雑録

【資料・先行研究】満洲国における観光と交通インフラ

観光と切り離せないのが交通インフラであり、交通網が整備されることにより、アクセス性があがる。満洲国の国都:新京(以前は長春)に至る経路は、満洲国建国以前は2ルートのみであった。すなわち大連航路か関釜航路かである。だが、満洲国が建国されると、第3の経路である北鮮航路が整備される。ここでは新京に至るまでのインフラを中心として、満鉄に関する先行研究をまとめていく。

目次

満鉄の経済的利益

  • 満鉄は、1931年以外は毎年黒字経営
    • 「〔……〕満鉄1年目の収入は1254万3115円、支出は1052万6530円、差引き201万6585円、予想に反して初年度から大きな利益をあげた。内訳を見ると、安奉線を除く本線が948万円の収入をあげ、全体の75.6%を占め、鉱業の11.8%を大きく引き離す。利益も410万円にたっし、他部門の赤字の穴埋めをしていることが解る。この傾向は8年後にも引き継がれているが、1911年(明治44)11月に広軌に改築なった安奉線は、広軌化が進むにつれて黒字に転じている。慢性的に赤字を計上したのは地方費つまりは鉄道附属地経営と旅館費であった。満鉄は銀価暴落と世界不況の影響を受けた31年(昭和6)をのぞいて毎年黒字をのこしたが、一貫して鉄道収入が他部門の赤字をカバーする体質は変わらなかった。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、26頁)

日本海ルートの整備(新京-北鮮航路-日本)

京図線(吉会線・敦図線)・北鮮鉄道・北鮮三港

  • 吉会線の意義
    • 満洲事変によって長年の懸案だった長大線と吉会線の二路線の実現が決まったことは、満鉄にとっても満洲国にとっても重要なことだった。〔……〕とりわけ、吉会線は日本と満洲を結ぶ最短ルートであり、ロシアと再び戦争になった場合、朝鮮から満洲中心部へ直接軍隊を輸送できるような重要な路線となることから、日露戦争直後から陸軍が強い関心を示していた。」(加藤聖文『満鉄全史』講談社選書メチエ、2006年、133-134頁)

  • 満洲国建国と敦図線の建設
    • 「満鉄に課せられた新線建設の目的には、朝鮮経由の内地との輸送の円滑化、対ソ連軍事作戦対策、北満や満洲中央部の農産物や鉱山資源の流通確保、日本ほかへの輸出があった。この目的にはなかでも軍事的な意味が大きな比重を占めていた。とくに軍部の念願だった朝鮮・満洲間の連絡路の確保は急がれ、建設引継線第1号は、京図線の一部をなす敦図線(敦化・図們)192キロで、32年5月に着工、翌年5月に完成し、9月に引渡された。敦図線の開通によって図們から朝鮮北部の雄基港、清津港への連絡が可能になり、さらに満鉄が33年6月から急ピッチで建設を開始した羅津港が35年11月1日に一部開港し、同日営業開始の雄羅線(雄基・羅津)と共に北朝鮮三港体制が完成したのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、136-137頁)

  • 大村卓一と北鮮三港の整備
    • 「朝鮮鉄道を管理する朝鮮総督府鉄道局の初代局長には、シベリア鉄道列国管理委員会や山東鉄道引継委員会〔……〕といった国際舞台での実績を買われた大村卓一が就任した。就任するや大村は真っ先に当時、抗日活動が活発でもっとも治安の悪かった朝鮮北部の開発計画を立案、羅津・清津・雄基の三港を整備し、満鉄が計画していた吉敦延長線と連結させ、朝鮮から満洲へかけての大規模開発の基盤とすべくその実現に邁進した。大村の計画は日本国内と満洲日本海を通じて結びつけ、その接続点に朝鮮を位置づけようとしたものだった。」(加藤聖文『満鉄全史』講談社選書メチエ、2006年、135頁)

  • 北鮮鉄道及び北鮮三港の満鉄の委託経営
    • 「〔……〕満洲の鉄道を北朝鮮の海港と結び日本と連絡するためには満洲北朝鮮鉄道統一経営が必要と考えられ、32年5月1日の拓務大臣通達で、「朝鮮内における接続鉄道(図們線、清会線、及び雄基、羅津線)及び終端施設は満鉄において建設し、清津及び雄基の既成鉄道並びに両港から南陽に至る朝鮮国有鉄道を満鉄に委託経営」させることが朝鮮総督と満鉄総裁に宛てて通牒された。満鉄が北鮮鉄道管理局を設けて委託経営を開始したのは、敦図線開業後の翌月10月1日のことである。その一方、朝鮮経由の日本海海運の充実は大連港の衰退を招き、満鉄創業以来の大連重視の方針の根幹を揺るがす事態をもたらした。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、137頁)

  • 吉会線-北鮮鉄道-北鮮三港
    • 関東軍は事変以前から吉会線を対ソ軍事作戦上、最重要と位置づけていたが、事変後も満洲国内に残った外国鉄道として喉元に刺さった棘のような東支鉄道に対しては、吉会線をはじめとした包囲戦をつぎつぎに建設して同鉄道の経営を圧迫し、自発的な放棄に導こうとしていた。そのため、吉会線の急速な実現が求められたのだ。〔……〕満鉄は、事変後になると一転して関東軍の要請とあればと進んで応え、11月1日には吉林省政府との間で吉敦線延長の急速完成を取り決め、翌1932年5月3日には天図軽便鉄道問題を含めた「吉敦延長線建設二関スル方針要綱」〔……〕が閣議決定された。工事は5月12日から始まり翌1933年9月1日に京図線(新京-図們)として営業が開始された。満鉄としては終端駅の経営権を握ったことで収益が見込めると判断したのであろう。そして営業が開始された月の30日には満鉄と朝鮮総督府との間で「朝鮮国有鉄道一部の委任経営契約」と「同上附属協定」が結ばれ、満鉄は北鮮鉄道〔……〕と呼ばれた朝鮮北部の鉄道路線の経営を委託され、清津に北鮮鉄道管理局を置き、あわせて羅津築港と雄羅線の開始を(1935年11月より業務開始)、1936年6月には雄基・清津の二港も朝鮮総督府から貸付を受け、ここに満鉄が日本海ルートと呼ばれる日本-朝鮮北部-満洲を結ぶ交通網を握ることとなった。」(加藤聖文『満鉄全史』講談社選書メチエ、2006年、138頁)

  • 京図線繋げただけ問題に見る日本の戦争計画のお粗末さ
    • 「〔……〕国内と満洲とを結ぶ最短ルートとしてあれほど軍部も政府も重視していた京図線(旧称は吉会線)は敗戦まで単線のまま、開通させることだけが目的でその後の本格的整備を誰もまともに考えず、大戦末期になってようやく輸送力増強を計画したがすでに手遅れだったことは、日本の戦争計画のお粗末さを象徴しているともいえよう。」(加藤聖文『満鉄全史』講談社選書メチエ、2006年、182頁)

北鮮航路の形成

  • 日本海航路
    • 満洲と日本をむすぶ主要なルートは、日露戦争末期からはじまった神戸―大連ルートと関釜連絡船を利用する下関―釜山ルートがあった。〔……〕さらにひとつ大陸から日本海側の港へのルートがあった。〔……〕30年には大阪―釜山―元山―清津―雄基間に月2便、敦賀清津間に月3便、敦賀ウラジオストク間に週1便と激増した。満洲事変後の34年には、新潟-清津-雄基間に月3便、敦賀―(清津・雄基経由)ウラジオストク間に月3便、敦賀清津-雄基間に月3便となった。注目されるのは朝鮮半島経由の付け根近い雄基港で、ここに月間の往復18隻全てが寄港することになった。これは33年9月に新京と図們をむすぶ京図線(528キロ)が開通したことによる。図們から北鮮東部線(147.3キロ)を利用して雄基港から、北満の農産物や鉱産物を日本に輸出できる最短路が完成したことを意味する。ただ雄基港は設備を拡大する余地に乏しいうえ風が強いことが難点とされた。いっぽう15キロほど南の羅津は大きな呑吐能力をもつ施設の建設が可能だった。日本政府の命令で満鉄では33年9月初めから測量を開始、雄基-羅津港間18.2キロの雄羅鉄道も完成させ、早くも35年11月から羅津港の利用を開始した。最終的には900万トンの呑吐能力、大型貨物船48隻を同時に係留できる世界でも有数の港が目標だったが、完成には至らなかった。貨物列車の所要時間は不明だが、38年9月の「満洲支那汽車時間表」によると、急行列車は新京-図們間は11時間25分、羅津までは13時間20分である」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、127-128頁)

  • 日本海ルートにおける輸送の優遇
    • 「〔……〕満鉄は、連絡輸送東端の日本海に開いた港を持たなかったため、このような連絡運輸(※引用者註-日露・日ソ間の日本海ルートでの運輸)が十分な機能を発揮することができない状態にあった。しかしながら33年(昭和8)10月1日から朝鮮北部の鉄道の経営を委託されたことにより、東端部の連絡ルートを手に入れたことになった。これは満洲事変後、日本政府が満洲の鉄道を日本海に面する港湾に到達させる方策を緊急の課題としたためで、その結果、朝鮮北部における図們線、清会線と、雄基、羅津に至る雄基線は羅津港を含めて満鉄が建設し、この両港から図們線の南陽に至る鉄道を満鉄に委託経営させることとした。〔……〕旅客、貨物の日本海ルートへの移動が図られ、とくに貨物においては哈爾濱発豆粕の特定運賃が大連経由の運賃より廉価に抑えられたほか、阪神地区発哈爾濱着の雑貨なども大連経由にくらべてトン当たり1円安くするといった方策がとられた。このような努力によって、日本と満洲とのあらたな輸送ルートが確立されたのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、178-179頁)

  • 三線連絡運賃問題
    • 三線とは日本国内の鉄道院線、朝鮮鉄道線、満鉄線のことで、この三線を経由して貨物を満洲に移入した場合、三割前後の運賃割引をおこなうという案である。この案によって阪神地方の綿糸布を中心とする約20種の商品を、それまでのように大阪・神戸港から大連港へ運ばれる経路から、山陽線を利用して下関港へ輸送し関釜連絡船-朝鮮鉄道線-安奉線経由で奉天へ運ぶ経路に変えようというのである。この案は、朝鮮鉄道線の充実と、広軌線開通まもない安奉線の軍事輸送強化に対応できると、寺内正毅朝鮮総督も推した。寺内にこの案を持ちかけたのが政商西原亀三だという。連絡運賃設定の会議は、中村総裁退任の1ヶ月前の13年11月から始まり、議長は野村鉄道院副総裁、満鉄の首席委員は犬塚信太郎理事だった。11月下旬に翌年4月15日からの実施が決まった。ところがこの三線連絡特定運賃は、満鉄が創業以来基本方針としてきた大連港重視に反するものだったため、大連の実業倶楽部(後の商工会議所)を中心に、市民を巻き込んだ激しい反対運動がおきた。〔……〕結果、連長線の貨物運賃の引下げなどの緩和策が同時に採用された。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、41頁)

  • 北日本汽船と日本海汽船
    • 「37年当時の敦賀・羅津・雄基航路は北日本汽船が経営し、月三便、敦賀・羅津間48時間30分、運賃3等16円(2等は2倍、1等は3倍)、この所要時間は途中清津に寄港するためであった。40年には日本海汽船が先に羅津に寄港するため38時間、清津までは41時間で運航した。以上のほかに新潟・羅津・清津間、敦賀・羅津・ウラジオストク間の航路が設定されていた。この日本海航路は、44年から翌年にかけて米空軍や潜水艦の攻撃で関釜航路や大連航路が運行不能の状態におちいったのちも、45年6月までは運行をつづけていた。しかし、6月中旬ごろにはその定期的な運航も不可能になったが、この航路は日本と満洲とを結ぶ最後のルートとして活動したのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、179頁)

  • 航路変化(大連航路・関釜航路→日本海航路)
    • 「〔……〕太平洋戦争で日本が制海権制空権の優位を失った43年春以降の「海上輸送陸運転嫁」以後、華北連絡線の奉山線、錦古線の比重はさらに高まっていった。こうして連京線中心の満鉄の輸送体系は大きく変わり、北朝鮮三港への輸送、釜山・安東間、奉天・山海関のルートに輸送の主軸が移っていった。〔……〕戦況の逼迫は、満洲にも大きな影響を与えはじめた。神戸からの大連航路は40年10月には23便を数え、41年度の利用客は32万7000人とピークを迎えたが、太平洋戦争開戦とともに減少した。船舶の多くが南方戦線に徴用されたことがその原因であった。また43年10月にいわば日本の内海である玄界灘で、関釜連絡船の新造船「崑崙丸」が米軍潜水艦の雷撃で撃沈された。年間305万7000人(42年)に達していた関釜連絡船の利用客が、大きな危険にさらされることになったのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、201-202頁)

大連航路・関釜航路

  • 関釜連絡船-安奉線ルートの誕生 日本本土と朝鮮・満洲を結ぶ連絡運転体制
    • 「〔……〕1912年(明治45)6月15日、奉天・釜山間の直通急行の運転が始まった。この列車は奉天で本線急行列車に併結し、長春で東清鉄道と連絡した。同じ日、日本初の特別急行列車が東京・下関間に運転を開始した。新橋を8時30分に発車、翌朝9時38分に下関に到着、下関から10時40分発の関釜連絡船により、午後8時10分釜山着。午後8時50分発の先に述べた連絡急行で新義州に3日目の午後3時50分着、そのまま鴨緑江を渡り、安東着は午後3時35分(当時の時差は1時間)。奉天着は午後9時55分、長春には4日目の4時50分着であった。所要時間は69時間20分である。こうして、日本本土と朝鮮・満洲を結ぶ連絡運転体制が成立したのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、33頁)

  • 関釜航路か、大連航路か
    • 「〔……〕13年(大正2)12月の鉄道院時間表の日露間連絡の頁には、関釜航路・朝鮮鉄道・安奉線経由の経路と、神戸から乗船する大連航路経由の時刻が掲載されている。それによると東京・奉天間の所要時間は、前者は62時間40分、後者は87時間55分である。その差は25時間と案外少ないというので実業家や高級官僚などはゆったりした大連航路を利用する場合が多かった。このあと鉄道の改良が進み時間は大幅に短縮されたが、汽船の時間はあまり短縮できないため、後には大連航路経由は鉄道利用にくらべてほぼ二倍の時間を必要とすることとなった。安奉線は単線ながら、改良工事とくに信号場の増設などにより幹線としての役割を果たすことが可能で、日本はこの路線により、大連からの満鉄本線と並ぶ二つのルートを確保することができたのである。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、33頁)

中国人の満鉄利用

  • 貨物収入から客車収入へ 客車収入は地域住民の足
    • 経理一元化により明らかになったことは、約8000キロに及ぶ国線の収入を加えても貨車収入の増加は二倍に過ぎず、国線沿線には貨物収入の増加に結びつくような産業が発達していなかったことを示している。「軍鉄一如」という言葉が使われたが、国線が、農業を含む地域産業の発展に資するという目的よりも、対ソ作戦を第一義に路線が敷設されたことを示すものと見てよいであろう。それに対して客車収入の激増は、軍隊移動の増加という側面は大きいが、そればかりではなく、国線は地域住民の移動を活発にしたものと言えよう。また国線が二万キロを超える自動車路線と結ばれるようになったことも、乗客増加の一因をなしたと考えられる(資料編253頁)。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、52頁)

  • なぜ満鉄で旅客数が増大したのか?
    • 「〔……〕漸増をつづけていた乗客数が飛躍的に伸びはじめたのは38年からで、前年の3600万人から6000万人弱に飛躍した。それ以降も増えつづけ、41年には1億人の大台を突破した。〔……〕40年の国勢調査満洲の人口が4320万人であったことを考えると、その膨大さが理解出来よう。私はここにはあげられていない地方中国人の利用増があったと推測する。33年3月から熱河地方に満鉄が始めた自動車営業は、せいぜい大車(馬車)の利用だけしか知らなかった地方の中国人に、文明開化の有難みを教えた。現在でも見られるように大荷物をもっての移動は、彼らの習慣であった。バスは長距離を迅速に移動する習慣をうえつけ、それとともに鉄道の利用も増えたのであろう。人口が多く産業が発展した地帯にはやがて鉄道が敷かれ、自動車路線は駅に連絡する路線に変化する。バス路線の延長距離はつかみにくいが、この時期には鉄道の距離に倍する2万5千キロ以上のバス路線が運営されたとされ(『第四次十年史』)、40年には2154万人の多数がバスを利用した(満鉄百科「鉄道に代わる自動車輸送」参照)。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、33-34頁)

満洲国の鉄道接収

  • 満洲国建国による諸鉄道の国有化(満鉄・北鉄除く)
    • 満洲国の成立によって、同国内の鉄道の運営は新たな問題に逢着した。それというのも、満洲には満鉄と北満鉄路以外に、1895年に建設を開始したイギリス借款鉄道である京奉鉄道が北京・山海関を経て奉天城に達していた。この京奉鉄道(北寧鉄路、満洲国内では奉山線)をはじめとして、同鉄道の各支線、奉天吉林間の瀋海鉄道及び吉海鉄道、吉長鉄道、吉敦鉄道、呼海鉄道(一部)、斉克鉄道、四洮鉄道、壺蘆島港の建設など、3000キロ近くに達する営業線を持つ鉄道が満鉄以外に建設されていたのである。〔……〕満洲国内の鉄道は、満鉄と北満鉄路を除く全ての鉄道は満洲国有鉄道として位置づけられた〔……〕これは明白な鉄道国有主義の宣言であると同時に、日本以外の外国鉄道資本排除の宣言であった。満洲国政府は、これらの鉄道経営と新線の建設を満鉄に委託する方向に進んだ。満洲国政府は、1933年2月9日、教令第8号で鉄道法を公布し、第一条で一般輸送用の鉄道の国有を定め、瀋海・呼海・斉克の三鉄道を収用した(資料編435頁)。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、133頁)

  • 満鉄による満洲国全域にわたる鉄道運営の開始
    • 「満鉄は3月1日(※引用者註-1933年)の声明で、満洲国政府から既成鉄道各線の経営と図們線(後の敦図線)ほかの新線建設を受託することを発表、同時に奉天に鉄路総局をおいて各線の経営にあたり、大連本社に鉄道建設局をおいて新線建設にあたることを発表した。この時から、創業以来満鉄が経営してきた大連-長春間の連長線(連京線)ほかを社線、満洲国から委託された鉄道を国線と呼ぶ。満鉄は社線の1140キロと、国線の19路線約2970キロを合わせた約4100キロの、満洲全域にわたる鉄道経営にあたることになったのである。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、89頁)

  • 北鉄買収
    • 「東清鉄道(中東鉄路)は、第一次世界大戦末期のロシア革命とともに、一時期、国際管理になったが、1924年5月の「暫行管理中東鉄路協定」および9月の「奉ソ協定」によって、ソ連張作霖政権の中東鉄路に関する利権が復活した。張作霖死後の29年7月、息子の学良は国権回復運動の一環として中東鉄路を強硬回収したが、12月の満洲里付近におけるソ連側との武力衝突で敗退、実権はソ連側に移った。〔……〕33年5月、リトビノフは太田為吉中ソ大使に、日本または満洲国への北満鉄路(中東鉄道)の売却を持ちかけてきた。外務省は満洲国による買収が適当であると判断し、6月末から東京で両国間の交渉が始まり、日本は満洲国の後見の立場をとった。満洲国側の実質的な代表は外交部次長の大橋忠一で実態は日ソ交渉であった。会議で紛糾したのは譲渡価格である。ソ連側は2億5000万ルーブル(6億2500万円)、満洲国側は5000万円を主張し、その開きは大きかった。会議は何度か中断し、「会議を重ねること56回、1年10ヶ月にわたる交渉」(『満洲国史』)となったが、買収価格1億4000万円、その他に従業員の退職金3000万円を支払うことで、35年3月23日に譲渡協定は成立した(資料編448頁)。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、150-151頁)

その他 おもしろエピソード

あじあ号」について

  • 観光列車としての「あじあ」
    • 「食堂車は36名を収用でき、定食のほか、あじあカクテルが人気だった。哈爾濱まで延長運転後は、ロシア人少女をウェイトレスに採用し、「国際列車たるこの列車に相応しい異国情緒を織込めて、旅情を慰めるに充分である」と紹介したり、「あじあ」を宣伝する満鉄リーフレットなどには、積極的に欧米人を登場させ、観光客の誘致を図っている。「あじあ」は、翌1935年(昭和10)3月の北満鉄路買収後、9月1日から哈爾濱まで延伸された。ただ路盤や橋梁が不完全なため「パシナ」による高速運転は不可能で、「パシサ」型機関車を使用して運行した。「あじあ」は高速運転可能な看板列車であると同時に観光列車の側面を強く持っていた。日本から奉天や新京に行く場合、神戸・大連航路から「あじあ」利用の経路より、関釜連絡で朝鮮経由の方が約半分の時間で行くことができる。それでも、大連から奉天、新京、哈爾濱まで高速列車を運転することは、観光客誘致に熱心な満鉄にとって、きわめて重要な点であった。アジア有数の港である大連から、満鉄が観光地として重視する満洲国内陸を結ぶ「あじあ」は、優美な英語パンフレットなどを介して、さかんに欧米各地に紹介されたのである。また、日本国内でも、37年から使用された小学校5年生の国語教科書に「あじあに乗りて」が載るなど、「あじは」は内外にその名を広め、技術的な成果だけにとどまることなく、いわば国威発揚の一端を担ったということもできる。」(財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年、148-149頁)

戦局悪化の中1945年2月の時点でもビールの飲み放題

  • 戦時下の中の満洲国・満鉄
    • 「〔……〕内地では44年には「決戦ダイヤ」と名づけて4月と10月に改正をおこなった。一等車・寝台車・食堂車が廃止となり、列車の速度低下、旅行制限があった。満洲では内地に比べて長距離乗車が多いことと、日本人が望む衛生的な食事を得ることが難しかったためか、44年12月の時刻表掲載の主要列車には、一等車・寝台車・食堂車が連結されている。朝鮮鉄道も同様である。45年2月に釜山から京城まで夜行特急列車に乗車した飯塚浩二東京帝大教授は、食堂車でいくらでもビールが飲めることに驚いている(飯塚浩二「満蒙紀行」)。満洲国・関東州では、43年4月1日から外食券が必要となったが、寿司屋・麺類食堂・ロシア料理店・中国料理店とともに、列車食堂・駅構内食堂(駅弁も)は外食券は必要なかった(昭和19年版『満洲年鑑』)。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、141-142頁)

満洲グラフ』

  • 満鉄弘報課
    • 「弘報課がもっとも力をいれたものが『満洲グラフ』(33年9月号~44年1月号)である。33年は2冊、34年は6冊、35年は1月号を刊行した後休み、5月号から月刊に移行した。44年1月号まで継続し、満洲国と満鉄の弘報を目的としていた。雑誌の大きさは最初菊倍判、後にB5判、雑誌の開きも右開き左開きなどの変遷があった。この時期は内地でもグラフ雑誌は『アサヒグラフ』が刊行されているだけ、世界のグラフ誌をリードした『ライフ』もまだ発行されてはいなかった時代なので注目を浴びた。ソ連の第一次五か年計画を世界に宣伝していたグラフ雑誌『C・C・C・P』を分析、参考にしたという(名古屋市美術館『異郷のモダニズム』展 図録)。〔……〕33年に3月に満鉄は満洲国内の経営と新線建設を委託され、従来の南満洲を中心とする鉄道から全満洲に、その規模を拡大した。『満洲グラフ』の創刊は、まさにそのような時期にあたっていた。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、229-230頁)

満洲国では輸出を前提に成り立っていた。

  • 輸出港のはずが輸入港へ
    • 「〔……〕輸出は増加せず、羅津は39年度からむしろ輸入が増加した。満洲内の人口増による農産物の国内消費の増加や、金肥の利用による大豆粕の輸出が不振になるいっぽう、38年5月の産業開発5ヶ年計画の修正による満洲国の生産財の輸入が増加したためであった。「大連初め満洲の各港湾は、第一次生産物、特に農産物と石炭の輸移出が運営の基礎であることを前提にして設計されており、……輸入を目的とする施設は限られたもの」(『満洲開発40年史 上』)だったため、各港で輸入貨物の受入れに混乱をきたした。」(天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009年、129頁)