フィールドワークレポート
1.無主地問題について
1-1.土地奪取の記憶
- 1-1-1.説明版を考え直す(奪取後の歴史の書き換え)
- 遺跡保存庭園の案内板では、竪穴住居が奈良時代末~平安時代にかけて作られたと記されている。しかし、この竪穴住居で暮らしたのは和人ではないし、この時の北海道はまだ日本に組み込まれていない。それ故、内地の時代区分を北海道史の歴史区分にそのまま当てはめてしまう事は、和人の歴史観で別の歴史を塗り替えている一例と言える。
- しかし、だからといって、擦文時代の人々をアイヌ人ということは出来ない。アイヌ文化は13世紀に成立したのであり、擦文時代にアイヌ人は居なかったのである。アイヌ人たちは遺跡保存庭園をアイヌ人の祖先のルーツの住居と見なし、竪穴式住居跡をアイヌ居住跡として見せようとするが、それはアイヌ人の歴史観を過去に遡及して自己の民族の正統化を図ろうとする現象の一例と言える。現在、遺跡保存庭園においてアイヌ人たちが勝手にイナウ(祭壇)を作り、儀式を行っているが、これも歴史の書き換えと指摘される。
- 1-1-2.誰が歴史を語るべきなのか
- 中立公正で客観的な歴史叙述など存在しない。歴史というものには必ず叙述者の立場やその時代の問題意識が反映される。だが、誰もが自由に好き勝手に歴史を語っていいのではない。歴史学において客観性を保証するものは、史料である。それは紙媒体だけでなく、考古史料や石碑や金石文も含まれる。先行研究を分析し仮設を立て、一次史料に基づいて分析し、仮説に対する結論を出し、歴史を叙述していく。
- それ故、誰が歴史を語るべきかという問いに対しては、誰もが語っても良いという事が出来よう。ただし、語られる側は読解力リテラシーを身につけ、どのような立場のどんな人間が、どういう歴史観から歴史を語っているかを理解できるようにならなければならない。
- 1-1-3.歴史は一つなのか?
- 上記1-1-2とも関連することだが、一つの歴史など存在しない。個々人がいるだけ歴史は無数に生成される。自己の都合の良いように歴史を改変し、あたかもそれが真実の歴史であるかのように思い込んでしまうこともしばしばある。それ故、歴史は多面的で複数存在するものであることを理解するべきである。
1-2.キャンパスの軸線を考える。
- 1-2-1.川の痕跡と集落の位置との関係
- サクシュコトニ川は農場と校舎の境になっている。札幌は碁盤上の計画都市であり碁盤の目状になっており、大学キャンパスもその例に漏れず、校舎群はメインストリートに沿って建設されている。しかし、ポプラ並木の配置はそうではなく、北西へと植えられているのである。これはサクシュコトニ川が大野池から大学キャンパス内を伏流して北西へと流れている自然環境と一致しているのである。遺跡保存庭園はこのサクシュコトニ川の川岸に存在して居る。ここから水などを得るために川の周辺に集落を作ったことが分かる。
- 1-2-2.海はどちら
- サクシュコトニ川は新川に合流して石狩湾に注ぐ。石狩湾は日本海である。
- 1-2-3.鮭の遡上
2.「開拓の歴史」とそれ以前の「先住民の歴史」との分断について
2-1.縄文・続縄文・擦文→アイヌ文化期→開拓期=農学校
2-2.アイヌ文化が抜け落ちていないか?
2-3.モデルバーンでアイヌ文化期、アイヌの歴史・文化について学ぶことは可能か?
- アイヌ文化が抜け落ちているからこそ、それが浮き彫りとなって学ぶことが可能となる。例えば、モデルバーンとメム(湧き水)の関係からアイヌに対する土地接収を学ぶことができる。モデルバーンは従来附属図書館周辺にあり、現在の中央ローンのメムを利用していた。そして現在の中央ローンの所まで、鮭が遡上していたのである。水辺で鮭が遡上する良いエリアにアイヌ人が集落を形成しないだろうか?形成する可能性が高いであろう。
- またモデルバーンには大きな楡が植生しているが、楡のアイヌ語はチキサニであり、火の神との意味である。モデルバーン内にある観光資源を通してアイヌ語を学ぶことも可能である。
- 以上のようにモデルバーンとニムの関係、及びかつてモデルバーンやメムがあった場所を調べることによって、アイヌの歴史・文化を学ぶことができる。
2-4.メムについて
- 2-3でも触れたが、メムとは湧き水が出る場所という意味である。札幌周辺にはメムがたくさんあり、サクシュコトニ川の源泉は植物園北側にある伊藤氏邸敷地内のニムである。また植物園自体がメムであり、これはセロンベツ川の源泉となっている。