促すことになった原動力」よりも「満洲への執着心の醸成」、その手段としての「観光」といった方が良いのかもしれない。
参考になりそうなものメモ
満蒙問題 (『国史大辞典』)より
  • 概要
    • 満洲事変に至る日本の大陸政策の主要課題とされた満蒙地方における日本の権益擁護をめぐる問題。満蒙とは満洲(中国東北)と内蒙古内モンゴル)を指す当時の日本側の呼称である。
  • 日露戦争と満蒙進出の始まり
    • 日露戦争に勝利した日本は、明治三十八年(一九〇五)のポーツマス講和条約満洲に関する日清条約によって関東州(現在の中国旅大地区)の租借権、南満洲鉄道(長春―旅順口間)と付属炭坑の経営権、鉄道付属地行政権、鉄道守備兵駐屯権などを獲得した。
  • 満蒙問題の発生
    • 日露戦争後、日本は南満洲が日本本土および朝鮮に隣接することから同地方が日本の特殊地域であると主張し、この地域における日本の権益を維持強化する問題は、いわゆる「満洲問題」として日本の大陸政策に重要な地位を占めた。日本は南満洲から列強の勢力を排除するため、第一次・第二次日露協約を通じてロシアとの間に満洲を二分し、南満洲を日本の勢力範囲とした。さらに日本は中国における列強との借款競争に対抗するため明治四十五年に第三次日露協約を結び、東部内蒙古を勢力範囲に加えた。これ以後「満洲問題」は「満蒙問題」としてとりあげられるようになり、東部内モンゴルへの利権の扶殖が新たな課題となった。
  • 二十一箇条要求
    • 満洲における日本の権益のうち、関東州租借権は露清間の原条約(一八九八年)にもとづいて原条約発効から二十五ヵ年を期限とし、南満洲鉄道は全通(一九〇三年)から三十六ヵ年で中国に買戻権が認められていた。そのため日本はかねてよりこれらの期限延長を策していたが、第一次世界大戦の勃発にその機会を見出した日本は、大正四年(一九一五)一月中国政府に二十一箇条要求を提出し、関東州租借権と南満洲鉄道の経営権をそれぞれ九十九ヵ年に延長させるとともに、南満洲と東部内モンゴルにおける鉄道・鉱山・日本人雑居について新たな利権を獲得した。
  • 満蒙独立運動とその失敗
    • この一方、大陸浪人川島浪速や参謀本部の一部軍人は満蒙地方を中国から分離独立させて日本の支配下に収めるため、明治四十五年と大正五年の二度にわたって満蒙独立運動を試みたが、いずれも失敗に終った。
  • 欧米列強、中国双方からの日本の満蒙権益への抵抗
    • 第一次世界大戦終結とともに欧米列強がアジアに復帰し、また五・四運動を契機に中国の反帝民族運動が高まると、日本の満蒙権益は双方からの強い抵抗にさらされることになった。
    • ワシントン会議で調印された日本を含む九箇国条約は中国の主権尊重と領土保全の原則をかかげ、日本の満蒙権益に関する要求をきびしく制約した。
    • 中国では利権回収運動が展開され、関東州租借権の本来の期限がきれる大正十二年には中国各地で旅大回収運動がおこった。翌年の第一次国共合作につづいて国民革命軍が北伐を開始すると、満蒙支配の危機を感じとった日本支配層のなかに満蒙問題に対する関心がにわかに増大した。
  • 加藤高明内閣と幣原外交
    • 大正十三年に成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣の外相幣原喜重郎は国際協調と中国内争不干渉の立場から満蒙問題の解決(満蒙権益を擁護すること)に努めたが、軍部・右翼を中心とする対中国強硬派はそれを軟弱外交と非難した。
  • 田中義一山東出兵
    • 昭和二年(一九二七)、田中義一内閣は国民革命が満蒙地方に波及するのを阻止するため、満蒙を中国本部から分離する政策をうちだし、三次にわたって山東出兵を強行した。
  • 張作霖爆殺事件
    • 一方、現地の関東軍の中には満蒙問題の武力解決の主張が芽生え、昭和三年六月には関東軍参謀によって張作霖爆殺事件がひきおこされた。しかし、こうした日本側の強硬姿勢はかえって中国の民族的抵抗を強めた。張作霖の子張学良は同年末、東北三省に青天白日旗をかかげて国民政府に合流し、日本の満鉄に対抗するため胡蘆島を起点とする東北幹線鉄道網の敷設を計画した。また奉天(現在の瀋陽)をはじめ東北各地で日本の利権回収を要求する中国人の運動が活発となった。
  • 満洲事変
    • こうした情勢に危機感を深めた満鉄の中堅社員は昭和三年に満洲青年連盟を組織し、満洲と日本内地で満蒙問題の宣伝活動を行い、関東軍では板垣征四郎高級参謀と石原莞爾参謀が中心となって昭和四年から満蒙問題を解決するための満蒙領有計画の策定にとりかかった。おりから世界恐慌と重なって満鉄が創業以来の営業不振に陥り、土地商租その他の問題で日中間の紛争が続発すると、日本国内では「生命線満蒙の危機」が叫ばれ、陸海軍の急進的青年将校らによって満蒙問題の武力解決とそのための軍事クーデターの謀略が秘かに企てられた。かくて昭和六年九月、関東軍の謀略による柳条湖事件を合図として、日本は中国東北への軍事侵略(満洲事変)を開始した。
  • 満蒙問題の歴史的意義
  • [参考文献]
    • 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』一
満蒙特殊権益 まんもうとくしゅけんえき (『国史大辞典』より)
  • 概要
    • 満蒙地方において日本があらゆる手段を講じて保持することを主張した条約上の権利および実際上の利益。満蒙とは現在の中国東北と内モンゴル地区を指し、日本は日露講和条約満洲に関する日清条約、二十一箇条要求などによってこの地方に多くの政治的経済的利権を獲得した。
  • 具体的内容
    • その主なものは、関東州租借権、南満洲鉄道および付属炭坑の経営権、安奉鉄道(安東―奉天間)経営権、吉長鉄道(吉林長春間)借款権、南満洲における居住・往来・営業権、鉱山採掘権および土地商租権、鉄道守備兵駐屯権、満鉄付属地行政権などである。
  • 特殊権益の獲得
    • 満蒙地方が日本本土に近接していることから、日本はこれらの利権を特殊権益と主張したが、その真の狙いは中国の利権回収要求を拒否するとともに、満蒙地方から列国の競争を排除することにあった。そのため日本は四次にわたる日露協約によって南満洲と東部内モンゴルに日本が特殊権益を有することをロシアに認めさせ、また大正六年(一九一七)の石井・ランシング協定によって日本の中国に対する特殊な関係をアメリカ政府に認めさせた。
  • 第一次世界大戦
    • しかし第一次世界大戦が終ると、日本の満蒙特殊権益の主張は列国および中国から強い抵抗をうけることになった。日本の満蒙権益は利権回収を要求する中国民族運動の標的となり、ワシントン会議で締結された九箇国条約は中国の主権尊重と領土保全を定め、日本の満蒙特殊権益の主張をきびしく制約した。やがて中国の国民革命が満蒙地方に波及する勢いを示すと、昭和二年(一九二七)、田中義一内閣は特殊権益を擁護するため満蒙分離政策をかかげ、三次にわたって山東出兵を強行した。また現地の関東軍は秘かに満蒙領有計画を策定し、満洲事変に道をひらいた。
近代〔辛亥革命と二十一箇条要求〕(『国史大辞典』より)
  • 辛亥革命と日本政治
    • 日本が韓国を併合し関東州を租借して半ば大陸国家に転じたとき中国で辛亥革命が勃発した。軍部はその混乱に乗じて派兵をはかったが、政府が国際関係を考慮して拒絶すると陰謀的に満蒙独立運動を始め失敗した。軍部は政府に拘束されず出兵できる朝鮮駐屯師団の増設を求め、財政難を理由に拒否した西園寺内閣を陸相の単独辞職で崩壊させた。民衆は憲政擁護を叫んで軍部の専制に反撃し、桂内閣を倒した。
  • 第一次世界大戦における大陸進出
    • 政党と軍部の妥協点に成立した大隈内閣は第一次世界大戦が始まると参戦して山東半島南洋群島のドイツ権益を手中に収め、ついで袁世凱政府に二十一箇条要求をつきつけてこれを承諾させ、ポーツマス講和で阻止された大陸支配の野望を実現した。袁世凱の死後は北方軍閥段祺瑞政府に西原借款を与えて南方革命派の鎮圧に力を貸し日本に従属させようとした。ロシア革命がおこると日華共同防敵軍事協定を結びアメリカと協力して大軍をシベリアに送り沿海州と北満を日本の勢力範囲に収めようとした。
  • 第一次世界大戦
    • しかし、このような日露戦後の大陸政策はアメリカとの対立を深める一方、レーニンの革命外交とウィルソンの民族自決提唱により鼓舞された朝鮮・中国の民族運動に直面することになり、シベリアではパルチザンの抵抗をうけて苦戦し、また朝鮮の三・一運動、中国の五・四運動に直面して孤立することになった。
  • 日満支一体化構想
    • また第一次世界大戦に航空機と戦車が主戦力として登場した結果、陸軍の近代化には重工業の育成と石油資源の確保が不可決であることがわかり、ここから日本・朝鮮・満洲の経済一体化による資源自給圏確保の構想が生まれた