原敬論(003) 第四次伊藤内閣と原敬

  • 原敬立憲政友会への参加
    • 立憲政友会の立ち上げ前後、原敬伊藤博文に蔑ろにされることが多く、憤っていた。貴族院議員の願いは叶わず、大阪毎日新聞の後継者問題もスルーされ、第四次伊藤内閣にも入閣できなかった。それゆえ、原敬は不満を抱き、それを西園寺にぶつけることとなった。原敬は伊藤に蔑ろにされることで西園寺と仲良くなったともいえる。
    • ここで、原の伊藤に対する不満という側面が描かれたが、原はそもそも伊藤にとってどのような存在だったのか議論となる。ここでD1の方曰く、立憲政友会は、超然主義の限界を悟り自前の政党を作ろうとする伊藤と取り込もうとする旧自由党系議員とパワーバランスの綱引きがあり、原が入り込む余地はなかったのではないかと指摘した。
  • 原敬の幸運・渡辺蔵相の閣内不一致で第四次伊藤内閣崩壊
    • 原敬は第四次伊藤内閣に入閣できなかったのだが、ここでラッキーが起こる。なんと、星亨逓信大臣が辞職し、原敬が後任となったのであった。逓信大臣自体は大臣の中では地位は低い。内相・蔵相・外相の地位は高い。そのような中で、渡辺国武蔵相の緊縮財政問題が起こる。外債の利払いだけでも膨大な額となっているので公債の発行を停止を渡部国武蔵相は主張したのである。このことは後に閣内不一致を引き起こすことになる。渡辺蔵相は孤立するも、辞表の提出を拒んだため、第四次伊藤内閣は解散となったのであった。
    • ちなみにこの後の渡辺国武は、辞表を拒否して閣内不一致を引き起こし第四次伊藤内閣を崩壊させたとして、引退を余儀なくされたとのこと。