ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版、2010年) 第6章・結び・解説(原武史)(231〜303頁)

第6章 海外日本人と祖国−海外同胞大会

  • 戦時下における「物語」と人の移動(242頁)
    • 阪本牙城『開拓三代記』(満洲事情案内所刊、1940)について
      • 「1940年に出版された阪本牙城(1895-1973)の歴史漫画『開拓三代記』は、日本の移民史を過去篇、現代篇、未来篇に分けて描いている。阪本は数多くの場面を通して日本の拡張に話をもってくるが、神武天皇は日本で最初の非凡な開拓者ととらえている。さらに次に示した二枚の漫画では、日本の将来を想像している(図は省略−引用者)。阪本は、現代の日本で人気を誇るイラスト漫画ないしストーリー漫画の先駆者だった。その意味で、阪本は、自身の描く想像上の神武天皇とちがって、まさしく開拓者だったのである。」
    • 満洲日々新聞社『大陸開拓精神叢書第一号ー神武天皇と国土開拓』(大連、満洲日々新聞社、1940)について
      • 満洲日々新聞が1940年に出版した「大陸開拓精神叢書」第一号の『神武天皇と国土開拓』も、これと同系列のものである。日本最初の開拓者の物語を通じて、大陸の入植者を鼓舞することがこの本の目的で、なかには神武天皇東征の関連地図もはいっていた。1940年には、初代天皇の通った曲がりくねった道筋についての合意がすでに形成されており、この地図は鉄道省の旅行ガイド『肇国の聖蹟』のものとよく似ている。大陸の開拓者は、その生活がどれだけ過酷であっても、紀元666年に九州を出発し、ようやく6年後に大和の地にたどりついた神武天皇の遠征ほど、自分たちは苦労しているわけではないと思いなおすことができたのである。」

結び

  • 大衆的な過去の記憶形成・余暇旅行による国家イデオロギー促進・史跡観光と体制支持(288頁)
    • 「大衆的な過去の記憶形成に果たす史跡観光の役割は、K12教育〔米国の幼稚園から第12学年=高校3年までの13年間教育〕や、この分野で(両者はしばしば連関しているが)マスメディアが果たしている役割と同じく強い影響力をもっている。したがって、歴史学者が大衆的な歴史記憶のベクトルを論議する際には、史跡観光をしっかりと検討すべきであろう。」
    • 「次第に増えてくる旅行関連の記録から明らかになってくることがある。それは1930年代には、世界じゅうで政治的な理念を異にする体制が、余暇旅行を国家イデオロギー促進に利用すべきだと考えるようになっていたことである。相当数のドイツ人が、ナチス時代も祖国観光を続けていたというのは驚きかもしれない。その同じときにナチス政権は凶悪な犯罪に関与し、想像しうるかぎりの最新鋭手段を用いてジェノサイドを実行していたのである。とはいえ、ここで問題にするのは、近代性の別の側面ではない。」
    • 「むしろ問題は、国の史跡観光が、もっとも不愉快な政府のもとでも存在し、流行していたということである。史跡観光はまさに体制を支えていたのだ。全面戦争に向けて、近代社会では大衆動員がなされていったが、それに関して国をまたがって書かれた記述は、この時代に史跡観光が果たした役割をより広くとらえるのに役立つであろう。広い意味でいうと、平和時、戦時にかかわらず、国の史跡観光は、近代社会に暮らす人々を動かし、それによって現行の国家イデオロギー(時にそれは広く行き渡っているイデオロギーと対立する場合もあったが)を流布させるための手段なのである。」
  • 国民が積極的に支えた戦時体制(290頁)
    • 「〔……〕紀元二千六百年にあたっての、ダイナミックな大衆参加と消費主義の要素を無視することはできない。何千万もの日本人は、ゴム人形でも消極的抵抗者でもなく、心からこの国家主義的な、まぎれもなく愛国的な祖国の祝典を受け入れていたのである。人々は国史をまとめた物語に夢中になり、定時の大衆儀礼に参加し、愛国的な展覧会を見に行き、史跡を訪れていた。こうした行動を促進したのは国だけではない。印刷メディアや百貨店、鉄道会社といった非政府組織の働きかけも大きかった。」
  • 勤労奉仕隊と万世一系思想(290-291頁)
    • 「皇室関連の場所を拡張したり整備したりする勤労奉仕には、大勢の日本人が参加した。それは近代性と神秘性が結合した実例のひとつだった。100万人以上の帝国臣民を帝国じゅうから奈良県に移動させて(たとえば満洲国の協和青年奉仕隊は汽船と列車を使って到着している)、短期間、史跡の拡張や整備にあたらせるのは、近代でしかみられない試みである。万世一系思想を特徴とする神話=歴史に、勤労奉仕隊はすっかり教化されていたが、その神話=歴史は神秘的な呪文のような重々しい言説で飾られていた。このロマン主義ナショナリズムは、反動的モダニズムの反動的な部分をなしていた。神武天皇聖蹟調査委員会が神武天皇の物語に信憑性があることを近代的な社会科学によって立証したことなども、こうした奇妙な結合を示す同様の例である。」
  • 現代における万世一系思想(296頁)
    • 「〔……〕かつての八人の女帝のように、女性天皇皇位について、民の保護者であるかのようにふるまうのがいやだというのではない。それよりも問題は、その後継者が女性天皇の血を引く者となってしまい、皇統が男子の血統をつぐ皇子に戻らなくなってしまうことだというのである。2006年に悠仁親王が誕生したとき、日本の政治家はすぐに皇位継承問題は解決されたと宣言し、ジレンマに取り組むのをやめてしまった。このジレンマは国家の神話=歴史にからんでいたから、万世一系思想の影はほとんど消えかかっていると思っていた評論家のなかには驚きを隠せない者もいた。そのとき日本における男女平等、あるいは21世紀における日本の立場は二の次で、それよりも「伝統」を重んじる要求、つまり女性が国家の象徴を務めるのを禁じる法律を維持するほうが大事であることが露呈してしまったのである。」

原武史「解説 昭和史の見直しを迫る」

  • 「聖地参拝」は「遊楽旅行」ではない件について(297頁)
    • 鉄道省編纂の『時間表』(いまの『時刻表』)1940(昭和15)年10月号(日本旅行協会発行)の表表紙には、ダイヤ改正を意味する「時間大改正」の文字とともに、機関車の動輪のイラストが描かれ、その縁に当たる部分に「国策輸送に協力」「遊楽旅行廃止」と書かれている。これだけを見ると、すでに戦時体制下に入り、「贅沢は敵だ!」というスローガンが叫ばれていた時代に、いかにも軍隊の輸送に代表される「国策輸送」が優先され、観光旅行が控えられていたような印象を受ける。ところが、同じ『時間表』の裏表紙を見ると、大軌参急電鉄、いまの近畿日本鉄道(近鉄)の広告が全面を覆っている〔……〕広告の一番上には横書きで「聖地参拝」と書かれ、その下には縦書きで大きく「伊勢大神宮」「橿原神宮」「熱田神宮」の文字が並ぶ。〔……〕つまり、観光旅行を控えるどころか、大軌参急電鉄に乗れば、大阪、京都、名古屋からこれだけ早く伊勢神宮橿原神宮熱田神宮に行けるということを、大々的に宣伝しているのである。鉄道省編纂の『時間表』で、一私鉄が「聖地参拝」を積極的に呼びかけていることにも注意すべきだろう。
  • 1930年代観光ブーム(299頁)
    • 「本書が注目するのは、「内地」はもちろん、植民地や「満洲国」まで含めたこの時期の観光ブームである。ここでいう観光には、いわゆる勤労奉仕も含まれる。観光ブームを煽る役割を果たした「紀元二千六百年」は、決して一時のお祭りに終わったわけではなく、大衆の自発的な政治参加に支えられていたという点で、同時代のドイツやイタリアに比肩し得るというのだ。」
  • 丸山眞男への疑義(300頁)
    • 「本書のように、1930年代を通して過熱する観光に注目すれば、二・二六事件分水嶺として「下からのファシズム」運動に終止符が打たれたする丸山流の解釈は、重大な修正を余儀なくされるだろう。独裁政党の代わりに、民間の百貨店、新聞社、出版社、旅行代理店、私鉄会社などが存在し、多くの国民が神武天皇はじめ歴代天皇ゆかりの聖蹟や聖地を、あるいはアマテラスや歴代天皇をまつる神社を、さらには植民地や「満洲国」を自発的に観光し、万世一系思想を中核とする国家意識を高めていったとする本書の分析は、従来の研究の盲点を鋭く衝くものである。」
  • 1940年が観光ブームの頂点(303頁)
    • 「紀行作家の宮脇俊三(1926-2003)は、『増補版時刻表昭和史』(角川書店、1997年)のなかで、「昭和12年7月の盧溝橋事件以降、鉄道も戦時型の体制へと切り換えられていったのであった」としながらも、「それは概観であって、実態を見ると、旅客の急激な増加には『国策輸送』とは無縁なものも含んでいた」とする。「『不要不急の旅行はやめよう』のポスターが駅々に貼られるようになったのは、昭和15年の夏頃からだったと思う。それは『不要不急の旅行』者が多いことの証左でもあった」とも述べている。時代の体験者が語るこうした回想は、本書の見方を裏付けている。ただし、宮脇俊三は1939年4月に実施された「観光報告週間」を例にあげながら、伊勢神宮に参拝して武運長久を祈るといった建前さえあれば、内実は遊山旅行であっても大手を振って通れたことに注意を促している。」
    • 「1940年が観光ブームの頂点であったことは、宮脇俊三も証言している。翌年になると、宮脇が通っていた学校でも、教頭が朝礼で、「文部省から、今年の夏休みはいっさい旅行してはならない、対抗試合のための旅行もしてはならない、との通達があった」と言ったという。1943年2月には「戦時陸運非常体制」による列車ダイヤの改正が行われ、旅客列車が大幅に削減されている。」