遠山茂樹『明治維新』(岩波文庫、2018年) 第三章「幕府の倒壊」(125-223頁)

  • 概要
    • 尊王攘夷運動は8月18日の政変、禁門の変により挫折した。第一次長州征伐に際し、奇兵隊などを組織したことで、藩主を擁する藩庁側に銃火を浴びえることができ、封建道徳的名分論に関して倒幕派尊攘派よりも深みを増した。一方、条約勅許により開国は政治闘争の焦点ではなくなり、英仏の援助のもと薩長も幕府も絶対主義改革を指向することになる。下からの革命(ブルジョワ民主主義革命)は結局抑圧され、明治維新は社会変革としては極めて底の浅い政権移動となった。慶喜の改革による幕府権力の恢復を見て焦った薩摩は倒幕を決意。慶喜大政奉還を行い、地位を承認されるも、王政復古のクーデターが起こされ、天皇制が創出された。
  • 【章立て】第三章「幕府の倒壊」
    • 第一節 尊王攘夷運動の挫折・転回
    • 第二節 倒幕派の生長
    • 第三節 国際勢力と国内勢力の結合
    • 第四節 下からの革命と上からの改革
    • 第五節 大政奉還・王政復古

第一節 尊王攘夷運動の挫折・転回

  • 8月18日の政変(125頁、127頁)
    • 尊王攘夷運動は〔……〕攘夷親征から倒幕・王政復古に向かおうとした瞬間、いわゆる文久三年八月十八日の政変が起こった。これは薩摩・会津両藩の兵力を背景に、上層公家と藩主・上士勢力との公武合体派が、下層公家と下士勢力との尊王攘夷派に反撃を試みたクーデターであった。」
    • 八月十八日の政変は、攘夷の名分をいずれかが取るか、この一線をさしはさんでの藩主勢力と下級藩士・浪人勢力との間の争いという形態をとった。攘夷の名分を手にする者は、従って尊王の名分をうることができ、その尊王の名分の中に、藩主派は天皇を戴く幕権の恢復を、浪士激派は幕権の削減による王政復古を夢見ていた。」
  • 禁門の変(128頁)
    • 公武合体派は、暴論の徒が脅迫して叡旨を矯めたと、己れの立場の尊王たるゆえんを弁護した。これにたいし尊攘派は、政変以前こそ真正の叡慮、爾後のものは、中川宮および薩・会の私意からでた虚妄であるにすぎぬとして、屈せず、「御宸翰御諫争」と号して、兵を提げて禁門の変を戦った。叡慮の真偽はまさに武力をもって争われたのであった」
  • 孝明天皇の動き(128-129頁)
    • 「〔……〕孝明天皇は、始終一貫攘夷を熱望してはいたが、それが倒幕にまで進むを好まず、政変直後、それ以前の詔勅は、すべて「下より出る叡慮」「偽勅」であると、自ら否認するの宸翰を発した。天皇の憂慮は、一に「権力下に移りて終に治国の根礎を覆へすに至らん、朕深く之を憂ふ」にあった。かくて政変の成功によって、天皇の意志は貫徹されうるかに見え、「朕の趣意相立候事と深悦入候」ともされたが、実は政変の本質は、天皇と直接かかわりない、会津・薩摩と長州との軋轢、藩主・上士の穏健派にたいする下士・浪人激派の抗争であった。」

第二節 倒幕派の生長

  • 倒幕派尊攘派の差異性(138頁)
    • 「〔……〕明治維新の主体的勢力となった倒幕派とは何か。古き尊攘派と新しき倒幕派との間に、階級的本質の相違はなかった。人的にも両者の間を系譜づけることはできる。それにもかかわらず、そこある差異性があり、それがある故に、文久三年の政変における挫折にかわる慶應三(1867)年の王政復古の成就があったのである。」
  • 歴史の中の個人の役割(139頁)
    • 「〔……〕個人の才能・識見・人格の生長が、それだけで政治闘争の飛躍的発展をもたらす原動力とはなりえない。逆に一定の政治家的資質は、特定の歴史的な政治闘争の形態に規定され、育まれるものである。」
  • 尊攘から倒幕へ(139頁)
    • 尊王攘夷運動から倒幕運動への転回は、運動目標の上では、豪農・豪商層をより広汎に組み入れた下級藩士勢力のヘゲモニーの確立において行われた。そして長州藩での、倒幕派武装蹶起こそ、文久三年政変以後の停滞逆行した中央政局を展開せしめ、維新への直接的な途を切り開く発火点となった」
  • 奇兵隊の限界(140頁)
    • 「しかしそれは決して、人民解放の前提の上に立つ近代的な国民軍隊ではなかった。そこに見られる庶民的色彩といっても、あくまでも下級武士団の指導する、上からの民衆動員であり、腐朽した封建軍隊を補強清新化するものとしての、豪農・豪商層の二、三男を主とする庶民へのある程度の(一方では封建的ヒエラルヒー的秩序の根幹を破壊せざる限度での、他方では貢租負担義務を阻害せざる限度での)門戸開放であった。それは庶民の全面的な解放を意味せず、彼らの中から有為なる者(武士たりうると認められた者)を抜擢し、これに苗字帯刀の特権を与えることによって、いいかえれば彼らを武士身分に組み入れるという形で、封建軍隊内部に編入したものであった。」
  • 倒幕派尊攘派の差異性は「封建道徳的名分論を踏み越える実践力」(141頁)
    • 「彼ら指導部(下級武士改革派−引用者)の強さは、特に藩内戦において、そのいわゆる「正義」の貫徹のために、あえて藩主を擁する藩庁軍に銃火を浴びせた、その封建道徳的名分論を踏み越える実践力を豪農・豪商層の支持激励の中から学び取った点にあった。それは、同じく藩主への忠誠感をある程度乗り越えた、かつての尊攘派に比して、より深い根をもっていた。この深さの差が、結局尊王論を歩み越しつつ、逆に尊王論の名分意識に捉えられ押しもどされる同じ過程を等しくたどりながら、やはりその度合いの違いを生みだし、その違いが尊攘派の敗北と異なる倒幕派の成功をもたらしたのであった。」
  • 農兵隊の限界性 耕作農民の革命的エネルギーの欠如 (142-143頁)
    • 「〔……〕郷士豪農層の農民掌握力が、一応農民隊の成立を可能としながら、その掌握力が封建権力の秩序の支持がある場合においてのみ強く、それなくしては、郷士豪農層と耕作農民との階級対立はすでにかかる指導同盟関係の成立を許さぬ程に激化していた事実を証明した点。いいかえれば、倒幕派が耕作農民の革命的エネルギーを組織し、その階級的利害を代表する資格なく、そこに諸隊ないし農兵隊の限界を明白にあらわしていた」
    • 「〔……〕倒幕派武力の清新な力、また悲境の真只中に立ち上がりえた戦闘力は、郷士豪農的に庶民要素に淵源したものであった〔……〕新たに興起した倒幕派の努力は、もっぱら藩権力の奪取に傾注されるに至り、たかだかその過程での「変革」的な態勢であった。それと共に、いずれの場合も、激派が弾圧に沈淪し孤立した場合においてのみ、このような「下」からの蹶起の形態が、いわばやむをえざる非常装置としてとられた」

第三節 国際勢力と国内勢力の結合

  • イギリス外交の転換 幕府から薩長へ(146頁)
    • 「これまでイギリスは、幕府を日本の安定勢力と見なして、これを支持強化することによって、天皇と大名との攘夷派を抑えようと努めてきた。しかしその後、幕府が通商の発展に誠意がないこと、諸藩攘夷派を統制する能力がないことを知るにおよんで、幕府を絶対主義権力に育成するコースから次第に離れるようになった。彼は諸藩を自由に貿易に参加させ、その利潤にあずからせることによって、攘夷主義の根拠を失わせうるとの見地に立って、新しい開明派の擡頭しつつある薩長勢力、それの擁する朝廷のもつ政治的意義に注目するに至った。初代駐日イギリス公使オールコックからウィンチェスターを経て、パークスが公使に着任した慶應元年閏五月(1865年7月)は、まさにこのような対日政策の転換点に立っていた。」
  • 薩長同盟 開明的軍事官僚の横断的結合(148-149頁)
    • 「〔……〕長州尊攘派のごとき「薩賊会奸」的反感、あるいは昨日の西郷のごとき長州打倒論を越えて、今日改めて彼らの手を互いに握りあわさせたものは、いうまでもななく後者の糸(幕府海軍創設者勝海舟(義邦)に連なる糸−引用者)、いわば開明的軍事官僚の横断的結合であった。両藩提携のきっかけは、前述(長崎で薩摩の名儀をもって、外国から武器を輸入し、同藩の船でこれを下関に運ぶ−引用者)の通り武器購入であり、その背後にはイギリスの武器売込商人、それと結ぶ外交機関の触手があった。両藩連合の目指すところは、幕府にたいする軍事協力であった。事はきわめて軍事的に限定されたものであった。攘夷より開国への転換も、国際勢力との連携も、薩長連合の成立も、一切が武備強化という軍事的目的に出ていた。それだからこそ、尊攘派から倒幕派、しかして開明派へ、その指導者の三段跳びが可能であったのである。少なくとも尊攘派から倒幕派への転回における程度の煩悶すらなしに、倒幕派の指導者は開明派たりえたのである。従って彼らの「開明性」とは、かかる軍事目的を先覚的に意識したという意味にすぎず、それは外ならぬ絶対主義的官僚の形成を表示するものであった。」
  • 条約勅許 対外問題が政争の題目とならなくなる(150頁)
    • 「〔……〕条約勅許の沙汰書が下った(ただし、兵庫開港は承認せず、条約のうち不満の点は「諸藩衆議の上」とりきめる、とされていた)。時に慶應元年10月(1865年11月)であった。ここに安政5年以来、政界の係争点となった条約問題は、一応決着を見、パークスのいうが如く「もしも大名がなお大君〔……〕との争闘を継続するとすれば、対外策は、もはやその表面的理由を提供しなくなるであろう」との意義をもった。かくて対外問題が政争の題目とならなくなった〔……〕」
  • 政治的植民地化はされない(153頁)
    • 「国際勢力と結合する国内政局の展開、それはわが国の政治的植民地化の危機を意味したであろうか。なるほどイギリスは薩長に、フランスは幕府に軍事援助を申し出てはいる。しかし時すでに外国側では、封建支配者内部の開明派の生長と上からの漸次的な封建制の解消のコースが確信されており、わが方では、富国強兵(絶対主義化)の目的意識をはっきり把握した上での開国政策が全封建支配者によって保持され始めた時期であった。それだけに、国際勢力と国内勢力の相互利用の仕方には、互いに明白な限界が意識されていた。すなわちイギリスとフランスは、対日外交の指導権を争うためにの謀略としての国内政局への働きかけであり、薩長と幕府とは、これまた国内政治の指導権を争うための謀略としての対外提携策であった。」
  • 絶対主義的改革(154頁)
    • 「〔……〕倒幕派佐幕派双方の指導者が、絶対主義的改革の方向を自覚し、来るべき政治体制の構想をある程度もちうるに至ったのは、換言すれば尊王攘夷的名分論の泥沼からようやく抜け出ることができたのは、イギリス・フランスの外交官の指導によるところが大きかった。中央集権的国家体制、議会制度が次第に新しい政治理念として浮かび上がってきた。」

第四節 下からの革命と上からの改革

  • 慶應2(1866)年の百姓一揆・打ちこわしの特色(156頁)
    • 「(一)農村から農村へ、農村から都市へ、都市から農村へと、自然発生的ではあるが、きわめて早い速度で波及する様相が著しく見られたこと、すなわち都市・農村を貫く国民的規模の民衆反乱の方向が萌芽的に成立していたこと」
    • 「(二)ほとんどすべての一揆が、封建領主ないしその代官への反抗と共に、村内の村役人・地主・商業高利貸資本家層へのうちこわしを随伴し、かつ一揆の主体が中農・貧農層に移りつつあったこと」
    • 「(三)かかる全国的一揆の波の頂点に、江戸・大坂のうちこわしがあらわれ、一時的ではあるが、幕府の政治的経済的中枢を麻痺せしめ、幕府権力を直接脅威したことであった」
    • 「もとよりこの時の民衆の反抗も、なお組織統一されることなく、自らの意志を代表する革命的政治勢力を結集せしめるまでには至っていないが、しかもそれは明らかに農民的農業革命を指向する農民戦争段階の前夜にまで到達しており、幕府の倒壊に決定的な一打を与えた客観的役割の意義は、充分評価されなければならない。」
  • 反封建闘争に対する新しい封建秩序(157頁)
    • 「昂まりゆく民衆の反封建闘争を前に、これを圧服するために、かつまた国内政局に浸透力を増しつつ外圧に対抗するために、新しい封建秩序を早急に樹立する必要に迫られた」
  • 列藩会議論と権力の統一(158頁)
    • 「〔……〕分解せんとする封建政治機構の補強救済策としての列藩会議論に定着していった。この過程において、本来近代的立憲思想が目指すべき権力の分散下降の方向が、かえって「公議輿論」による国論の統一、国是の確立の名の下に押しとどめられて、権力の統一の側面のみが強くうち出され、議会制度論は、専ら封建支配者間の対立を緩和し、封建支配秩序を再建する手段として、受け取られたのである。列藩会議論は、すでに第二回長州征伐当時には、全封建支配者の共同綱領となっていた。」
  • 封建的旧秩序から封建的新秩序へ(158-159頁)
    • 「主権、特に外交権の所在に関し、幕府と朝廷との二元政治の弊を除去しようとする立場からも、権力の統一が要求された。そして条約勅許は、国際的にも国内的にも、主権が朝廷に存在することが確認されたことを意味した。〔……〕その権力の所在の下降が「勅諚」の絶対的権威を背景とすることによって、また「王臣」の絶対的隷属意識に支えられることによって、実現されたものであった限り、それはようやく芽生えはじめた封建階層への批判意識をむしろ押しもどして、封建的旧秩序から封建的新秩序への移行の途を切り開く動きのものでしかなかった。君主以外のあらゆるものの価値を否定することによって、一切の権力の淵源としての君主の絶対的権威を創出するのは、絶対主義成立の世界史的普遍的過程であった。」
  • 反封建思想の生長の解消(160頁)
    • 「〔……〕新しい天皇制の階層づけの中に、広汎に古い領主制秩序を存置し、実質をそのままに外装だけ作り変えてゆく結果を生んだ。要するにこの時期の尊王論は、すでに反幕ないし排幕を色濃く包含してはいたが、反幕・倒幕に集中した反封建思想の生長を、天皇と将軍といずれかが尊きかという名分論の問題に還元し、すりかえ、解消してしまったところに、その現実の役割があった。」
  • 攘夷意識と封建権力の集中強化(160頁)
    • 「〔……〕攘夷から開国への転換を余儀なくされたにもかかわらず、海外雄飛論・富国強兵論と一応形を変えつつ、しかもその核心に相変わらず維持し続けられた攘夷意識は、一面では列国外交団と露骨な相互依存関係を結びながら、他面では西力東漸・万国対峙の「宇内の大勢」下に、「海外万国と並立」すべき「皇国の保護」の必要性を強調することによって、封建権力の崩壊の阻止、いな逆にその集中強化が企てられたのである。」
  • ブルジョワ民主主義革命の瓦解(161頁)
    • 「〔……〕近代の萌芽を刈りつくして、一切の政治的社会的闘争を挙げて封建権力の全国的規模での統一による再編成の動力に供した。そして、そのエネルギーによって、上からの改革の体制(絶対主義)形成の速度は、下からの革命(ブルジョワ民主主義革命)の成熟の速度をはるかに追い越した。前者は、基本的に後者に押されながらも、政局展開の主導権を保持しつつ、下からの力を利用し、これを歪曲し、究極において、これを抑圧した。なかんずく慶應3(1867)年の決定的瞬間における下からの革命力の惨めな瓦解が及ぼした影響は大きかった。」
  • 国内革命勢力の挫折(163頁)
    • 「〔……〕その前年(1866年−引用者)には農民戦争的段階前夜にまで進みえた民衆の革命的エネルギーが、何故にかくももろく混乱せしめられ、利用歪曲されてしまったのだろうか。〔……〕民衆は古き圧制の倒壊に歓喜し、来らんとする新政に希望を投げかけた。だが不幸にも彼らは自ら政治運動をなす能力なく、自らの意志を志士の行動によって代表される術も求めえなかった。〔……〕上からの改革の速度に追いつきえない、下からの革命の弱さが、民衆の激情をして、一揆・打ちこわしの苦難な闘争への継続への意志を乗り越えさしてしまった。〔……〕一揆・うちこわしの闘争を政治闘争にまで結集する意識と手段とを持たず、いいかえれば小ブルジョアの指導をはっきりとつかむことのできなかった農民一揆が、政治的危機の凝集の重みに耐えかねて、一挙にその弱さを暴露したものであった。」
  • 明治維新は単なる政権移動に過ぎない(164頁)
    • 「〔……〕慶應三年における国内革命勢力の挫折のために、上からの改革意識は、この基本的な対抗面を充分把握するに至らず、むしろ外圧への対抗面にずらされてしまった。その結果、上からの改革意識の内容は、いよいよ王政復古という名分論的限界に狭められて、明治維新は社会変革としての底のきわめて浅い、政権移動として実現されたのであった。大政奉還から王政復古に至る政治過程が、現象的には、人民の動きから切り離されて、薩州・土州・宇和島・長州・芸州などの雄藩大名と、それを背後から動かす少数の指導的藩士、および将軍・幕閣、さらにそれらと結び合う公卿、これらの人々の、政権取引をめぐる複雑怪奇な個人的策謀に矮小化され、卑俗化された理由は、けだしここにあったのである。」

第五節 大政奉還・王政復古

  • 慶喜の改革と薩摩の武力倒幕決意(164-165頁)
    • 「将軍慶喜の施政改革は、フランス公使ロッシュの支援を受けて、目覚ましく、幕権恢復の兆を示した。他方薩藩の企図した京都での薩摩・越前・土州・宇和島の四侯会議(天皇を己が手に擁する雄藩連合政権コース)は、内部対立と幕府の圧力のために、あえなく解体してしまった。かくてこのままに推移せんか、「幕府は朝廷を掌握」する(天皇を己が手に擁する幕府独裁のコース)に至るは必然、そうなれば薩藩は朝敵となって長州の二の舞を演ずるであろうとの懼れが、薩州藩、なかんずくその在京代表者をして、武力倒幕を決意せしめたのであった。」
  • 虚弱幼年 明治天皇(165頁)
    • 「16歳の明治天皇が即位したが、まだ自己の政治意見をもちえず〔……〕「虚弱幼年」であった。このことが、天皇を動座し、もってこれをわが手に擁し、将軍討伐の勅諚を申し受けるという薩州倒幕派の戦略を可能ならしめた、〔……〕「奸賊」慶喜の暗殺陰謀をしか意識しえなかった倒幕派にとっては、孝明天皇から明治天皇への交替は、その政治活動を容易にする便を、かなりの程度において与えた事件であった。」
  • 大政奉還と討幕の密勅(170-171頁)
    • 「〔……〕10月14日慶喜は、政権ならびに位記返上を奏上するに至った。もしそれが一日遅れれば大事であった。実にこの日の「大政奉還こそ、危機一髪の際に討幕の名義を奪った」効果をもったからであった。というのも、この前日の13日の夜、広沢は岩倉邸に赴いて、岩倉の手から長藩主父子宛の朝敵赦免、官位復旧の勅書を渡され、さらに翌日には、正親町三条から大久保・広沢に、両藩の藩主父子宛の討幕の密勅と、会津・桑名二藩主誅戮を命ずる勅書が手交されたからであった。このいわゆる密勅は、勅書としても、あるいは宣旨としても、形式はきわめて異常であり、天皇の直筆もなければ、勅旨伝宣の奏者として名を列ねた中山・正親町三条・中御門の名の自署もないものであった。〔……〕この間、密勅にあらざる正規の御沙汰書は、国是を決すべき諸侯会同のあるまでの緊急政務の処理を慶喜に委任、ついで将軍職もしばらく旧の如くたるべしと令した。朝議は明らかに新しい事態における慶喜の地位を承認する方向に向いていた。」
  • 王政復古のクーデター(172-173頁)
    • 「12月8日午後から摂政二条斉敬は、朝議を開き、長州藩主父子宥免のことを諮問するため、親王・公卿以外に在京諸藩主とその重臣を宮中に召集した。この留守中、かねての手筈に従って、岩倉は尾・越・土・芸・薩の代表を招致し、「未発の御密旨」を伝えた。〔……〕朝議は翌払暁に及び、午前八時頃摂政・議奏・伝奏らが退朝した後、恩赦の命を受けた岩倉は王政復古の勅書をおさめた一篋を携えて朝廷に入った。ついで大久保も参内、他方西郷の指揮下に五藩の武装兵が宮門を固めるうちに、岩倉は中山・正親町三条・中御門と共に「御前に候し」「上奏」(『岩倉公実記』)。かくてあらかじめ手配ずみの、自派の親王・公卿、藩主だけを招致し、朝廷首脳部の一斉交迭、職制の変更を発表、いわゆる王政復古の大号令を「勅諭」した。この間天皇は、岩倉の命を受けた公卿・女房に終始囲繞され、守護されていた。これは文字通りクーデターであった。〔……〕そして天皇制は創出されたのであった。」
  • 明治維新の低俗な権謀術性(174頁)
    • 「「玉を抱く」者が官軍、「玉を奪」われれば賊軍、政争の勝敗はまさにこの一点にかかると意識された。それは全く宮廷陰謀的な卑屈な政治意識のあらわれであった。志士はまた好んで「芝居」という表現を用いたという。一芝居打つ。それは柳暗の巷に天下国家を談じた志士の生活態度に相応ずる、明治維新の低俗な権謀術数性の象徴であった。」