竹野学「植民地開拓と「北海道の経験」―植民学における「北大学派」―」(『北大百二十五年史』論文・資料編、2003年、163-201頁)

帝国主義的な植民地拡張政策をとると、被支配民族が覚醒しナショナリズムが昂揚して対立が激化する。これを解決するためには母国民の移住土着が必要である。また日本は土地問題を抱えており寄生地主制により狭隘な土地しか持たない零細農民は小作農とならざるを得ない。よって中農の経営規模の拡大が必要であるが、土地が足らない。以上により余剰労働力の農民を植民地に送出すれば、国内の寄生地主問題と植民地における支配-被支配民族の対立の問題が、両方解決できる。

一 北大植民学をめぐる研究動向

  • 本稿の趣旨(167頁)
    • 射程
    • 方法
      • 「北大植民学の中心的人物とみなしうる高岡の議論を改めて確認して北大植民学の特徴がどのようなものであったかをあきらかにする。」
      • 「北大植民学が植民地とどのような関係を有するにいたるのかをみていく。」
    • 最終目的
      • 「「全体的視点」からみた北大植民学像を提示したうえで日本の植民学界における斯学の位置づけを確認する」

二 北大植民学の理論的中核―高岡理論―

  • 高岡理論(169頁)
    • 耕作規模拡張の必要性とその実現方法としての移植民
      • 「「農民負債」で既に耕作規模拡張の必要性とその実現方法としての移植民という考え方は提示されていたのであって、「小農保護問題」は、「中農標準化」傾向という農家耕作規模拡大の動きを検出し、その一層の促進策として移植送出が説かれたところにこそ意義がある」
    • 国内の地主制の改善
      • 「「内地植民問題」では国内の地主制の改善の必要性が説かれている」
  • 高岡理論の共有が北大植民学である(171-172頁)
    • 工作規模を拡大するためには農家戸数を減少させる必要があり、その手段が移植民
      • 「高岡は〔……〕移出先たる植民地についての研究に特化していく。〔……〕農家戸数減少を唱え〔……〕一貫して移植民による実現を志向していた」
    • 上原轍三郎の回想
      • 「高岡先生は農政の問題として、……日本の農業はなんといっても規模が小さいから、これを拡充して大きい農業にしなければならない……これをしてはじめて日本の国の農業がたつんだと、ということを盛んに主張されたんです。……高岡先生はそういう主張をされたからして、もし農地を沢山農民に与えるとすれば、どうしても農民が余る。余った農民は日本の国では入れないんだからどうしても海外に行かなければならない。このためには移民と植民・移植民をやらなければならない。それで先生の講座というものが農政と植民学と二つ一緒になって、農政植民学だったんですよ。そしてその主張を強くされて、私どももそれはたしかにそうだということで、大いに先生に加担して喜んでおったんです。」(上原轍三郎「回想録」『開発論集』第10号、1970年、96頁)

三 植民術としての北大植民学

  • 北大植民学の中心的研究内容(173頁)
    • 「〔……〕国内からの移植民のプッシュ要因の想定である高岡理論にもとづいたうえで、彼らをどのように移住地に定着せしめていくのかという、植民術としての農業移民論を展開していくのが北大植民学の中心的研究内容であるといえる。」
  • 北大植民学の発展(176頁)
    • 1924年、高岡が担当していた農政学植民学講座が農政学講座(高岡担当)と植民学講座(上原担当)に分離し、更に1936年には、農政学講座の担当が中島九郎(1886~1995)に替わる(植民学講座担当は上原のまま)。植民学講座独立後は、この農政学講座とも連繋しながら移住植民地の調査と移民政策への提言が行われていくことになる。」
  • 農業移民と植民術(176-177頁)
    • 1920年代半ばの日本において深刻視された人口食糧問題の解決のために各植民地も貢献策を求められ、その中で樺太南洋群島という農耕民族の少なく未墾地が豊富な農業移民受け入れ先として注目されてくることになる。この両植民地での農業移民政策が具体化してくるのは1930年代に入ってからであった。また満洲事変以後は、満洲移民政策も実行に移されることになる。そしてこれらの移民政策に関連して、「北海道の経験」を有し未墾地入植の専門家と目された北大植民学が調査を行い、指針としての植民術を提示していく」
  • 北海道の比較~地主制の否定~(181頁)
    • 「〔……〕植民術提示に際しては北海道との比較が常に意識されていた〔……〕土地処分の方法から地主制につながりかねないものが排除されている〔……〕北大植民学が移住先で形成される地主制に批判的であった」
  • 地主制を否定していたのに、満洲では日本人入植者たちが現地人を小作化したため、日本人が地主となって地主制が再生産された(181-182頁)
    • 「〔……〕満洲にいたっては日本人移民の地主化という現実に関しての言及さえもなくなる。移住地での地主制創出防止策を志向していながらも、それは未墾地への移民の初発段階での提起にとどまり、既墾地へ入植し民族関係を内包する地主制が既成事実化した朝鮮・満洲の場合には、消極的ないし無批判に終わってしまうところに北大植民学の限界があった」
  • 北大植民学が目指した自作農定着(182頁)
    • 「〔……〕北大植民学の植民術はこの「小農的植民」実現のための方策提示であったと総括できよう。〔……〕「小農民的植民」実現の鍵とされたのは入植後の保護はもちろん、農業金融との確立と農作物の販路確保であった。これは「小農民的植民」に欠かせない資本との結合の問題とも直結しており、植民術の革新的部分でもあった」
  • 北大植民学が台湾、朝鮮へ言及しない理由(182-183頁)
    • 「〔……〕北大植民学の台湾、朝鮮への言及がほとんどないことについても説明がつく〔……〕両植民地は農業移民が失敗に終わった地域であり、植民術としての農業移民論を展開する北大植民学にとって研究対象にはなりえなかった」

四 高岡理論の発展継承

  • 二つの植民地類型と北大植民学(183頁)
    • 「〔……〕植民地を移住植民地・投資植民地の二類型に分類して前者に高い意義を認める点を北大植民学の特徴として強調しておきたい。」
  • 北大植民学の本流を継承したのは矢島武(184頁)
    • 「第二期拓殖計画実行中で、移民吸収地のはずであった北海道が出移民地化してきたことを強調するころで、移住地として移民を受け入れてきた北海道に、結果として中農が形成されておらず、その是正のために出移民を正当化していく〔……〕矢島は満洲移民送出を語りながら、むしろその裏にある不均等な土地所有に終わってしまった北海道農業の改善の必要を意図していたと考えられる。」

五 北大植民学の理論的展開とその方向転換

  • 帝国主義により植民地を拡張しようとすると、被支配民が民族的に覚醒してナショナリズムが昂揚するので、帝国主義VS民族主義の対立が起こってしまうことへの解決策(188頁)
    • 「〔……〕とられるべきは植民者と先住民との「共存共栄」をめざす政策であって、具体的には先住民教育の実業教育への特化および母国民の植民地への移住土着とによって実現される。〔……〕欧米人は投資植民地としての植民地統治しか行えないため移住を実施することが特に困難であるのに反して、植民地に永住土着できる素質を有している日本人は今後植民者として前途有望だ、とするのが高岡の議論であった。」
  • 北大植民学的な統治策(189頁)
    • 「北大植民学では投資植民地・移住植民地の二分類を前提にしたうえで後者についての分析がなされてきた。このため山本や矢内原のように植民地統治策を正面から論じることは確かになかった。しかし投資植民地としての扱いを移住植民地的なそれに組み替えることで、従来の統治策では対処しきれない困難を回避するという議論は、統治策をめぐる議論に移住という点から解答を与えた北大植民学的な統治策の提案であったといいうるだろう。」
  • 高岡理論の完成(189頁)
    • 「〔……〕日本農家の耕作規模拡大策としての移植民送出と、この帝国主義矛盾を超克する「共存共栄」政策実現のための移住という高岡理論」
    • [〔……〕「小農保護問題」以降の1935年までの農家戸数動向が一層の「中農標準化」と捉えられ、国内に存在したままの余剰労働力を農業移民として満洲に移住させることによって帝国主義と植民地独立運動という矛盾を超越しうる」
  • 北大植民学の戦後の継続性(190頁)
    • 「〔……〕北大植民学は、その基礎理論たる過剰人口論、および植民地の議論に欠かせない植民地統治に関する議論を高岡理論に依拠することで、それらを媒介する植民術としての農業移民論に特化しえた」
    • 「〔……〕北海道には、失った外地からの引き揚げ等で膨れあがると見込まれた日本の人口問題解決の地としての役割が直ちに与えられる。この人口受入のための北海道緊急開拓事業には北大植民学の人脈がそのまま拓殖学として存続していくことになるのである。ここが軒並み植民学から国際経学等への改組を余儀なくされた他大学と北大との大きな違いであった。」