雑録

遠山茂樹『明治維新』(岩波文庫、2018年) 序論(pp.19-36)

この本を読むにあたっては戦後歴史学についての知識が必要。

一 明治維新史の学問的確立の条件

  • 明治維新史を含め日本近代史が最も未開拓な分野であった理由
    • 「〔……〕第一に基礎史料が充分に公開されなかったこと。公開された少数のものも、その多くは、学界の公明な史料批判を受けることなく、史料所蔵者の側から一方的に編纂して与えられ、そこに作為、ないし任壹岐の選択が加えられた疑いがあっても、それを学問的に検討する便宜をもたなかったこと。」(19頁)
    • 「第二に、歴史的考察に関して、少なくとも戦前までは、天皇制という重大なタブーが存し、自由な研究をさまたげていたこと。この国家権力の根幹部分へのメスが拒否された場合、歴史的関心が高まらぬのは当然であったこと。」(19頁)
  • 尊王?or不尊王
    • 「〔……〕明治維新史ないし明治史の過程に、個々人がどのような立場をとったかが、彼ら、またその子孫の現在的利害関係に直接的につながっていた〔……〕その立場とは、特に天皇制との関連であった。いいかえれば、それは、尊王であったか、なかったかというきわめて単純な、非歴史的な道徳的評価にかかわることであった。〔……〕彼ら支配者層が、歴史の複雑な真実の究明に、真剣な関心を示さず、万が一、彼、あるいはその父祖の不尊王を立証するかもわからない史料の公開を、神経質的に嫌忌したのも、思えば当然すぎる成行きであった」(19-20頁)
  • 権力の正統化としての歴史
    • 「〔……〕近代的市民革命を通過しなかった日本の近代社会では、〔……〕支配者層個々人の序列・地位が、むしろ歴史的に根拠づけられる仕組となっていた。〔……〕歴史が支配者層の利害を弁護する道具にされればされるほど、実は歴史の真実の究明は忌避され、そして歴史は侮蔑され、荒廃せしめられてきた。」(20頁)
  • 学問としての歴史研究は遠い
    • 明治維新成就の直後、王政復古の由来を示す歴史の編纂が、太政官の手で、大規模に着手されたが、その結果は、『復古記』というような、極度に貧困な歴史意識の編年史料集しか産みだすことはできなかった。」(21頁)
    • 明治維新によって成立した絶対主義を批判し克服しうる社会的政治的立場においてのみ、明治維新研究は科学たりえたからである。だがこうした場合は、その後の資本主義の発展にもかかわらず、わが国では容易には育たなかった。」(21頁)
  • ブルジョアジーの限界
    • 「〔……〕本来のブルジョアジーの立場に立つ文明史観が〔……〕官府歴史学界の外に、細々と続き、それが一応大正年代のデモクラシーの雰囲気の中で、いわゆる文化史に結実したのであるが〔……〕近代史にあっては、はるかにその洗礼の影響が少なかった〔……〕文化史は〔……〕政権構成者=政治家のみならず、社会各分野の構成員の価値を等しく認めてゆこうとしたものである。このような歴史観は、絶対主義支配者に対抗し、自己の在野的存在の価値を主張しようとする市民的立場に立つものであった〔……〕しかし大正期のブルジョアジーが〔……〕彼らの現実と直接かかわりあう近代史については、新しい歴史創造の任務を放棄してしまったところに、彼らブルジョアジーが究極において絶対主義政権と妥協し抱合してしまった限界をみることができるのである」(22-23頁)
  • 学問的明治維新史の登場と限界
    • 「〔……〕明治政権自らの維新史−王政復古史観ないし尊王攘夷史観−に一応対立し、ある程度批判的に〔……〕学問的な明治維新史を、最初にえがきえたのは、幕府的立場に立つ歴史学の在野学者であった。〔……〕しかしながら幕府的立場が天皇制的立場を真に批判しえたはずはない。〔……〕幕府の方が、薩長に比し、より尊王であり、富国強兵策あるいは外交政策の上で、より先見的であったという主張につきるものであった。」(23頁)
  • 科学としての歴史 唯物史観
    • 「日本近代史が科学という名を冠することができるようになったのは、〔……〕唯物史観の考え方がこの国に根をおろした時期からであった。〔……〕近代市民的科学の結実をもつことなく、プロレタリアートの史学の上に、学問性確立の一切合切の仕事を背負わせたのである。この事は、近代史研究発展の上に、疑いえない負い目となっている〔……〕1945年の敗戦以後、ようやく絶対主義批判の政治的なまた学問的な確立の展望が可能となったかに思われる」(24頁)

二 資本主義論争の意義

  • 明治維新の科学的研究
    • 明治維新史の科学的研究は、堺利彦の「明治維新の新解釈」(1921年、大正10年、『堺利彦全集』第6巻所収)にその端緒を開かれ、〔……〕『日本資本主義発達史講座』(1933年、昭和8年)に至って、その礎石が築かれた。ここにおいては、歴史的考察は、政権担当者の対立・交替のみでなく〔……〕歴史の全構造の統一的法則的認識が目指されたのである。」(25頁)
  • 資本主義論争(封建論争)
    • 「〔……〕資本主義論争(封建論争)は、現代社会における封建的要素(絶対主義)をいかに評価するか、それを単なる封建遺制と見るか(労農派)、それとも日本の資本主義の基底的存在と見るか(講座派)、この点の対立として論争は展開されたのである〔……〕論争が本格的に行われた昭和5年から13年頃まで(1930−37年)において、日本資本主義の構造的危機が暴露し、その社会的矛盾の爆発としての戦争への危機が逼迫したという情勢が、知識人の学問的意識を駆り立てた〔……〕恐慌の惨禍に悩む勤労民衆の生活を憂い、戦争を指向する軍国主義にたいする抵抗を志す良心的インテリゲンチャをして、日本資本主義発展の普遍的法則と特殊的具体の学問的分析へと激励したのであった。」(26-27頁)
  • 資本主義論争の主要な論点
    • (A)幕末維新史に関して
      • (イ)マニュファクチュア論争
      • (ロ)新地主論争
      • (ハ)百姓一揆の革命性および倒幕運動の階級制に関する論争
      • (二)明治維新の本質に関する論争(講座は絶対主義の成立と規定するに反して、労農派は、不徹底なブルジョワ革命と見るか、ないし、ブルジョワ政権への自己発展の可能性をもつものとしての絶対主義の成立と考える)
    • (B)維新後の資本主義の構造および発展に関して
      • (イ)山田盛太郎『日本資本主義分析』の方法論への批判ならびに反批判論争
      • (ロ)農業問題論争
  • 戦前の資本主義論争を批判的に摂取し、今後のより豊かな結実を期待するための方針
    • (1)幕末から現代に至るまでの資本主義発展の全過程を見通した上で(すなわち維新前史と維新後史との統一的把握の上で。これをはたすためには明治維新と現代とを結びつける明治・大正史の空白を至急埋めることが維新史研究の上にも必要である)、また全機構的な認識の上で(たとえば経済史的観点に限った場合でも、農業と工業との発展度の統一的評価の上で)、論争の論理が整合され、課題が提出され直す必要があること。
    • (2)労農派におけるごとく、歴史的変化・発展の現象にとかく目を奪われて、その変化の底に保持され続けている本質の構造的究明に欠けることなく、他方、講座派におけるごとく、型=範疇の固定的構造論にともすれば縛られて、発展的見地を見失うことなく、歴史における変化と持続との二つの側面が併せ把握さるべきこと。
    • (3)これまでの経済主義の狭い視界から、全歴史的過程に考察を拡げて、上部構造からの究明と下部構造からの究明が協力し合って行わるべきこと。なかんずくその統一として政治史的考察が不可欠であること。

戦後歴史学階級闘争史観については、以下の文章がとっつきやすい。