【巡検メモ】博物館等施設見学10日目 群馬滞在編③集めろ古墳カード!第1話「東毛~中毛編」

ツーリズムによる地域振興及び周遊ルートの創造の手段として、よく用いられる方法がスタンプラリーである。近年ではスマホの発達によりアプリによるもののみに特化した事例もある(例えば北海道のゴールデンカムイのスポットを周遊させるスタンプラリーなど)。しかしこれも一長一短であり、メリットも大きい反面で、デジタルデバイドの問題や、わざわざアプリDLせねばならないことなど問題点も多々ある。2019年8月10日現在、群馬県の博物館に関するスタンプラリーとしては3種類が同時開催されている。すなわち、(1)群馬県博物館連絡協議会加盟の施設を回るもの(2019年5月~2020年5月)、(2)「東国文化ゆかりの地巡り 古代の群馬を探検せよ」(2019年4月26日~2019年10月28日)、(3)ぐんま古墳カード(2019年8月3日~なくなり次第終了)の3つである。この3つのスタンプラリーは同時並行的に行われており、対象スタンプが一つの施設で重複していると一気に複数のスタンプが手に入ったりもする。そのため、今回は古墳カードを中心に東毛~北毛を回ってきた。

東毛編

太田天神山古墳

  • 東日本で一番大きいことで有名な前方後円墳。小高い丘のような感じ。5世紀前半に造営され、水鳥形埴輪が出土したことで知られる。県内でも認知度が高いせいか、土曜日ということもあり家族連れがチラホラきておりビックリした。今回は2度目の訪問。1度目はまだ教員養成系大学院で教員になるための訓練に励んでいた頃、自然地理学の教授と共に巡検に来た。

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塚廻り古墳群第4号古墳

  • 6世紀前半の古墳で帆立貝形古墳。優れた造形の埴輪に加え、埴輪の出土位置がほぼ明確であり、埴輪祭式の様子がうかがえる。7基あるうちの4号古墳の埴輪祭式の特徴は首長権継承の儀式の再現。椅子に座る男の埴輪や、ひざまずく男の埴輪がある。
  • これまた自然地理学の巡検で思い出深い地であり、教授がショベルカーで地面を掘り起こして断層面を調査した際に、この古墳の周辺を掘り返したのであった。

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太田市立新田荘歴史資料館

  • 旧東毛歴史資料館。幼少のみぎり、亡き祖父に連れられて新田荘遺跡を訪問したことがある。上毛かるたでおなじみ「歴史に名高い新田義貞」の新田である。核となる展示は3つあり、新田荘の形成、新田義貞南北朝の争乱、そして徳川氏の祖としての新田一族である。
  • 新田荘は日本史選択者であれば寄進地系荘園を習う時に、領域型荘園の事例として登場するので知っているハズ。浅間山の大噴火により荒廃していたこの地を再開発して新田荘を成立させたのが、新田義重。義重は開発した私領の支配を確実にするため荘園を寄進する。義重(下司職)→藤原忠雅(領家)→金剛心院(本家)。そして1170年には荘園の領域が新田郡全域へと拡大された。短期間に領域型庄園を形成できたのは、領家の藤原忠雅の支援による。忠雅は清盛の娘を嫁にし、さらに清盛の後継として太政大臣となった。忠雅は平氏の力と公権力を使い、上野介藤原範季を動かし、公領部分を荘園化していった。こうして義重は新田郡という一郡規模の荘園を確立したのであった。
  • 徳川氏が源氏の血筋であることを正当化するために用いられるのが新田の子孫であるという伝承である。資料館で配布されているレジュメを要約すると以下の通り。新田の租である義重の子が義季。義季は世良田の地に長楽寺を建設し、臨済宗系となった。義季の子孫に親氏という人物がいるが、南北朝の動乱による新田一族の滅亡で流浪の身となり、三河松平家の婿養子となった。こうして松平親氏の子孫に家康がいるという設定である。

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中毛編

大室古墳群・前二子古墳

  • 大室公園として整備されており、前・中・後・小と二子古墳がある。前二子古墳は6世紀初めに造営された前方後円墳であり、アーネスト・サトウによって出土品の日本初の西洋学的な学術調査が行われた。ただ前二子古墳だけ公園外にあるので、探すのに戸惑うかもしれない。印象としては細長い石室が特徴的。中に入れるようになっており、感知ライトで電燈がつくし、奥には埴輪が配置されている。スタンプラリー「東国文化ゆかりの地巡り 古代の群馬を探検せよ」の前二子古墳のスタンプはこの石室の中にあるので探すのに苦労するかもしれない。

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総社古墳群・蛇穴山古墳

  • 昔、自然地理学の巡検で来た時には、小学校の校庭に古墳があることで有名だった。今回行ったら小学校は消え失せ公民館っぽい建物と総社歴史資料館が新設されていた。蛇穴山古墳そのものは7世紀後半造営された方墳であり、県内で最後につくられた大型方墳である。

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総社歴史資料館

  • 総社古墳群、山王廃寺、国分寺国府などの遺跡が総社・元総社地区に集中することから、古代群馬の上野国の中心地は前橋であると主張している。前橋と高崎の市の境界は入り組んでおり、国分寺跡は高崎市にあるが、遺跡群を観光資源として用いたエリア創出という観点からは、国分寺跡は総社の文化的同質性の中に組み込んでいる。

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三津山古墳

  • 七世紀後半の八角墳。本来八角墳は、畿内天皇陵古墳かそれに準ずる古墳に代表される。そのような八角墳がなぜ群馬にあったのか。八角墳の形態が確認できたことが、三津山古墳の史料的価値なのだとか。

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群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館

  • 三津山古墳のカード配布地であったので訪問するが、なんと土曜日は休みだった・・・。ほぼ全ての博物館は16時~17時の間に閉館となるため、ここから他のポイントに移動することはできず、おめおめと引き下がるのであった。事前の予習とか確認は重要ね。2度手間!