雑録

鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』(東京大学出版会、2011) 第二章「東条内閣の総辞職」(57-107頁)

  • 第二章の概要
    • 1944(昭和19)年7月7日、絶対国防圏の一角であるサイパン島が陥落し、7月18日、東条内閣は総辞職する。第二章は、反東条内閣は必ずしも和平運動ではないのではないかという疑問からスタートし、東条内閣瓦解の原因を明らかにする。
  • 第二章で明らかになったこと
    • 東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは、反東条運動が必ずしも和平運動・終戦工作ではなかったからである。
    • 昭和天皇の意向は、米内光正の海相就任問題や対重慶和平工作問題でも重要な役割を果たした。
    • 東条内閣の末期、軍事力という外圧は、軍部内に一か八かの勝負を行おうとする動きを生み出し、同時に、軍事情報の相違に起因する軍事指導者の更迭を生み出した。

以下、第二章で参考になった箇所抜き書き

  • 1944年における各政治勢力の戦争に対する態度
    • 木戸幸一 ドイツ降伏後・ソ連仲介・大義名分確保による講和論
      • 「〔……〕外交交渉のタイミングは「独乙の崩壊と同時とせず、而かも米英蘇が一致して日本に当らざる以前」であり、その交渉方法はソ連の仲介を前提とし、その最低講和条件は「ABCDの包囲体制の打破」であると心に描いたのであった。要するに、ドイツ降伏後・ソ連仲介・大義名分確保による講和論であるといってよい。この木戸の講和論の特徴は、「大東亜戦」の戦争目的を「ABCD包囲体制の打破」と再定義し、それを「目的を達成し得れば一応の結末に到達したるものと云うことを得べし」と講和の口実にしている点にある。」(60頁)
    • 昭和天皇 好機講和論
      • 昭和天皇は「米軍ヲピシヤリト叩ク事ハデキナイノカ」、「何処カデガチツト叩キツケル工面ハナイモノカ」と米軍に一撃を与えることを期待し、後のサイパン戦においては「日本海々戦ノ如キ立派ナル戦果ヲ挙グル様作戦部隊ノ奮起ヲ望ム」と激励した。これは、内心において、「一度何処かで敵を叩いて速かに講和の機会を得たい」と考えていたためであろう。〔……〕このような昭和天皇の軍事・外交に対する考え方は、何らかの軍事的・外交的好機をつかむことで講和に持ち込もうという点にその特徴があり、好機講和論とみなしてよい。」(62頁)
    • 東条と陸軍首脳部 「大東亜戦争」完遂論
      • 「東条と陸軍首脳部は、持久・防御的色彩の強い軍事戦略によって戦局を好転させ、「大東亜戦争」という大義名分の枠内での名誉ある講和を考えていた。」(62頁)
    • 陸軍参謀本部戦争指導班 早期決戦・妥協和平
      • 「戦争指導班は、日本の物的戦力のピークを1944年7、8月頃と正しく予想し、「日独共二座シテ「ヂリ」貧二堕センヨリハ決戦ヲ有利トスル」と結論づけた。そして、日独がこの決戦に勝利することで、独ソ和平の余地が生まれ、「妥協和平」のチャンスがあると期待したのである。また、この独ソ和平構想の前提には、日ソ提携論・日ソ同盟論であったようで、「日「ソ」不可侵条約、出来レバ日「ソ」同盟へ進展セシメ此ノ際「ソ」ヲ利シテ中共延テハ重慶切リ崩シニ波及セシム」という希望が述べられている。要するに、日独蘇が提携することで、世界の軍事バランスを再編成し、「「ソ」ヲシテ世界和平二導入セシムル」という意図であった。」(63頁)
    • 海軍の首脳部 「自存自衛」戦争論
      • 「海軍の首脳部は、内心では米国に勝つ自信を失いつつあったが、海軍としては「自存自衛」の戦争に最善を尽くそうとし、決戦中心の積極作戦を続行していた。開戦時、避戦論者であった海軍次官沢本頼雄は、「已に開戦せる以上、全力を挙て戦勝の道に邁進せざるべからず、この際手を引けば、再起の機会なからむ」と考えていた。」(64頁)
    • 海軍省の少将佐官グループ 「海相更迭→戦局挽回論」
      • 「彼らは、陸海均等では戦争に勝てないと考え、陸軍に「協調」する嶋田海相を更迭し、対陸軍強硬派の将官(豊田副武、米内光正等)を海相に擁立しようとした。」(64頁)
    • 海軍出身重臣岡田啓介 腹芸・戦局収拾論
      • 「岡田大将は、二・二六事件の時に襲撃されて九死に一生を得た苦い経験があり、開戦時から日本の国力差を考えて戦争の前途を悲観していた。岡田大将は、対外的にはなるべく良い形で「戦局収拾」を行い、対内的には、「腹芸」によって実現可能性のある時期と方法で国家を救いたいと考えていた。」(66頁)
    • 近衛文麿 対米降伏・国体護持論
      • 重臣の中でも近衛文麿だけは、東条と対立する陸軍皇道派のグループと連携して、別の動きをみせていた。近衛は、日本の敗戦と戦後の責任問題を見越して、なるべく良い形で降伏することによって戦後の皇室の立場を有利にしようと考えていた。」(66頁)
  • サイパン陥落と昭和天皇の自己保身
    • サイパン陥落という戦局の転換点で、昭和天皇は政治的な動きをみせた。すなわち、六月二四日、東条参謀総長と嶋田軍令部総長は、サイパン奪回作戦を断念する旨上奏したが、昭和天皇はこの上奏を裁可せずに、この問題を元帥府に諮詢したのである。これは異例のことであった。〔……〕サイパン奪回論者の批判が、統帥部を信任する天皇に向かうことを回避するため、サイパン放棄の決定に際し、政治的中立性を確保する必要もあった。昭和天皇にとっては、統帥部と元帥府が一致してサイパン放棄を上奏したという形式が何よりも重要であった。」(70-72頁)
  • 東条内閣倒閣
    • サイパン放棄の決定は、日本国内に衝撃を与え、政局は一挙に流動的なものとなった。本来であれば、軍の作戦方針を批判することは天皇統帥権に干渉することと同義であったが、東条と嶋田が統帥権独立の伝統を破って統帥部長を兼任していたことは、公然と彼らを批判する絶好の好機となった。〔……〕サイパンを見殺しにしたことで東条・嶋田に批判が高まると、木戸内大臣はそれに同調して、重臣や皇族、議会、海軍中堅層の東条批判を煽るようになった。〔……〕東条は重臣国務大臣(無任所大臣)として入閣させるために、国務大臣の岸に辞職を迫った〔……〕岸は、急に反旗を翻し〔……〕重臣が入閣しない場合には総辞職すべきだと主張したのである。岸と東条との間の激論は約1時間半に及び〔……〕岸の言動によって、重臣の入閣は必須条件となった。〔……〕内閣改造の成否は、重臣の米内光正が入閣するかどうかが決め手となった〔……〕だが米内は、現役復帰・海相就任を要求し、国務大臣としての入閣を断った。〔……〕東条は、米内が入閣しない以上、重臣や議会、岸信介等から協力を取り付けることができず、内閣総辞職するしかないと判断したのである。こうして一九四一年一〇月の組閣以来、二年九ヶ月にわたって続いた東条内閣は倒れた。」(73-80頁)
  • 八月一九日 最高戦争指導会議
    • 「〔……〕八月一九日、天皇臨席の下で最高戦争指導会議が開催され、「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」が決定した。この御前会議の意義は、本土がB29の爆撃圏に入ったことで長期継戦が困難となり、陸海軍の戦略思想が対米決戦という点で一致化したことである。」(p.83)
  • 対ソ外交
    • 小磯内閣期の和平構想は、第三国の仲介が暗黙の前提となっていた。最初に問題になったのが、対ソ外交の問題である。御前会議決定では、独ソ和平の斡旋も決定されたが、この独ソ和平の斡旋の時期について閣内で意見が対立していた。小磯首相が「独蘇和平斡旋ハ今日ヲ以テ好機トナシ直二試ミルヲ可トス」として交渉の即時開始を主張したのに対し、重光外相は「形勢ヲ無視セル議論」として猛反対していたのである。事態を悲観する重光は、ドイツ降伏後の和平交渉を視野に入れており、現段階での外交攻勢は好ましいものとは考えていなかった。むしろ、独ソ和平斡旋失敗のリスクを重視したのである。結局、梅津美治郎参謀総長が「速ニナル字句ハ謂ハバ気合ヲ示シタルモノニテ之アレバトテ今明日二実施セヨトノ意味ニモアラズ」と述べたことなどから、文言は「速二独蘇間ノ和平実現二努ム」というものになった。最高戦争指導会議は九月四日に対ソ特使派遣を決定したが、ドイツは一四日に和平斡旋を拒否し、同じく一六日にはソ連もこれを拒否した。独ソ和平斡旋は、重光の予想通り失敗に終わった。さらに九月二八日の最高戦争指導会議では「日蘇支三国間ノ安全保障条約又ハ不可侵条約ノ如キ具体案ヲ提示シテ交渉スルコト適当ナラズヤ」という意見も出されたが、重光が「事前ノ地均シヲ行ハズシテ今日ノ段階二於テ卒然トシテ不可侵若クハ安全保障条約等ヲ具体的二提案スルハ両国ノ大局的利害ノ一致二付相互的理解ナクシテ一方的二希望ヲ表示シ其ノ結果蘇側ハ之ヲ我ガ弱点ノ暴露セルモノト考へ結局蘇側二乗ゼラルル」ことになるとして反対したため、実現に至らなかった。」(84頁)
  • 戦争終結構想問題
    • 「一九四五年三月頃、重光外相と杉山陸相は、戦争収拾に関して二、三度密談している。この会談では、戦争収拾のタイミングや外交ルートに対する両者の考え方の相違が明らかとなった。重光外相は「ドイツ崩壊の際終戦に導かん」という独崩壊後交渉論であり、他方、杉山陸相は「少なくも本土決戦一撃和平、やむを得なければ戦争継続論」という本土一撃後交渉論であった。また、対ソ外交についても、重光外相が「今やソ連との国交調整は見込みなく」、「むしろ警戒しなければならない」という対ソ外交不能論であったのに対し、杉山陸相は「日本が本土で頑張っておれば、そしてうまくやれば、極東における戦争終結ソ連を利導できるかもしれない」という対ソ外交可能論であった。さらには、重光外相が天皇の「聖断」方式を主張したのに対し、杉山陸相は「開戦の責任上聖断をわずらわすことはできない」と反対したのである。このような両者の相違は、お互いに口にしなかった講和・降伏条件の最低ラインの相違に根ざしていると考えられる。おそらく、重光外相は、国際・軍事情勢がさらに日本にとって厳しくなるであろうという前提の上で、最大限日本に有利な条件を獲得しようとしたのだろうし、逆に、杉山陸相は、日本が絶対に譲歩することのできない講和条件を死守する必要があるという前提の上に、有利なな国際情勢・軍事情勢をつくりだそうとしていたのだろう。」(92-93頁)