- この本の趣旨
- (戦争末期を除き)戦時中が日本にとって暗い谷間でだったという見方をくつがえすこと。
- まとめ
第4章 朝鮮観光
- 帝国と植民地間の人の移動(188頁)
- 「歴史学者は、植民地は離れた場所にあり、ごくわずかの日本人を除いて、それは想像のなかにしかなかったという見方を乗り越えなくてはならない。そうした見方は1940年にはあてはまらなかった。中心国と植民地はかなり一体化しており、そのことはまた帝国内のさまざまな地域どうしが、日本の内地を経由しないままでつながっていることも多かった。とりわけ朝鮮の周辺では、かなりの人数の日本人が開拓移民や軍人、あるいは遊覧旅行者として、植民地を経験している。こうした相互交流は、日本という帝国が一夜にして瓦解したのちでさえ、大きな意味をもったにちがいない。植民地が戦後日本、すなわち列島規模に縮小した日本に残した文化的痕跡は、研究者がこれまでほとんど関心を寄せてこなかった問題である。」
- 「儒教巡礼」(190頁)
- 「歴史学者のジョシュア・フォーゲルは「儒教巡礼」という呼び方をしているが、帝国時代にアジア大陸を旅した日本人は、その多くがこうした巡礼に憧れていた。紀元二千六百年にちなんで、日本の孔孟聖蹟図鑑刊行会は、孔子と孟子(さらにその他の弟子たち)の聖蹟を図入りで紹介する本を出版している。この本では儒教が日本の国体の中心をなしており、日本こそ儒教の伝統を引き継ぐ指導者だとされている(馬場春吉編『孔孟聖蹟図鑑』孔孟聖蹟図鑑刊行会、1940)。日本人旅行者の多くが、近代以前に東アジアの文人たちが訪れた孔子の遺跡に同じように関心をいだいていたのである。日本の当局者は儒教にもとづいて、天皇を長とする家族国家を規定しただけでなく、植民地や入植地を帝国のヒエラルキーのしかるべき地位に位置づけていた。儒教観光は、体制を支持させるには好都合だった。フォーゲルによれば、大陸から戻ってきた巡礼者の多くは、「日本人だけが、いまでも本来の儒教を忠実に守っている」と確信するようになっていたという。」
- 植民地朝鮮を観光する意味(202頁)
- 「本国から日本の主要かつ正式な植民地である朝鮮への観光は、訪問者に現地での帝国の事業がいかに適切かをあらためて認識させるよう仕向けられていた。鉄道網の広がりと京城の近代建築は、日本人が文明の水準を引き上げたあかしにほかならなかった。商売であれ、視察の一環であれ、単なる観光であれ、京城を訪れた人が、要は帰るときに、みずからの力では後進性を抜けだせないとされたこの国に、日本が近代性をもたらすべく努力したことをしっかり理解してくれればよかった。植民地当局が受け取ってほしいと願っている主な公式メッセージは、それでじゅうぶん伝わったのである。朝鮮に行く日本人観光客は、現地に足を踏み入れる前に、公式メッセージを頭に刷り込まれていた。それは、日本が近代性を導入するまで歴史の進歩に取り残されていた隣国を自分たちの国がいかに寛大に取り扱ったかという物語である。」
第5章 満洲聖地観光
- 満洲と朝鮮の観光地の違い(206頁)
- 「観光客の満洲への旅程を調べてみると、力を入れていた場所は、日清戦争や、とりわけ日露戦争、さらに1931年の満州事変以降に日本人の血が流された戦跡だったことに気づく。朝鮮でも観光客が旅程に平壌のような戦跡を加えることがあった。日清戦争の折に日本軍が敵の清国軍を打ち破った場所である。しかし、観光客が概して朝鮮で重きを置く場所は、文字通り「兵士崇拝」の地たる満洲に戦跡とは趣を異にしていた〔当時、満洲は日本兵の献身によって確保・維持されているという思いが根強かった〕。朝鮮で必見の場所は金剛山。ところが満洲で必見の場所は、日清・日露の戦いで共に激戦地となった旅順だった。このように観光にかなり性格のちがいが見受けられたのは、関東軍が満洲で勢威をふるっていたことも大きな要因である。」
- 満洲の戦跡の聖地化(207頁)
- 満洲旅行の4つのテーマ(207頁)
- 「〔……〕そのうちもっとも大事なのは、満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方だった(当時の旅行ガイド、絵葉書、写真によって、満洲の観光を彷彿とさせるビジュアルな資料としては『日本植民地史−別冊一億人の昭和史』毎日新聞社、1978-80 がすぐれている。満洲に関係があるのは第2巻163−233ページと、第4巻62-83ページ、210-19ページの「南満名所」と「西満名所」という見出しのつけられた部分である)。」
- 「後進地域に近代化をもたらした日本の役割も強調されていた。首都新京(現長春)の新建築をはじめ、鞍山の製鉄所、撫順の炭鉱、吉林から30キロほど上流の松花江で建設中のダムにいたるまで、1940年に満洲を訪れた観光客の見学先には、日本人による近代化の成果がふんだんに盛り込まれていた。」
- 「日本人観光客を強く引きつけた三つ目のテーマが、満洲に住む現地住民の集団が遅れた状態に置かれていること〔……〕」
- 「最後の四番目のテーマ〔……〕は、日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めているということである。〔……〕」
- 聖地の創出(220頁)
- 「〔……〕寛城子戦跡。ここは満洲事変のあと、「聖地旅順」の名のもととなった日本軍の犠牲者は、ますますあがめられて、当時、日本が中国東北部に対しておこなっていた要求を正当化する根拠となっていた。それだけではない。1931年9月18日に奉天近郊で中国軍との戦闘が開始されてから〔いわゆる柳条湖事件〕、日本軍が敵と比較的小規模な戦闘をおこなった場所も、小競り合いが終わったあとはすぐに聖地とされたのである(日本人の血が流された満洲のあらゆる戦跡が、満洲事変後、いかに早急に観光地に変えられたかについては、高媛が1932年に満洲を旅行した早稲田大学の学生の記録を分析した次の論考を参照。高媛「中国東北の過去と現在『楽土』に響く“都の西北”−ある早大生の満洲旅行日記」。所収は西原和海、川俣優編『満洲国の文化』せらび書房、2005、210−25ページ)。」
- 昭和十四年度大陸旅行(生徒日記)http://www.nara-wu.ac.jp/nensi/96.htm(224頁)
- 「当時、満洲は日本の経済的な「生命線」とみなされるようになっていた。1939年にこのバスツアーに参加した奈良女子高等師範学校の生徒は、その日記に「勇士」の尊い血であがなわれた南嶺の「霊地」で、クラスメートとともに「厳粛な祈り」をささげたと記している。またバスガイドの名口調に、生徒たちは「感激の涙を惜しまなかった」とも書いている。」
- 観光に内包される近代性(227頁)
- 史跡観光は政治的活動(227頁)
- 「近代における国史編纂の貪欲ぶりは、内地だけではなく、帝国全域にわたる歴史遺産の建設と操作にまで拡張された。史跡観光は政治的な活動であり、旅順などに代表される満洲聖地観光が政治的な意味合いを含んでいたことは明らかである。満洲の記念すべき戦跡を訪ねることにより、日本人は私(著者ケネス・ルオフ氏−引用者)のいうところの「自主的な国民養成」を通じて、流布されている帝国イデオロギーや、軍事的手段による国家拡張がまちがっていないと確信するようになった。紀元二千六百年前後に満洲観光が隆盛をきわめたのは、愛国主義が大衆消費主義に拍車をかけ、消費主義が愛国主義を促すという連鎖の輪が、さらに帝国規模にまで広がったことを示している。」