Heritage tourism(008)【巡検】「円山の聖地三重構造に見る植民地都市としての札幌」

 今回の授業は「円山公園巡検」。先住民(アイヌ)、本国政府(明治政府)、入植者(民衆)が「円山」という地域をそれぞれ「聖地」と見なしていることを、実地で体験した。巡検では「円山」という観光資源から、「北海道開拓が近代日本の国民国家形成と帝国的膨張の側面を有している」ことをまざまざと実感することが出来た。よってここでは、札幌が内国植民地都市としての性格を有していることを中心にレポートをまとめていくこととする。


目次

1.「円山」という地名から見るコロニアルな視点(先住民にとっての聖地と「円山」の呼称)

 「円山」という地名からコロニアルな視点を考える事ができる。もともと「円山」はアイヌ語で「モイワ」と呼ばれており、その語源は「mo-iwa」=「小さな-山」であった(標高は226m)。しかしながら現在、札幌で「モイワ」と呼ばれている山は別に存在する。それが「藻岩山」であり、標高は531mである。標高が高く、札幌の夜景を見渡すことができる山が、小さい山という意味の「モイワ」と呼ばれていることは歴史の皮肉であろう。ちなみに「藻岩山」はアイヌ語では「インカルシペ」。意味は「いつも眺める処」であり、アイヌたちが日常的に眺めていた山として、信仰の対象となっていたことが分かる。
ではなぜ、モイワが円山となり、インカルシペが藻岩山となったのであろうか。その背景には、札幌の街造りの祖とされる島義勇と関係がある。島義勇は現在の円山公園から景色を見渡して札幌の都市計画を構想したと言われている。島本人は予算をめぐって政府と対立し、まもなく札幌を去ることになるが、その街造りは継承された。札幌の都市計画はアメリカのグリッド状都市の模倣と言われるが、島義勇は京都の条坊制を念頭に置いていたらしい。そのため、島追放後に代わった岩村通俊は、札幌神社の麓に入植した村に対して、京都の円山にちなんで「円山村」と名付けた。故に、モイワも円山と呼ばれるようになったのである。この時、モイワという呼称がいらなくなったため、隣のインカルシペが藻岩山と呼ばれるようになった。この事態に対し、行政側も標高531mの山をモイワ=小さな山と呼ぶのはおかしいとして、読みを取って「笑柯山」、意味を取って「臨眺山」と名付けたのだが、呼び方を変える事はできなかった(http://maruyamapark.jp/?page_id=1566 2019年6月4日20時11分閲覧)。
 「mo-iwa」の「iwa」には「先祖の祭場のある神聖な山」という意味もある。しかしアイヌとは全く関係のない京都の地名「円山」に変えられてしまった。また「いつも眺める処」である信仰の対象としてのインカルシペは標高531mにも関わらず「小さな山」になってしまったのである。こうしてアイヌの伝統的な信仰は日本の近代的国民国家形成の際に、飲み込まれてしまったのだ。ここに北海道の植民地性を見て取ることができるのである。

2.外地領土の領有を「国譲り」の神話に擬するモデルとしての「北海道神宮

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 北海道神宮(旧称「札幌神社」)には4柱の神々が祀られている。それが開拓三神(大国魂神・大那牟遅神少彦名神)と「明治天皇」である。明治天皇は昭和39年になって増祀されたのであるが、開拓三神を祀るという形式が外地神社のモデルとなったのである。開拓三神は、国土そのものの神霊である「国魂神」、「大国主命」の別名である「大那牟遅神」、大国主命と共に国造りをした国津神である「少彦名神」であるが、中でも「大那牟遅神」の神が重要である。それは何故かというと、外地の領有の正当性を「国譲り」の神話に擬しているからである。
 高天原から天津神であるニニギノミコトが「天孫降臨」をした際に、国津神のオオオクニヌシが葦原の中つ国の支配権を譲ったのが、国譲りの神話である。手塚治虫の『火の鳥』では騎馬民族征服説が、国譲りの神話に擬せられていたが、蝦夷地の国土の支配権を日本に譲るという意味で、開拓三神が祀られているのである。2019年GWにおける新天皇即位及び改元に合わせて発売されたノベルゲー『和香様の座する世界』でも天津神国津神の抗争がモチーフとされていた。
 そしてまた、北海道神宮は北海道だけで終わったのではない。なんと旧日本帝国の膨張の際に設置される神社のモデルとなったのである。台湾神社は1901年に台湾の総鎮守として創建されたが、その祭神開拓三神と台湾征討近衛師団長である「北白川宮能久親王」であった。しかもこの神社の跡地はグランドホテル「圓山」大飯店となっている。開拓三神を祀っているのは台湾神社だけではない、1911年に創建された樺太神社の祭神も開拓三神である。この後、帝国日本の膨張と神社の設置はセットとなっており、1919年創立の朝鮮神社の祭神は「天照大御神」と「明治天皇」、新京神社の祭神は「天照大御神」と「明治天皇」に加えて「大国主命」である。
 北海道神宮は景観的にも重要であり、聖俗を分離し聖域の結界となっている川(円山川)の配置や、神社山を後ろに背負って設計された空間構成など、神域としての景観を体験することが出来る。

3.植民地と「八十八箇所」の「写し」

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 上述のように「円山」はアイヌ語では「mo-iwa」であり、「iwa」は「先祖の祭場のある神聖な山」という意味がある。だが、「円山」には民衆により真言宗空海を祀る「大師堂」が形成される。1914年円山村の開祖とされる南部藩出身の上田万平が私費で円山の頂上までの登山道を開鑿した。すると翌1915年には、大師堂が建てられ、四国八十八箇所に見立てた八十八観音が安置されるようになった。札幌近郊には四国出身者も多かったらしく次々に寄進が増えていき、観音像は献納され続けていく。
 巡検では実地で、その八十八箇所の現場を見てきたが、空海真言宗以外の信仰対象もかなり雑駁に祀られており、日本の神仏習合八百万の神のカオスを感じることが出来る。
 個人的に興味深かったのは、稲荷神の祭祀である。2019年の春アニメで『世話焼きキツネの仙狐さん』が放映されているが、稲荷神は米の神様である。その稲荷神が見立て88箇所に祀られているということは、北海道における稲作を願ってのものであろう。これは米農家の努力や品種改良や土地改良に挑んだ農学の進展と考える事が出来るかもしれない。しかしながら、北海道の稲作に向かない地域で必死の努力をしてまで米食に拘る日本人というのも、現地に適応せず、自らの食生活を維持しようという点でコロニアルな側面を考えることができるであろう。
 余談となるが、この「八十八箇所」は満洲にもあったのである。日露戦争の旅順攻略戦では、大量の死者を出したことで良く知られているが、この日露の戦跡を弔慰したのが真言宗の僧:雲照律師だったのである。雲照律師は満洲に渡り、戦死者の菩提を弔った。さらに、大塔婆に光明真言曼荼羅を書き、白玉山頂に建立したのである。白玉山には後年になって忠魂殿が建設されたので大塔婆は旅順影現寺に運ばれ祀られるようになるが、この影現寺こそが、真言宗満洲開教の始まりの寺であった。この大塔婆の移転を契機として、旅順戦跡八十八箇所の石仏建立が始まることになる(http://www.houzenin.jp/ronbun/24/index.html 2019年6月4日22時39分閲覧)。このようにして、弘法大師を祀り八十八箇所の写しを作るという行為は、外地における人心の安定という側面を有していたとも言えよう。

4.まとめ

 今回の講義の円山公園巡検では、アイヌ、明治政府、民衆の3つの聖地として「円山公園」が捉えられていることを学習した。この三重構造からは様々な事象を読み取ることができると思うが、このレポートでは外地における植民地都市の形成の観点から文章を構成した。アイヌの地名という点については、円山と藻岩山の名称から先住民がもともと意味していたものと真逆の名称となってしまったことが分かった。北海道神宮からは外地の領有権を正当化するための手段として国譲りの神話に擬することが明らかとなった。円山八十八箇所からは植民地における人心の安定の手段としての真言宗の機能を見出す事ができた。以上のことから、札幌は「植民地都市」という観点からツーリズムを生み出すことができる。